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諦めこそ勝利の鍵

#部活の思い出

こんにちは!
本日は「部活の思い出」というお題への投稿になります。

先日、為末  大さんの著書「諦める力」を呼んで思うことがあったので、それをまとめていきたいと思います。

諦めの大切さ

「諦める」というワードは非常にネガティブなイメージが強い。

諦めてしまった人のイメージというと、

・継続力がない
・我慢ができない
・物事に本気で取り組めない

などがあるだろうか。

しかし、この本の中で為末さんは、「諦めることはポジティブなことだ」と言っている。

自分に不向きなことや、自分がもうやりたくないこと。
これ以上やっても無駄だと感じていること。
それらを諦めて次のステージへ進むことは、間違いなく「前進」だからだ。

「周りの人が応援してくれているから諦めにくい。」
「夢を諦めることはカッコ悪いからできない。」

そんな考えは捨てていい。
”努力に勝る天才なし”という言葉があるが、そもそも努力は好きなことや可能性を感じることに対してできるものだ。
自分が不向きだと感じていることに対してするのは、「努力」ではなく「我慢」である。

「諦める」をネガティブに捉えて「我慢」を続けるのか。
それとも、ポジティブに捉えて「努力」をできる場を探すのか。

「あいつは逃げた。」
そう言われたっていいじゃないか。
堂々と胸を張って諦めれば良いのだ。

諦めの決断

「諦める」というワードに関連した部活動の思い出が一つある。

男子新体操というスポーツは、個人競技と団体競技の2つの種目がある。
高校生まではどちらの種目も兼任して行うが、大学生はどちらか1つを専門とするのが一般的だ。
そのため、多くの選手は大学入学時に「個人か団体」という二択にぶつかるのである。

ご存知の方は多いと思うが、僕は団体を選んだ。
言い方を変えれば「個人を諦めた」のだ。

高校3年生のシーズンは個人の練習にかなり力を入れたおかげで、得点の自己ベストを更新したこともあったし、それなりに成績もついてきていた。
そのため、進路選択の時期になると、大学で個人を専攻することを勧める大人は少なくなかった。

実のところ、その年に団体で高校チャンピオンになっているにも関わらず、団体よりも個人を勧める大人の方が多かったのだ。

にも関わらず、僕は団体を選んだ。
その理由は簡単。
1番になれる可能性を感じなかったからである。

僕は現役時代、とにかく1番になりたかった。
新体操選手の中には「人の印象に残るを演技をする」といった目的を持つ人もいるが、僕は違った。
「何が何でも1番になる」
それが僕の目的だった。
15歳から地元を離れているので、遠い地にいる今までお世話になった人に自分の姿を見せて恩返しをするには、これが一番いい方法だと思っていたからだ。

しっかりとした目的を持っていながらも、実際、進路選択はかなり悩んだ。
しかし、「1番になる」という目的だけを考えた時、僕の頭に浮かび上がったのは
「青森大学で団体」
これ一択だった。

どう考えても個人では1番になれる気がしなかったのだ。
よくよく考えれば、周りの大人が個人を勧める理由が「いい選手になれそうだから」というボンヤリしたものだということにも気がついたし。

大学に入学後…

個人を諦め、1番になれる可能性が高い団体を選んだ僕は、入学直後、熾烈を極めるレギュラー争いの中で一つの枠を勝ち取った。

正直なところ、僕は新体操が格別上手だったわけではない。
では、なぜ枠を勝ち取ることができたのか?

そこでも「諦めた」からだ。

強者(つわもの)揃いの中で枠を勝ち取るために僕が考えた策は、
「徹底的にウィークポイント(弱点)を消す」
だった。

そう、練習をする中で僕はこう気づいたのだ。

「長所を伸ばしても周りの選手には勝てない」

それぞれが得意とするスキルのレベルが高すぎて、それに勝てる気が到底しなかった。
しかし、同時にこんなことにも気づいた。

「レベルが高い選手でも必ず何かしらの弱点を持っている」

であれば…
「全員の弱点をカバーする選手になればいいじゃないか」
これが僕の答えだったのである。

つまり、長所を伸ばすことを諦め、”うまくはないけれど、非の打ち所がない選手”を目指したのだ。

実際、うまくなかった僕には、技術面において監督に褒められた記憶がない。
他の選手が褒められるのは、もちろん羨ましかった。
「お前本当に下手くそだよなぁ笑」
こんなことを言われ、悔しい思いをすることも何度もあった。

でもいいのだ。
現に僕は1番になったのだから。
何を諦めようと、一番手に入れたかったものを手に入れたのだから。

「選ぶ」と「諦める」

「選ぶ」と「諦める」は表裏一体であるように思う。
先ほどの僕の経験にもあるように、一つの選択肢を選ぶときは、同時に他の選択肢を諦めてもいるのだ。

この系統の話には、例えによく「器」が使われる。

人は生まれながらにして自分という器を持っている。
その中に何を入れるかは自由だが、容量は決まっているのである。
新しいものを入れたいのであれば、何か今まで入っていたものを出さなければならない。
ましてや、同時に二つのものを入れることなんてできないのだ。

つまり、選択する(器に入れる)という行為は、諦める(器から出す)という行為と常にセットなのである。

選択には諦めがつきものであり、諦めるからこそ選択したことがうまくいくのである。

どんな場面でどんな選択肢を選ぶかは人それぞれだ。
自分が目指したいもの、なりたい姿。
それに向かっているのであれば、どんな選択であろうと問題ないと僕は思う。
そして、それに向かっているのであれば、諦めることはいいことなのだ。


井藤 亘(いとう わたる)

・シルクドゥソレイユアーティスト(Cirque du Soleil)

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個人HP:男子新体操/井藤 亘Wataru Ito



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