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「専門家会議」ではなく、「賢人会議」としての日本学術会議の役割を考える。MMTについて、コロナについて、原発について。(ステファニーケルトン『財政赤字の神話』読みかけで考えた)


 今、MMTの提唱者、ステファニー・ケルトンの『財政赤字の神話』を読んでいる。わかりやすいが、MMT関連書をたくさん読んできたので、目新しいところはそれほどない。

 私は、経済学に関しては全くの門外漢なので、この理論が正しいのかは判断できない。が、説得力はある。これまで読んだMMT関連書も、読めば納得できる。

 一方、反論している緊縮派の経済学者の言うこと(これは、政府財務省の財政均衡重視消費増税派も、立憲民主のブレーンの井手英策氏など、政治的には左右を問わずである)の、MMTへの反論には納得できたことがない。

 ただ、MMTに基づく反・緊縮政策に舵を切った時、万一、ハイパーインフレが起きたら、という恫喝に、「100%ない」と反論できるだけの自信が私には無い。個人的にはコロナ危機で世界中が大幅な財政出動をある期間続けている今と言うのは、世界中でお金がじゃんじゃん発行されているわけなので、日本の通貨だけが暴落するリスクは極めて低いので、反・緊縮、減税路線に舵を切るには最適なタイミングなのではないかなあ、と思う。

 本論は、MMTや緊縮、反緊縮どちらが正しいのかを論じるのが目的ではない。冒頭書いた通り、私は経済の門外漢なので、分からない。

 となると、すぐ経済の〈専門家〉はどう考えているのだろう、という話になる。今日は、その、「専門家に聞いてみよう」「専門家が決めるべき」という発想について、それは間違っているのではないか、ということについて、論じてみたいのである。

 コロナ危機の当初の4月8日に、私は「NHKスペシャル「感染爆発をどう防ぐか」山中教授と尾身先生への評価の違い。「新型コロナ対策は専門家の言うことを聞け」の妥当性を考える。」というnoteを書いている。これ、私が書いた百本以上のnote記事の中で、二番目に多いアクセス数があった。数千人に読んでもらっている。もしよかったら、上記下線部をクリックすると飛ぶので、読んでみてください。

 NHKスペシャルでオブサーバー的に参加したノーベル賞学者山中伸弥教授は、コロナウイルス、感染症の専門家ではないが、視聴者の支持納得を強い支持を得たのに対し、感染対策の責任者尾身教授には批判的な声が集まった。これはなぜか、というのを二枚のチャートを使って解説した記事だ。

専門家1

専門家2

一部引用すると
「こうしてみると、山中教授に関して、NHKスペシャルを見た人が感じたのは
軸1「感染症の専門家ではないが」
軸2「とても頭が良くて視野が広くて考え方が柔軟で」
軸3「志の高い人だ」と思ったわけだよね。

これに対して、尾身先生に対しては、こういう印象を持った人が少なからずいたということだよね。

軸1「感染症の専門家だけれど」
軸2「頭がちょっと固くて、視野が狭くて」
軸3「政権、役人に流されて、彼らの都合の良いことを言うタイプの人だな」

 引用おしまい。つまり、専門家というのは、直接的にその問題の利害関係者であり、学会内で対立する意見の人と常に対抗関係にもあり、また予算獲得やポストの獲得競争で政府の意向にも配慮せざるを得ない。感染症の専門家というのは、実は、その問題について、公正な判断ができないのではないか。裁判の「被告と原告」と同じような、論争の当事者になってしまうので、公正な判断は、「専門外のことについても、素早くポイントが理解できる、利害関係にない、別分野での高い学識と知的能力と公正な倫理観を持つ人」、つまり山中教授のような人にしてもらった方が良い、というふうに、視聴者が感じたということ。

 そして、このことは、「MMT」「緊縮、反・緊縮」をめぐる経済理論と経済政策についての議論でも、同じなのではないかと、僕は思うわけです。

 自民党政権も、立憲民主党も、つまり「消費増税路線」を進めてきた、「菅直人政権から菅義偉政権」まで、それを裏で誘導してきた財務省の役人、それを理論的に支えてきた経済学者たちというのは、仕事人生の大半を「緊縮・財政均衡は正義」という路線で生きてきたので、今さら後に引けないことになっているわけです。これは論理的に正しい正しくないではなく、今まで自分が生きてきた仕事人生、キャリア全体の存亡がかかっている。学者人生、役人人生すべてをそのことに捧げてきたのに、もしそれが間違いだったとしたら、自分の人生は意味がないではないか。

 これは原発を「正しい」と思って推進してきた原子力村の役人と学者のことを研究をしていてよく分かったことなんですね。「今さら、間違っていたと言えない」という心理。人生が無駄だったと思いたくない心理。

 ですから、「緊縮・財政均衡・消費増税」陣営の役人と学者と言うのは、MMT推進者、反・緊縮路線を唱える政治家や学者のことは、何があってもぶっ潰そうという言動、行動に出る。親の仇みたいに憎む。蛇蝎の如く嫌う。「頭おかしいんじゃないの」と批判する。これは、人情としてはよく分かります。地動説を唱えたガリレオが、コペルニクスが、徹底的に攻撃されたことに、MMTがたとえられるのは、それくらい、既存の価値観、それを唱えてきた「天動説の教会と学者」全てが否定されるからなんですね。

 原発問題がそうだったように、「引くに引けない原子力村の人たちの人生」のために、日本の政策を誤り、日本国民が不幸になる、というのは、どう考えても間違っているので、ここは、そういう「人生を賭けた引くに引けない専門家」と「その人たちを攻撃する反原発についての強い政治的主張を持つ人」という、専門家同士の対決に、日本がどう進むべきかの議論を任せるのは、正しくないと思うわけです。

 で、思い起こすに、福島原発事故の、国会の事故調査委員会の委員長は誰だったかと言うと、黒川清氏(医学博士、東京大学名誉教授、元日本学術会議会長、元内閣特別顧問)です。ね、原子力工学の専門家では無いでしょう。そして、今、話題の「日本学術会議」の会長ですね。

 つまり、MMTが正しいのかどうか。それに基づいて、現在の緊縮・財政均衡路線から、反・緊縮政策に、経済政策を大胆に変更すべきなのかどうか。これは、今の日本の政治にとっては、他のいかなる問題よりも深刻かつ根源的な問題だと思います。ですから、このことを、利害関係者である狭い意味での専門家、経済学者の論争に任せるわけにはいかないというのが、私の意見です。

 なにごとかについての真実を追い求め、その時点での最も正しいと思われることの限界を見極める、学問の世界と言うのは、分野は異なれ、そのための厳密な思考方法、判定方法を共有しているわけです。そこには政治的偏向は、極力入らないようにされています。そういう態度で生きてきた、学者さんたち、専門は様々な学者さんたち、この場合には、経済門外漢の学者さんたちに、MMTをめぐる議論に参加してもらい、答申をもらうべきだと思うわけです。利害関係者の経済学者さんたちには、「被告・原告」の席に座ってもらって。「裁判官」の位置には、利害関係者は座らないようにして。

 こういうふうに、ちゃんと考えれば、日本学術会議の存在意義と言うのは、政策ひとつひとつについて、政府が、自分に都合のよい専門家を呼んで政策を進めるための「諮問委員会」「専門家委員会」とは、全然違う性格のものだということがわかりますよね。

 ひとりひとりの専門領域の、専門の研究内容ひとつひとつが、一般国民に理解される必要は特にないわけです。そんなこと、無理です。そうではなくて、学者の世界の中で、「この人は各分野で高く評価されていると同時に、何が学問的立場から正しいと考えられるかと言う、その思考方法、態度において非常に信頼できる人物である」という仲間を選んで、専門を超えた重要な問題について「賢人」として判断をして、提言をするという組織なわけです。

 「専門家会議」ではなく、むしろ、専門ではない難しいことについて、即座にポイントを理解できる頭脳と、それを判定するにあたっての公正な方法論を身に着けた賢人たちが集まっている。

 各人が政治的に、一人一人が完全に中立であるということはありえないと思います。各個人が個人として政治的意見を持ち、活動をしていることは、それは基本的人権として妨げることができないわけですから。だからこそ、政治的意見立場によらずに委員は選んで、集団として、政治的には多様な立場を包含しつつ、「学問的に正しいと判断する」その高度な判断と公正さが期待される組織が、学術会議だと思うわけです。

 「日本学術会議」というと「専門家委員会」の規模のでかいもの、と普通の人は考えがちなわけですが、それは違う。普通の人にわかりやすく言うと、「賢人会議」である。

 尾身さんが集まっているような、政権に流される専門家会議ではない。山中さんのような、頭が良くて、信頼できる人が集まった会議である。そういう風に理解すると、菅政権がやろうとしていることが、「尾身さんのような政府に忖度しながら判断する専門家会議」みたいに、学術会議をしようとしているということが分かります。それはまずいですよね。予算や人事で思い通りにしようとするのは、まずいわけです。

 MMTについても、「経済の専門家に聞いてみたい」という意見は、以上のような理由で間違っているわけです。賢人会議に聞いてみるべき問題だと思います。

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