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徘徊の記録 根を持つこと 翼を持つこと

真夜中に散歩する。
以前住んでいた品川でも、ちょくちょくやっていた習慣だ。
宛先は決めず、ただ徘徊するのみ。

あるときは、西大井の駅を出て、坂を登り降りし、トンネルをくぐって、通っていいのかちょっと躊躇うほどの路地を怪しまれない程度に小走りで抜けて、戸越銀座商店街に出たり。

またあるときは、静まり返った踏切を渡って、急な階段を登り降りしながら、馬込方面へ。

昨日は、布施の商店街アーケードを抜け、足代新地の客引きを交わし、ちょっと雑踏を越えたら千日前通りに。そこからジグザグ南下して小路の商店街を初めて通って家路に戻る1時間のコース。

ただ何も持たず歩くこともあれば。ラジオや音楽を共にすることもある。
昨日は、あるネット番組で、先日お亡くなりになった社会学者 見田宗介(真木悠介)氏の追悼番組を聴きながらだった。

足代新地の雑踏を抜ける瞬間に、流れてきたのが「根を持つこと 翼を持つこと」という言葉。真木悠介名義で出された名著『気流の鳴る音 交響するコミューン』の最終章に書かれた言葉だ。人間の根源的な欲求を、「根を持つことの欲求」「翼を持つことの欲求」とし、そして、この一見矛盾しそうな二つの欲求をどうつなげていくか、という問いがある。

30代半ばで『コミュニティ難民のススメ』という本を書くにあたって、この問いは自分なりの実存に随分勝手に引き付けているところはあるけど、ずっと切実なものであった。でもいま「実存」って言ったけど、それは一個人の生き方、より正確には「“生きる”ということの捉え方」の話だけに止まらないと感じる。

どういうことかと言えば、自分自身の生きづらさとか、閉塞感とか、疎外感とか、そういったものを一人で考え抜くことの大事さとともに、あるいはそれ以上に、他者と感性的・美的にその問いを共有する時間・場をいろいろなやり方で持つことで、個人の実存の問題が「翼」を持って開かれつつ、一度でもこの問いを共有できた他者とは物理的に離れていてもどこか目に見えない地中では「根」でつながった仲間になっていける気がするからだ。僕はその共有の体験地・プラットフォームを僅かでも作りたいと思う。

さて、こういった思索は、土地や時間や状況と結びついて、またあるとき想起される。もちろんまた真夜中にあの繁華街を抜けたときに、「翼」を感じるかもしれないけど、これがまたまったく関係のない別の土地で、別の時間や状況でも想起は起こり得るものなので、不思議なもの。しかし、思索の「痕跡」は自分のなかだけでなく、「街場」にも残させていただく、という態度は面白いと思う。

【参考】
真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』(筑摩書房)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480087492/

マル激トーク・オン・ディマンド 第1100回(2022年5月7日)『[見田宗介(=真木悠介)教授追悼特別番組]われわれ一人ひとりが翼を持てば自由を手放さずとも社会を変えることはできる』
https://www.videonews.com/marugeki-talk/1100/

アサダワタル『コミュニティ難民のススメ』(木楽舎)特設サイト
https://books.kirakusha.com/community-nanmin/



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