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分かり合える仲間に助けられた。研究者も人間関係が大切。新居浜高専 橋本 千尋 先生

インタビュアーの恩師である佐藤先生にご紹介いただき橋本先生にインタビューをさせていただきました。

環境の変化により性質が変わる高分子の研究

—今、どんな研究をされていますか?

今は主に、高分子の分子分光学的な研究をしていて、高分子の中でも、刺激応答性高分子、温度やPH、いわゆるいろんな環境の変化によって、急激に大きさが変わったり、親水性が大きく変わったりする高分子を扱っています。

—そんな高分子があるんですね。

面白い高分子ですよね。一度、高分子学会でもブームになりました。修士課程からそのテーマ、高分子の研究を始めて、ずっと今に至ります。。。

—同じ分野をずっと。。。すごいです。
 
 ただ、分子は同じなんだけど、どういうアプローチで調べるかで、色々変わってきます。佐藤先生と同じ研究室にいるときは赤外分光を使って調べていました。様々なアプローチができるということでブームにもなったんです。
 
分子構造を見ると、タンパクに似ていて、アミド基を持っていてアルキル基しかないというような、すごく単純なものなんですが、その高分子がタンパク質の温度による変性に似ているんです。基礎的な性質を調べたいので、ずっと同じ高分子で研究していますね。

高専だと色んな分野の先生が近くにいらっしゃるし、地域とのつながりが強く様々なことが自由にできるので、最近は、ファインバブルという小さな泡・・・

—あ、あんまり商品名出さないほうがいいですね(笑)

異分野、複数の先生との共同研究

お話を聞いていて面白いと思って取り組み始めました。一番最初は、「ファインバブルのサイズが測れないか」という話だったんです。最終的には、測れなかったんですけど。。。(笑)

それを機に、ファインバブルが面白いし、色んな人が取り掛かりやすい、素人も取り掛かりやすく、かつ、製品とかに力を入れていて研究しやすかったので、ここ5年ぐらい始めています。過去の論文があまりなく、学術研究としては少なく、面白いです。

また、研究を複数の先生と始めたりもしています。愛媛県に、石鎚黒茶という、ローカルなお茶があるんです。すっぱいお茶なんです。石鎚山という大きな山があって、そこで採れるお茶で面白いことができないかと始めました。硬水と軟水がありますよね。その硬水を使うと酸味が減ることが見えてきて面白いです。
 
新居浜高専にきて10年くらい経ち、主軸は、刺激応答性高分子なんですが、ここ数年で色んなテーマが出てきて面白くなってきているところです。
佐藤先生はじめ神戸大学の先生のところで、テラヘルツ分光も測定させてもらえることになったんです。「とても恵まれてきたな、幸せな状況になってきたな」と感じています。

ワトソンnote ノート アイキャッチ (31)

お互いにハッピーな人間関係を心がける

—一番研究に魅力を感じる時、面白いな、と思うのはどんなときでしょうか。

解釈で理屈が線一本通ったときが快感です。思いついたときは、本当に嬉しいですよね。まあ、なかなかないんですけど(笑)

ここ最近は、他分野の先生と一緒にできることがすごく楽しいと感じられるようになりましたね。

—学術研究の分野でも他の研究者との共同研究は多いんですか?企業も昔に比べてコラボが多くなってきました。他の企業と連携して商品をつくったり、地域に対して働きかけたりしていますよね。研究者は企業よりも昔からコラボをしていたのですか?

昔からしていた方はいたかもしれませんが、逆にものすごくプレッシャーになるような大変な共同研究もあると思うんです。結果を出さないといけなものもありますよね。最近特に、連携を促すことが国の助成事業でも増えてきているので、流れではあると思います。

—企業側からすると、産学連携の枠組みができれば国から補助金もでますもんね。(笑)

大きいと思います(笑)
もともと私は学生の時、ボスが連携の方針を取らない、連携に無縁の研究室にいたので、本当にここ最近ですね。一緒にできる共同研究が楽しいなと感じています。

でも、マッチングも大変だし、連携すればハッピーになれるわけではなく、人間関係も色々あって面倒なことが多いです。
最近やっとお互いハッピーになれるような人間関係をつくれるようになってきました。

子どものころは学校の先生になるつもりだった

—インタビュー前の会話で、そもそも研究者になろうと思っていなかったと伺いましたが、理由を聞いてもいいですか?(笑)
 
はい、もちろんです(笑)
私自身は、女系家族で女ばっかりだったんです。そして、おばあちゃんもおじいちゃんも、おばさんもおじさんも、ほとんど小学校の先生ばかりだったんですが、私の両親だけ先生じゃなかったんです。

私自身は、両親と違って先生になりたいと思っていたんです。小さい時から何か職を持ちたくて、女性がずっと働き続けられるのは、先生か看護師か、医者か、という意識を強く持っていました。

大学を選ぶときに、小学校の先生用になるには、小学校の先生向けのカリキュラムのある大学にいかないと当時なれなかったのですが、調べるとどうやら、一般の4年制大学に行けば、通信で教員免許がとれるらしい、と知って一般の大学に決めました。

私の希望としては農学部の方が良かったんですが、父親が電気工学系で、父親の工学部にしたら?の一言で工学部にしちゃったんですよ。(笑)

—えーーー

農学部も考えていたくらいなので、生物系がいいかな、と思い、選んだんですけど。覚えることがたくさんありすぎて、私には向いていないな、と思い、化学系に進みました。
 
大学に入るまで、「博士課程って何?」「研究者って何してる人?」と思っていて、研究室には4年から入ること等、研究室が何か、を大学に入ってから知ったんです。
 
3年生の時に、高専からの編入者が何人も来ていて、「高専生って面白い人たちだな」という印象がその時からありました。

自分の結果に満足がいかなかったので博士課程へ

修士一年の時に研究室を変わるんですけど、 修士課程に行くことに抵抗はなかったです。
博士課程に行くのか、就職するのかでかなり悩みました。「そいうえば、私、小学校の先生になるとか言っていたな」というのもありまして。。。

色んな経験してから先生になりたいという意識があったことと、博士課程にいく人ばかりで、かつ、研究をやり切った感もなかったこともあり、「ちょっと延長してやるか!」という気持ちで、博士課程に進みました。

—すごい。やりきった感。。。僕ありましたかね。。。なかったかもしれないですけど、これ以上研究できないぞ、というのがありましたね。

綺麗に結果が出ていたら辞めていたかもしれませんね(笑)

結局、博士課程でもやり切った感はなく、博士課程時の仕事を、論文として投稿しなおした時に、初めて糸が見えてきました。意外と論文がすんなり通り、その時に一番やりきった感がありました。研究を辞めてもいいと実は思ったんです。

博士課程が終わった後、ポスドクで、色々うろうろ流浪してたんですけど、、、それが30歳前後で、この流浪していた時期が一番苦しかったですね。

—どれくらいポスドクをされていたんですか?

うーん。6年ぐらいポスドクをしていて、そのうち4年間、佐藤先生と同じ関西学院大学の尾崎研究室で席を並べていました。私も独身だし、そろそろ定職につかないといけないと思ったのですが、今更小学校の先生、、、タイムアウトになってきてしまったと思いました。

大学の博士課程や、ポスドクの仲間は、大学のポジションをみんな目指していたんです。でも、私は、自分が大学の先生になることに激しく違和感がありました。

大学教授を目指すことへの違和感

—違和感というのは?

私には務まらない、という気持ちです。
ずっと研究をして、申請書出して、研究費もらって、研究して、、、それだけで生きていくことがしんどすぎて考えられなかったですね。
皆さんが「大学の先生になりたい」と言うのを、本当に居心地悪く実は聞いていました。(笑)

なかなか相談相手もいなくて、もし大学に勤めることができたとしても、それで一生生きていくのは辛いと思っていた時に、高専が出てきたんです。

—何がきっかけで高専が出てきたんですか?

その当時、高分子学会に、女性研究者の会という、お弁当食べながら女性研究者の方と話す会があったんです。今も九州工業大学におられる毛利先生が新居浜高専出身の女性で、「新居浜高専で先生を募集していて、できたら女性の先生を募集しているので行きませんか」とお話ししてくださいました。ずっと忘れていた高専という存在を、就職先として思い描くようになりました。

研究者と同じくらい教育者でいたい

私が学部3年生の時に出会った高専生も個性豊かで、かつ、よく勉強もしていて、実験も頑張っているし、高専の良いイメージを思い出したんですよね。さらに、高専では研究もできることを知り、「これは私のためにあるんじゃないか」と思いました。

高専だと研究はもちろん、研究者としても活動ができるんですけど、教育のウェイトもすごく高く、研究者よりもまず教育者として求められます。

私は、高校の教員免許は持っていたんですけど、教員免許を持ってなくても高専の教員にはなれるんです。「教育現場にもいられて、かつ、研究もできるなんて、行くしかない!」新居浜高専に就職を決めました。

今は、本当にありがたい、高専があって良かった、高専で良かった、と思います。

—そうですよね。天職ですね。

自分自身に対するプレッシャー

—女性研究者の九州工業大学の先生に会うまでが特にしんどかったとお聞きしましたが、一番大変だったことは何ですか?また、どうやってそれを乗り越えたんでしょうか。

一番つらかったのは、博士課程を卒業後の2年間、卒業した大学院のポスドクのポジションにいて、その後4年間関西学院大学にいた時でした。プレッシャーをずっと感じていました。

—プレッシャーとはどんなプレッシャーですか?

いつか就職しなければならない、というプレッシャーです。もともと教師志望だったので、企業に入って切磋琢磨して競争することに後ろ向きでしたが、そうすると、大学の先生に本当になれるのだろうかと思っていました。

—「就職しなければ」は、誰かに言われていたのですか?

自分が一番感じていました。働きたい気持ち、自活したい、という気持ちが強かったです。安定したいという気持ちも大きかったです。

お互いの立場を分かり合える仲間に助けられた

—毛利先生と出会ったのは偶然なんですよね。出会うまでに、プレッシャーを抑えるためにしていたことはありますか?
今考えれば、毎日佐藤先生と話してたことは、すごく精神的に良かったと思いますね。6年間ポスドクをしていましたが、状況としては、まわりにポスドクが6、7人いて、孤独にならなかったことは大きかったと思います。大学にいる人もいて、研究所にいる人も色いろですが、仲間がいたのは良かったです。

人の行き来があって、考え方はそれぞれ違いますけど、「似たような立場の人がたくさんいたことは、すごく乗り越える力になった」と思います。「毎日愚痴を言いあう、苦しみを分かち合う」、はなかったですが、「お互い立場が分かる、その上で話ができる」、そういう人がたくさんいた環境は大きかったと思います。

学会の女性研究者の会も、外部に出て人と話すというのは、大事でした。

—大きな失敗をした、変えられるならこの道を選んでいなかったという出来事はありますか?

失敗はたくさんしてるんですけど、、、(笑)今、一番大きな失敗と思うことは、「もっと早くに覚悟を決めれば良かった」ということです。

もともと研究者の道を知らなかったし、研究者の青写真を全く持っていませんでした。見えた時に、すぐ無理と思わないで、もっと早くに覚悟を決めて、真摯に取り組んでいたら、また状況が変わってただろうと感じます。

—こればっかりはわからないですもんね。

6年間ポスドクをしていた時、関西学院大学の4年間は上向きになってきていましたが、その前の2年間は頑なでした。他の大学のポスドクのポジションもあったんですが、その当時自信がなかったので、外に行こうという感覚が強くなく、せっかく機会があったのに譲ってしまったりしていました。今思えば、とにかく挑戦した方が良かったと思いますね(笑)

学生にはのびのび生きていって欲しい

—学生だとどんな学生との出会いが印象的ですか?

学生さんを見ていると、勉強もできるし、性格も良くて。良いもの持っている、という学生さんがたくさんいます。教えながら頭が下がるというか、素晴らしい若人がいる、ということを日々感じます。のびのび生きていって欲しいです。

高専だと、意外にそういう学生が、大学に行かなかったりするんです。学業ができるから大学進学するわけではないので、「企業にとって非常にいい学生を採用しているぞ」、と感じています(笑)愛媛にいると、そういう学生が案外地元に残ったりしていて、こういう学生がいるから企業や地域が継続されていくと感じます。

色んな人生があると思いますね。
高専で、勉強のやる気をなくして中退して、その後大学、大学院修士まで卒業して、地元に戻ってきて仕事し始めたりする学生もいました。遊びに来てくれて、大人になった姿、生き生き仕事してる姿を見ると、すごく嬉しいです。

高専、いいですよ!

—最後にお聞きします。未来に向けて、これから挑戦していきたいことありますか?

刺激応答性高分子の一番やりたい研究をできていなくて、、、(笑)やってはいるのですが、納得のいく論文を書けていないので、研究者人生で完成させたいと思います。

また、最近色んな方との交流があって幸せな状況にあり、石鎚黒茶を機会に下の年齢の方とも一緒にできるようになってきたので、年齢の下の方とたくさん仕事ができるようにしたいと思います。

—若手研究者たちに一言メッセージをお願いします。

私よりはうまく羽ばたいてほしいです。若手研究者の人で、就職に迷っている人がいたら、「高専、いいですよ」と言いたいですね。向いている向いていないはあると絶対思うのですが、もともと教師志望だった人にはおすすめです。

福利厚生も良いみたいです。女性が妊娠出産で研究を離れた時に、継続しやすいように人を雇える制度や補佐員をおける制度があります。もう一度リスタートするときの研究補助も出ます。
 
もし家族の介護等が必要で、別の県に行かないといけない時、その別の県の高専の先生とマッチングして、別の高専で数年仕事ができる同居支援プログラムという制度も整備されています。私も、出産で離れたとき、リスタートの研究助成をもらいました。


橋本先生ありがとうございました。

キラキラした部分だけじゃない、先輩研究者の皆様の不安だったこと、悩んだこと、どうやって乗り越えたかをどんどん発信していきます。
次回もお楽しみにしていてください。

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