小さな世界の誤配、まなざしの変容、そのための形式化

緊急事態宣言が解除された。大半を自宅で一人で過ごしたなかで、改めて自覚したのは「孤独」は自分に向いているってことだ。もともと人付き合いがあまり好きでなく、一人で本を読んだり、妄想したり、当て所なく散歩したり、書いたり、演奏したりするのがずっと好きだった。当たり前だけど、自分が一人で過ごす時間のなかから、「表現」として外に出てゆくものが生まれていったと思う。

小さな世界を構築していくことを、ちょっと誰かと分かち合いたいなと思って、人前に出て行ったら、いつしか「社会化される表現」つまり「他者の存在を前提とする表現」が自明になってこれまであくせく働いてきた。でも、足元にはやはり小さな世界はあった。それでも、小さな世界は時にもどかしく、「誰にも届いていないのになぜそんなことをしないといけないのか」と思うようになっていったようだ。

しかし、そもそも「誰にも届かない表現」というもの自体が実は存在しないのではないか。そう思うことがある。つまり「小さな世界」にも、小人のような「他者」は必ず潜んでいるのではないか、と。ただ、その他者が「それ」をどう受け止めるか。その問題はある。ポストまで届いていても、封が開けられない、そんな表現はたくさんあるのだ。それは一体どんなものだろう? どんなカタチをした表現なのだろう? 

小さな世界を大きく広げることは、それはそれでいい。「認められる=社会化」という単純な図式は一定成立する。そうでなければ、食ってはゆけない。しかし、小さな世界が大きくならずとも、誤配され、分散的に広がることはある。そのとき人知れず伝染したその表現は、カタチを変えて被感染者の行動様式を変容させる可能性がある。

目立たない表現、秘かな表現、生活にあらかじめ埋め込まれた表現。それは孤独な小さな世界を強力な推進力で押し広げたりはできないし、場合によってはまったくカタチが見えないものかもしれない。さっき行動様式と書いたけど、それはほとんど生きるにあたって目の前に広がる世界に対する「まなざし」としか言いようがないものかもしれない。でも、もはや一見同じように存在するこの世界に対して、一人ひとりがまったく別の感性で捉えているのであれば、「まなざし」が変わることは、すなわち「世界そのもの」が変わることと同義だ。

そして問題は、小さな世界の誤配によるまなざしの変容を促すアーキテクチャをどう生活環境に埋め込むのかを命題にした「制作」へと向かう。これは、「社会(=システム)化される表現」ではなく、「脱社会化する表現」である。それをアーキテクチャにすること自体が、再システム化であることは、もちろん逃れられないことは承知のうえで、やるべきこと。それは徹底的な「形式化」なのだと思う。

既存の表現・メディア・慣習形式の借用、誇張、誤用。そのとき、その形式でもって、先ほどの命題のもつ「内容」のレベルを、そのあからさまな魂胆を、再度もともとの小さな世界が放つ表現の「鮮度」を失わさず、感性的に包装する。「どう包むのか」が問われているのだ。再システム化に「永遠のてへぺろ」をかますには、これをやり続けるしかない。そんなことを考えている。

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