好意を受け止める度量について

好意を受け止める度量について

例えば、ある人が何らかの形で、長い間誰かの世話になっているとします。

そのある人は、長い間お世話になっていることに負い目や引け目を感じ「これ以上お世話になるのは申し訳ない」と感じています。それは「恩を返せていないこと」への罪悪感にも近いものです。

こう感じてしまう一番の理由は、僕らが人と人との関係性に「ギブアンドテイクの取引」が必要だと思っているからなのだと思います。

恩を受けたら、誰かのお世話になったら、それを返さないのは失礼だ。
そんな思考が僕らを悩ませます。

でも、ちょっと違った角度で考えてみると、そう考えることは実はお世話になっている人の価値を貶める、もっと失礼なことかも知れません。

「恩を返さなければ」と考えている人は、裏を返せば自分の恩人のことを利害関係で動く人間だと考えているということです。

このことは、いくつかのプロセスで乗り越えられると考えています。

一つ目は、循環だと捉えること。
AさんがBさんに与えた恩は、Bさんから一度Cさんを経由してAさんに帰ってきても良い、ということです。
僕たちは生きている限り、価値と恩の循環の中にいます。そもそも全てのことはまわりまわって、必ず自分に返ってくるようになっています。

このことは、社会をどの程度信頼するかという話とも関係があります。
自分が行った「何か良いこと」が、その価値を失わないまま、何らかの形で自分に返ってくると信じることが大事で、途中に悪意のある人がいると考えると、どうしてもそこを信じることは難しくなります。

二つ目は、時間軸を考慮すること。
それは、受けた恩を即時的に返すのではなく「いつか返す」という意思を持ったまま生きるということです。結果として返せなくても構いません。

「意思をもって生きる」ということは、僕らに残された「人間らしさ」の現れです(いつか返すという意思を持っていることを当人に伝えるべきかどうかは別の問題としてあります)。

三つ目は、恩送りと考えること。
自分が恩を与えるのは、まさに自分が誰かから恩を受けたからであって、その恩が自分に返ってくる必要は無く、必要な時に誰か別の人に受け渡されれば良いのだ。

これには「自分が誰かから恩を受けた」と感じることが必要です。

今の自分があるのは、100%自分の力ではありません。
無数の人たちの好意や恩によって成り立っていることが大部分です。今の自分の価値観や意思は、必ず何かの影響を受けています(参考:”You'll never walk alone.”)

恩を取引だと考えて、即時的に返すように生きるのは決して難しくありません。むしろ、安易な生き方だと思います。

自分にどれだけの恩を受け止める度量があるのか。
そこにその人のキャパシティが見てとれます。

この「関係性を取引として扱わない」ということは、行き過ぎた資本主義から距離を置くことにもつながります。

お金は、すべてのものを同一の尺度に取り込み比較可能な状況にしていきます。それがお金の本来的な目的だからです。

同時に、お金には自らの価値を唯一絶対のものにしようとする力学が働きます。これもお金の本来的な性質です。ほかに尺度が無いことが、お金の価値を高めるからです。

このために、お金は人間関係も含めたすべての「事象」を取り込んでいきます。関係性が取引として扱われてしまうのは、こういう理屈です。

「お金は何よりも大切だ」
「お金の管理だけはきっちりやらないといけない」
「友達に金は貸すな」

これらの「お金は特別なのだ!」という思考が、僕たちをお金に縛りつけ、不自由にしています。

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最後に、お金の意味が変わっていく未来については、すでに何人もの著名な方が予測していますが、おススメを一つ上げると、これです。

これは「知識」ではなく、「世界に対する姿勢ととらえ方」の話なので、読むだけではなく、様々な思考を巡らせることが重要と思います。

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