見出し画像

数字と物語①──再現性と一回性の波打ち際

「はかどる」と「はかない」

「はかどる」と「はかない」──それぞれ「仕事の効率」と「無常の美意識」に紐づくふたつの言葉は、実は「はか」というおなじ概念でつながっている。

はか、という言葉を辞書で調べてみると、「時間に応じた、仕事の進みぐあい」とある。もとは稲を植えたり刈ったりするときの田んぼの一区画のことをいったそうだ。どれだけの米がとれるのか、どれだけ能率的か。「はか」は、なにかを「量る」ことを意味する。数字で管理することだ。

「はかどる」の言葉はここからきている。一区画を効率的に植えたり刈ったりすること。遅れや無駄なしに、目当ての量を得ること。「はかばかしい」という言葉もある。生産性が高いことは今も昔も価値を持つ。

一方で「はかない」という言葉もある。「はか」がない、つまりなにも生み出さないこと、頼りなく無駄なこと。効率がなく量ることができない、というと負の印象を与えるけれど、いつからか人は、束の間のものやあっけないものを尊びもしてきた。川の流れや、桜の花の散り様。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」とか「待ちし桜もうつろひにけり」といった言葉が醸すもの──。仏教とともに伝わった無常観と接続する。もののあわれ、わびさびや幽玄に通じる美意識だ。

おなじ「はか」から出発した二つの概念。はかどっても、はかなくても──つまり「はか」があってもなくても、それぞれなんらかの価値があるとみなされる。この一見不思議な両義性が、日本の文化に通底する、特異でおもしろい点のように見える。

でもはたして、「はかなさ」という効率の悪い価値は、現代社会において、どれだけ意味を持ちうるのだろうか。果報は寝て待て、とか、急がば回れ、とかいうものの、効率が悪いとなれば、いくら美意識とはいっても、他者に受け入れてもらうことが難しくなる。

グローバリズムとひとつのものさし

一歩下がって大きな視野で社会を見てみると、グローバル資本主義のもとでは、量る/測ること、効率がなによりも重視される。数値目標を達成し、組織の規模や売り上げを拡大すること。それは成功の再現性に重きを置くことだ。ひとりの従業員が病に倒れても、別の誰かが置き換えられるように準備をすること。測る、数値化することで、事物はお金に換算され、別の事物に交換可能になる。

計測はあらゆることを可能にする。たとえば計測は基準を統一し、比較検討を可能にすることで、利便性や安全性を担保する。基準が統一されると、経済はもちろん、教育も医療もジャーナリズムも国境を越えることができる。測ることは世界を小さくした。測ることは、思い込みによって現状や未来をなにかと悲観してしまいがちな我々に、「好都合な真実」を教えてくれることもする。たとえば計測データ、つまり事実をみることの大事さを思い出させてくれたロスリングの著書『ファクトフルネス』は記憶に新しい。測ることの好ましい側面はいろいろあるだろう。

一方、ものさしがひとつになれば、副作用も産む。江戸文化研究者で法政大学総長の田中優子氏は、グローバリズムの特徴は基準の覇権を生み出すことにあるとした。経済、測定、貧富、学制、医療の基準が統一される。数字による比較はものごとを単純化でき便利な反面、比べる価値観自体がひとつになってしまうという危険性をも孕んでいる。全てのものが、ある尺度の上で数値が高いか低いか、という単純で暴力的な比較の対象に乗ってしまう。ひとつの物差しで測ることのできない多様な価値の消失を誘うものだ。月並みな例示だが、日本では米国発のAmazonやUber Eatsといったサービスが享受できるし、どの街でもファストフードやコーヒーショップのチェーンにアクセスできる環境がある、つまり「はかどる」世界観とグローバルな利便性がある一方で、ローカルな多様性を、つまり小規模な商店やビジネスや文化を、結果的に奪っている状況は否定できない(当然、グローバリズムこそが情報や人やものを運び、ローカルのビジネスを後押しする、という点も忘れてはならないが)。

ナイジェリア・イボ民族出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはステレオタイプや差別意識のテーマを扱うあるスピーチでこう言った。

シングルストーリー(ひとつの物語)は固定観念を生み出します。固定観念の問題は、真実でないことではなく、不完全であることです。固定観念は、『ひとつの物語』を『唯一の物語』にしてしまいます。

この言葉は経済の文脈をもつものではない。しかしグローバル社会のなかで数値化・単純化を踏まえた比較が行われやすいこと、多様性が失われやすいことを踏まえると、実は地続きで捉えられるものだろう。グローバリズムは「基準の覇権」を強化して、ひとつの価値基準、評価基準を生み広めていくものだ。注意しなければ、「ひとつの物語」を「唯一の物語」にすることに加担してしまう。ひとつだけの物語が、多様な物語の存在を脇へ追いやってしまうのは、歯がゆいことだ。

「はかどる」価値観は、ビジネスを超えて日常生活の領域にも侵襲しているように見える。私たちはソーシャルメディアで「いいね」やフォロワーの数を競うことに夢中になる。人を慕ったり敬ったりする気持ちも、そこでは数に還元され、短期的な情報消費のサイクルに巻き取られていく。感情すらも数値化され、測られる。

「はかどる」コミュニケーションとは「いいね」を集めやすいものだ。すぐにわかりやすいもの、時間のかからないもの、時機を捉えたもの。問題はそれそのものというよりも、いいねを集めにくいものがメディアに扱われなくなること、重視されなくなることにある。我々の意識に遅効的に作用したり、時間をかけて味わいを増すようなものは、ソーシャルメディア上にのりづらい。

画像1

デザインと、はかどることと、はかないこと

もとをたどれば、「はかどる」はずのあらゆる経済行為は、そしてあらゆる起業は、なんらかの個人的で非合理的なビジョンのもとにはじまったはずだ。未だ見ぬものづくりに取り組みたい、とか、こんな社会をつくりたい、といった思い。その個人的なこだわりは、数字に置き換えることの難しい、至極「はかない」考えに端を発している。個人のなかにある思いに行動が伴い、起業やものづくりがはじまる。これは再現性からはほど遠い、一回性の動機による。あるひとりの「はかない」取り組みが、社会のなかに小さく投じられたのだ(この対比や揺れ動きを、私は「強い文脈」と「弱い文脈」という言葉に託して、昨年『コンテクストデザイン』という本で検討した)。

私はデザイナーだ。デザイナーとして仕事をすることは、「はかどる」と「はかない」のあいだを揺れることなのかもしれない。デザインは、ものの色や形を決めることにとどまらない。企業のビジョンやビジネスのありかたを言語化・視覚化することも含まれる(実際のところ、私の仕事の大半は後者に属している)。大きな組織のよりどころとなるビジョンを言語化したり、その組織「らしい」新規事業を立ち上げたりもする。プロセス全体を、組織の人々とともに伴走する。デザインの仕事には、依頼主の日々の仕事の生産性を高めることも、遠い未来に向けた儚い思いを具現化することも、両方含まれている。そこでは常に揺れ動く悩みがある。目の前の数値目標を追う努力が、遠くにある本来目指すべきビジョンを見失わせてしまっていないか。または、長期的に達成すべきゴールを思い描くことが、今日やるべき仕事の効率を過度に落としてしまってはいないか。仕事をすることは、日々「はかどる」と「はかない」の思考を切り替えたり、重ね合わせたり、揺り動かしたりすることだ。

数字と物語──再現性と一回性の波打ち際

「はかどる」と「はかない」をどのように捉えるかべきか。これはなかなか難しい。ふたつのあいだに境界はあるのだろうか。またこのふたつは、別のいろいろな対比に置き換えることもできそうだ。群と個、論理と情緒、平均値と外れ値、普遍と個別、統計と具体例、自然科学と人文科学……。言葉の組み合わせが変わると、当然、捉える事象も、紐づく概念も様々に変化するし、全てが「はかどる」と「はかない」に重ならない──ときには大きくはみ出したり、境が曖昧になったりする──ことも多いだろう。でも、このような連想を重ねながら、比較検討をしてみたい。ふたつの概念をどのように捉えることができるか、考えてみたい。

ふたつの概念は、大まかに「数字」と「物語」の対比と捉えられる。「再現性」と「一回性」ともいえるだろうか。これを単純な二項対立としてではなく、思考を深めるきっかけとして捉えてみたい。そのために、いくつかの記事を書いていきたい。記事を書くのは、何よりも私自身が思索するためだ。記事は、必ずしも、というかまったく、精査された研究のかたちをとらないだろう。むしろカジュアルに綴る文章の形態をとる。散歩のように、寄り道や蛇行をすることもあるはずだ。ときに間違った解釈や検討も含まれるかもしれない。もし読んでくれる方がいて、そういった間違いを見つけて私に教えてくれるなら、または異論を投げかけてくれるのならば、それはとてもありがたい。それによって、思索がさらに深まることになるはずだから。

境界の見えづらい、そしてまだ答えのない「再現性と一回性の波打ち際」を、これからそぞろ散歩してみようと思う。


次の記事:


記事執筆は、周囲の人との対話に支えられています。いまの世の中のあたりまえに対する小さな違和感を、なかったことにせずに、少しずつ言葉にしながら語り合うなかで、考えがおぼろげな像を結ぶ。皆社会を誤読し行動に移す仲間です。ありがとうございます。