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近大の「美女・美男図鑑」がなぜイけてないか

世間を賑わせているこの件について。たまたまこの春から近畿大学の教員になったこともあるし、そうでなくともモヤモヤするので、書く。

基本的な立場として、この企画には反対です。
理由は、二つあって、一つは「面白くない」ということ。
もう一つは、大学の持つ「公共的役割」に反するから、です。
そして、この二つの理由は絡まり合っています。

近大の広報は毎回、周囲を驚かせるほどなかなか独自路線を突っ走ってきたと思います。個人的に好きなのは、エコ出願を謳った「環境問題より、3000円に食いつく母が愛おしい。」とか、国際学部の「オレはいま、世界から試されている」とか。教員になる前からポジティブな意味で「なにこれ、アリなんや!」と思うことがありました。

でも、今回の大学案内『KINDAI GRAFFITI』内のこの「美女・美男図鑑」は、広報媒体比較としてはさっき挙げたポスター広告とまんま比較はできないけど、まったくクリエイティビティがないなと思います。依存している価値観が外見を重視するというとっても「ポピュラー」な物差しにまんまのっかっているだけで、かつ、広報担当者の方は「毎年これを読んで入学してきた新入生に聞き取り調査をおこなって、次の号での掲載を決めているが、毎年新入生からは人気の企画になっています。」ってさらっとおっしゃっていますが、この「見た目がイけてる」という価値観をストレートに助長する企画で「これを読んで入学」する学生が一定数いると見越して毎年レギュラー化しているってのは、結局「これくらいの塩梅の価値観で十分学生が釣れる」と暗に未来の学生に対するリスペクトを怠ってきたのではないか、と思うのです。これ、「早慶近」などと言いさらに大学の学力レベルを上げ、未来の学生に対する知的好奇心を掻き立て(そのことも契機となりさらなる学力アップに励み!)という相乗効果を生み出す広報としては、逆方向ですよ。確かに、見た目がいいとか好みじゃないとかっていう価値観をつい気にしてしまうのははっきり言って当たり前。僕だって、上野千鶴子さんが朝日新聞で書いていた様に、「本音」では気にすることがありますよ。でもね、その価値観の物差しだけじゃない。あくまで100ある物差しのなかの1つにすぎないわけです。だから、大学という知の醸成拠点としては「こんな価値観もあるで」「近大はこのモノサシ推しやで、オモロいやろ?」って言って欲しい。だって広報も含めて教育の一環で、すでに未来の学生に対する教育は始まってるはずだから。

そして、「大学」という場でこの外見重視のポピュラーな価値観を「人が集まるし、学生にも人気があるから」という理由で広報に活用するのは、大学が担う「公共性」という観点から完全に間違っていると思います。当たり前ですが、私学も含めて、戦後の教育基本法によって国公立学校と同様に公教育を担うものとされているし、私立学校法においても私学の公共性の理念は謳われています。文科省の資料にあたっても、「知的創造を担い社会全体の共通基盤を形成するという大学の公共的役割が極めて重要」と書かれているけど、今回のケースは、大学が持つべき「一定の自主性・自律性」とこの「公共的役割」を秤にかけたときに、だいぶ後者を疎かにしたんちゃうかと思います。

例えば今回の一件と例は違いますが、マナビズムのような塾が「恋愛相談動画」みたいなのをあげて人気コンテンツにするとかは、まだ塾経営という商売として譲れる(全然おもんないとは思いますけど)が、大学で同じ様なことを教職員がYouTubeで学生に向けて喋っていたら、最悪ですね。それは、わざわざ大学ですることじゃないんですよ。やっぱりパブリックマインドと多様な価値観をちゃんと耕す役割こそを、大学は担うべきだと思います。

以上が理由ですが、一方で、今回のこの一件を「ルッキズム的観点から時代錯誤」的な意見の「溢れかた」にとても違和感があります。それは、社会学者の宮台真司さんの言う「言葉の自動機械」そのものであって、そしてなんでそんなにさらっと「時代錯誤」って言えるのか。じゃあ、いつからなん?いつからそれ、時代錯誤になったん?って思う。

そう思う具体的なきっかけがあります。それはジャーナリストの北丸謙二さんの著書『愛と差別と友情とLGBTQ+』(人々舎)の冒頭に書かれたこのテキストを読んだことです。

テレビ朝日の朝の番組で羽鳥慎一さんの「モーニングショー」という情報番組を見ていたときのことです。テレ朝社員のコメンテイターである玉川徹さんが(この人はいろいろと口うるさいけれどとにかく論理的に物事を考えようという姿勢が私は嫌いじゃないのです)、杉田水脈の生産性発言に対し、LGBTQ+を擁護する立場から「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」と言って結論づけようとしたのでした。
「ん? ちょっと待って」と私は思いました。「もうそういう時代じゃない」って、本当に「もうそういう時代」じゃないの? いつからそうなったの? 「そういう時代」はもう、片が付けられたの?

(同署P005-006より引用)

僕はこのテキストを読んで、LGBTQ+の「言葉」がどういう風に生まれ、世間に膾炙していったかという歴史をちゃんと学ぼうとしなかったくせに、「言葉」は知ってるから容易に使って相手を攻撃したりすることを恥ずかしく思いました。いまルッキズムでも同じことが起きているかと。

だから、攻撃対象があったときに、その「言葉」を反射的に発するのではなく、一度立ち止まって考えて、知るべき情報は知って、そのあとは「自分の言葉」で意見を言うように努めるべきだと自戒もこめて思ったし、それは「思い続けないと簡単に忘れてしまう」ことだと思います。

ところで今回の図鑑。これを「美男・美女」ではなくて、「美女・美男」とするようになったのは、「いつの時代から」でしょうかね?

※冒頭の写真は近畿大学入試情報サイトより引用

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