ハンナ・アーレント黒人差別主義者疑惑
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ハンナ・アーレント黒人差別主義者疑惑

後世の研究によって評価が変わった偉人は少なくない。
2014年、死後40年近くを経て公刊された「黒ノート」によって、20世紀最大の哲学者マルティン・ハイデガーが反ユダヤ主義者だった疑惑が浮上した。
同じく2014年、別の疑惑が浮上する。
ハイデガーと不倫関係にあったユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントが黒人差別主義者だった可能性が、アメリカの哲学者によって指摘された。

アーレントの人種差別的語り口
アメリカで黒人に対する人種差別の撤廃を訴える運動「Black Lives Matter/ブラック・ライヴズ・マター」が盛り上がっている。ナチスドイツの排外主義を研究したアーレント著『全体主義の起原』が参考になると思い、手に取って読み進めた。
これまで何度か再読しているのに気づいていなかった記述に不意を突かれた。アーレントが黒人差別と読み取れる文章を書いていたなんて。
Googleで「アーレント 黒人差別」と検索すると、アーレントの黒人差別問題が取り上げられている日本語の論文がいくつか見つかった。それらに目を通したところ、アーレントの差別的傾向は研究者の間でも議論の的になっていたようだった。
アーレントは『全体主義の起原』を執筆する際、ヨーロッパ列強による植民地主義の暗い側面が描かれたジョゼフ・コンラッド著『闇の奥』に影響を受けたといわれている。
『闇の奥』(三交社)を翻訳した物理化学者の藤永茂は、自らのブログでこう解説する。

人種差別の思想(racism)は、この著作の中で中心的な役割を担っています。アーレントはレイシズムを「帝国主義のための思想的武器」と位置づけ、その具体的発祥を、南アフリカに移住してその地で生活を続けたボーア人たちの現地体験に求めます。
ブログ「私の闇の奥」

ところがアーレントは、レイシズムを批判対象としているはずの『全体主義の起原』で、アフリカ植民地に関する記述において、原住民は知性を欠いた未開人だとして差別している。

彼らを他の民族から区別していたものは肌の色ではなかった。彼らが肉体的にも厭わしく怖ろしく感じられたのは、彼らが自然に救いようもなく隷属もしくは帰属していたためであり、自然に対しいかなる人間的世界をも対置しえなかったためである。彼らの非実在性、彼らの亡霊のように見える行動は、彼らの無世界性に由来している。彼らは世界を持たないがゆえに自然が彼らの存在の唯一のリアリティと見える。そして自然は観察者に対してすら圧倒的なリアリティとして迫ってくる——世界を持たない人間を相手にするとき自然は思いのままに跳梁し得る——から、自然に較べれば人間は幻か影のようなもの、完全に非現実的なものと見えてくる.この非現実性は、彼らが人間でありながら人間独自のリアリティをまったく欠いていることから来る。世界を持たないことから生ずる原住民部族のこの非現実性こそ、アフリカに怖ろしく血なまぐさい破壊と完全な無法状態とを招き寄せたものだった。
ハンナ・アーレント『新版 全体主義の起原 2 帝国主義』(翻訳・大島通義、大島かおり、みすず書房)p.139-140

つまり、「アフリカが被った破壊と無法状態は自ら招いたことだ」というのがアーレントの主張になる。
同書の初版は1951年。この頃には、20世紀に入ってアフリカが混沌に陥った諸悪の根源が、19世紀末から20世紀初頭にかけて帝国主義を振りかざしたヨーロッパ列強による分割統治政策であることは明白になっていたはず。
にもかかわらず、アーレントは「おそるべく血腥い破壊と完全な無法状態とを招き寄せた」のがアフリカ自身だと指摘する。左右のイデオロギーに関係なく、歴史認識にそもそもの問題がある。

差別的な表現が強化された英語版
藤永茂は、大島訳が底本にしたであろう1962年のドイツ語版と、1973年にアメリカで出版された英語版を比較し、アーレントが英語版を出すにあたって当該箇所を意識的に書き換えた可能性を指摘する。
藤永茂のブログを参照しながら、大島訳にあたる部分を1973年の英語版から引用し、訳文を確認してみよう。

英文
What made them different from other human beings was not at all the color of their skin but the fact that they behaved like a part of nature, that they treated nature as their undisputed master, that they had not created a human world, a human reality, and that therefore nature had remained, in all its majesty, the only overwhelming reality ? compared which they appeared to be phantoms, unreal and ghostlike. They were, as it were, “natural” human beings who lacked the specifically human character, the specifically human reality, so that when European men massacred them they somehow were not aware that they had committed murder.
『The Origins of Totalitarianism』(HBJ Book、1973年)
訳文
彼らを他の人間たちから区別していたのは彼らの皮膚の色では全然なく、彼らが自然の一部のように振る舞っていたこと、彼らが自然というものを彼らの文句なしのご主人様として扱っていたこと、彼らは人間の世界を、人間的リアリティーを未だ形成していなかったこと、したがって、自然はその威厳を完全に備えたまま、唯一の圧倒的リアリティーを保持し続け、それに較べれば、彼らは現実性を欠いた幽霊のような幻影とも見える存在だったという事実であったのだ。彼らは、はっきりとした人間らしい特性も、はっきりとした人間特有のリアリティーも備えていない、言うなれば、“自然のままの”人間なのであった。だから、ヨーロッパ人たちが彼らを大虐殺したとき、ヨーロッパ人たちは自分たちが殺人の罪を犯したのだとは思ってもみなかったのだ。
ブログ「私の闇の奥」(翻訳・藤永茂)

藤永茂は「"ヨーロッパ人たちは黒人たちを人間じゃないと思って気楽に殺した"と前よりはっきり書いたのはどういう神経なのでしょう」と疑問を呈する。
たとえば、訳文の「ヨーロッパ人」を「ドイツ人」に、「彼」を「ユダヤ人」に置き換えてみればわかりやすい。
「ドイツ人たちがユダヤ人らを大虐殺したとき、ドイツ人たちは自分たちが殺人の罪を犯したのだとは思ってもみなかったのだ」
仮に、ナチスドイツによる蛮行をこう表現する哲学者がいたら、きっと人種差別的だと非難を浴びたに違いない。

悪の陳腐さとレイシズム
『全体主義の起原』の発表から12年が経った1963年、アーレントは、ホロコーストの中心人物だった元・ナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマンの裁判記録をニューヨーカー誌で発表した。
アーレントは1964年に本を出版するにあたって、新たに書き加えた「あとがき」で一連のアイヒマン裁判を取材した印象をこう論評する。

彼は愚かではなかった。完全な無思想性——これは愚かさとは決して同じではない——、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。
『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(翻訳・大久保和郎、みすず書房)p.221

この文章を『全体主義の起原』英語版の藤田訳と合わせて読むと——アイヒマンは愚かなわけでも人種差別主義者だったわけでもなく、完全な無思想性を有する陳腐な男にすぎず、ユダヤ人を「大虐殺したとき」には「殺人の罪を犯したのだとは思ってもみなかったのだ」——とまとめられる。
要するに、凡庸さが罪の意識を相殺できるとでも言いたいのだろうか。
ニューヨーカー誌に記事が載ると、アーレントには批判が集中し、大論争を巻き起こすことになった。当時の様子は、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督、バルバラ・スコヴァ主演の映画『ハンナ・アーレント』で描写されている。
劇中では、世間の中傷に苦しむアーレントを盟友の作家メアリー・マッカーシーらが支えながら、彼女が自らの政治哲学を貫く姿勢が半ばヒロイックに演出されている。あたかも、世論と対峙する孤高のヒロインかのように。
だが、その英雄像は、アメリカ・ペンシルバニア州立大学の哲学者キャサリン・ガインズの研究によって崩されつつあるらしい。

キャサリン・ガインズの問題提起
2014年、ガインズは『ハンナ・アーレントと黒人問題』(原題:Hannah Arendt and the Negro Question)=未邦訳=を出版し、アーレントの人種差別的な傾向を詳らかにした。
アーレントを研究する立命館大学の百木漠は学会誌に寄せた書評で、「本書が今後のアーレント研究にとって無視しえない一冊となることは間違いないだろう」と指摘している。

アーレントの黒人差別問題として最も有名なのは「リトルロック事件の考察」であるが、本書ではそれ以外にも『全体主義の起源』『人間の条件』『革命について』『過去と未来の間』『暴力について』などの著作を横断的に扱いながら、アーレントが一貫して黒人差別主義的な考えを持っていたことが強調される。そのいずれもが堅実な読解に基づいており、説得的な議論が展開されるため、アーレントに好意的な読者にとっては、啓発的であるとともに少々ショッキングな内容でもある。
百木漠『アーレントは黒人差別主義者だったのか?』(政治思想学会会報第50号)

アーレントの黒人差別問題として最も有名とされる「リトルロック事件の考察」に対し、ガインズは厳しい批判を浴びせる。
リトルロック事件とは、1957年にアメリカ・アーカンソー州都リトルロックの高校で黒人生徒の入学に白人たちが反対し、全米を論争に巻き込んだ事件として差別反対運動の歴史に刻まれている。
やや長いが、ガインズによる論証を前掲の書評から引用する。

アーレントが「リトルロック事件の考察」の冒頭で取り上げている写真(黒人少女が白人の男女に取り囲まれ、怒鳴られながら下校している写真)に関して、アーレントは多くの誤りを犯していると筆者は指摘する。アーレントはこの写真を分析して「少女の表情から、彼女が幸せだと感じていないことは明らかだった」と述べ、もし自分が黒人の母親だったとすれば、歓迎されていない集団のうちに自分の娘を押し込むようなことは決してしないだろう、と断言する。また「私が黒人であれば、学校と教育のうちに差別の撤廃を持ち込もうと試みることは、成人ではなく子供たちに責任を転嫁するものであり、極めて不公正なものだと感じるだろう」として、法律や政策によって「上から」教育における人種隔離を撤廃することに反対している。さらにアーレントは、子供を人種統合した学校に送り込もうとする親は、「社会的な階層をよじ登る(social climb)ことで自分の地位を改善する」ことを目的としているのだとも論じている。
著者のキャサリン・ガインズはこのようなアーレントの見解に猛烈に反対している。ラルフ・エリソンが批判したように、黒人の親たちが子供を人種統合された学校へ送り出す際に何を考えているのかを、アーレントは全く理解していない。黒人の親たちはそれを一種のイニシエーションの儀式と考え、黒人がこの社会で生きていく際に闘っていかねばならない恐怖(テロル)と向き合う機会と捉えていたのであり、その覚悟をもって親たちは子供を学校へ送り出している。彼/彼女らは心を鬼にして、自分たちの子供にレイシズムに耐える訓練をさせなければならないのであり、送り出された子供たちは「恐怖と向き合い、自らの恐れと怒りを正しく押さえ込むこと」を求められる。そうしなければ、アメリカで黒人として生きていくことはできないからである。
(中略)
黒人の強い想いと努力の積み重ねをアーレントは露ほども理解できていない、とガインズは主張する。

ガインズは同書で、ユダヤ人としてナチスの人種差別に苦しめられた過去があるにもかかわらず、黒人差別の苦しみを理解しようとしないアーレントの態度に怒りを示している。

アーレント自身がユダヤ人としてナチス政権下で命の危険に晒され、「ユダヤ人として攻撃されたならば、ユダヤ人として身を守らなければならない」と母親から教えを受けていたにもかかわらず、その教えをアメリカにおける黒人たちに反映させて考えることはなかった。これは全く不可解で不当なことだとガインズは怒りをもって述べている。
(中略)
結局のところ、アーレントは黒人問題(Negro Question)を白人の問題(White Problem)としてではなく黒人の問題(Negro Problem)として捉えており、無意識のうちに白人たちを免責し、黒人たちの側に責任を押しつけている(序章)。黒人奴隷制を「アメリカの歴史における重大な犯罪のひとつ」と認識していたにもかかわらず、である。

英雄像は偶像か
さらにガインズは、黒人問題を直接的には扱っていない著作も取り上げ、アーレントの差別的偏見が見え隠れしていることを指摘する。再び前掲の書評から引用する。

『革命について』では、貧民たちが政治に参加する際に引き起こされる事態を批判的に描くことによって、貧しい黒人たちが政治に入り込んでくることに対して、アーレントが否定的な見解を持っていたことが示唆されている(第4章)。また『全体主義の起源』第二部「帝国主義」におけるアフリカ植民地に関する記述では、アーレントが原住民の人々を、知性を欠いた未開の人々、あるいは得体の知れない動物的な存在として描いている(第5章)。黒人問題を直接扱っていないこれらの著作にも、アーレントの差別的偏見が見え隠れしていることを本書は鋭く論証していく。
(中略)
ガインズは、『全体主義の起源』から『カント政治哲学講義』に至るまで、アーレントの思想には黒人に対する差別的偏見が底流しており、そこに弁明の余地はない、と断定する。

ガインズの論証に依拠するならば、『全体主義の起原』を読んだときに感じた疑問は、どうやら間違っていないようだった。
ガインズの『ハンナ・アーレントと黒人問題』は、出版から6年を経てもなお、日本語では読めないまま。BLM運動が注目を浴びている今ほど、ガインズがアーレントに投げかけた批判が重要な意味を持つタイミングはないというのに。
果たして、アーレントの英雄像が偶像に堕する日は来るのか。邦訳の出版が待たれる。

(標題イラストはタナカ基地による作品)

タナカ基地(Tanaca Kichi)
イラストレーター。1994年生まれ。セツ・モードセミナー卒業。初仕事は週刊朝日ムック『医学部に入る 2018』(朝日新聞出版)。
Instagram@tanaca202

注記1
本来ならば「アフリカ系アメリカ人」という表現が適切であることを承知しつつ、日本では「黒人」のほうが一般的に使われていることから、本文では「黒人」という呼称を用いた。
注記2
『The Origins of Totalitarianism』の邦題は、全体を通じて『全体主義の起原』で統一し、引用文のみ原文のまま『全体主義の起源』とした。

参考資料
■ ハンナ・アーレント『新版 全体主義の起原 2 帝国主義』(みすず書房)
■ ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)
■ マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ハンナ・アーレント」
■ 藤永茂『Another Bloody (or Thoroughgoing ) Racist?』(ブログ「私の闇の奥」)
■ 百木漠『アーレントは黒人差別主義者だったのか?』(政治思想学会会報第50号)
■ 河合恭平『H・アーレントのアメリカ革命論と黒人差別の認識』(社会思想史研究No.38)
■ 大形綾『「リトルロックに関する考察」再考』(人間・環境学第26号)
■ 細見佳子『リトルロック事件をめぐって——社会の意識に法はいかに対峙すべきか』(釧路工業高等専門学校紀要第52号)
■ 田中宏和『アーレントの革命論の誤謬と破綻 — OWSとBLMが導くアーレントの学説崩壊』(ブログ「世に倦む日日」)

文中敬称略

編集者。1982年生まれ。思いつきでたまに書きます。