見出し画像

「文章」で表現したいと願うのは、私が理想主義者だから


冷静に普段は社会人やりながら『アラサーOLのモーニングルーティーン』とか『休みの日Vlog』とか、そういうYouTube動画をしっかり編集してアップしているクリエイターの方々みんなを尊敬せずにはいられない。同じく社会を生きる私、普段の生活に飲まれて日々を切り取る気にもなれないし、そもそも切り取ってネットの海にさらせるような綺麗な暮らしはしていない。部屋はべつにおしゃれじゃなくて、あくまで自分が快適に過ごせるような導線づくりが優先だし、毎回出かける前は決まって服で散らかるし。

これは私がずぼらなだけで、動画にしよう!と意気込めばおのずと身の回りを綺麗にするだろうし、丁寧な暮らしを送る自負でそれらしい佇まいになれるのかもしれない。けれど、私がそういった動画で発信しないのに文章では何かを表現したいと思っている所以は、自分の理想主義的な一面があるからなのでは?と思いました。

動画だと、カメラを回す時点で本当のリアリティではないにしても、少なくとも現実世界のものが映る。それは物質的で、目に見えてきちんとわかるイメージがあって、だからこそわかりやすいし、最近は色んな人が動画を情報収集の手段として活用しているのだと思う。

その一方で文章は、書いて表す、どこまで具体的に言葉を詰めたとしても、そこに物質的なイメージはなく(写真とか挿入する場合は別だけど)、あくまで読む側の創造の中で世界が作られていく。

文章であれば、受けとってくれたその人の中で世界が完結する。私自身の身の回りを、誰かに見せるために体裁を整える必要はなく、あくまでありのままの自分を文章で伝えることができる。言い換えれば、私は嘘をつきたくないのかもしれない、発する何かが、ありのままの自分から出されたものでないと、気が済まないのかもしれない。

私って理想主義者なのかしら?と思った所以は、ここにある。変なところで完璧主義で、理想主義なんです、きっと。自分の生活をよく見せることに理想を定めているのではなくて、自分の生活や思いを発信することに、嘘をつきたくない。だから私は、文を書きます。みんなが使う言葉という手段を使って、ありのままの何かを残したいから。そこに私が、意味を見出しているから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?