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掌編小説 傷痕

 電車の中で、夥しい数のリストカットの痕を見た。

 朝晩に肌寒さを覚えるようになった秋の始まり。長袖で隠そうと思えば隠せるのにも関わらず、その若い女性は、黒のシンプルな半袖に腕を通し、左の手首から恐らく肩先まで続いているだろう、無数の横刻みの傷痕をさらしていた。

 右手にはスマートフォンを持ち、左手は別にどうするともなく、ただ力を抜いて下げているだけだった。その露出した肌に、かさぶたじみた白い隆起が幾重にも刻まれていて、手首のあたりから半袖の内へと、傷痕はびっしりと上り詰めていた。

 目にしたのはそれくらいだった。それは、あまり凝視したら悪いだろうから、という気遣いを装った視界からの排除なんかじゃなく、ただ単に降りる駅に着いたからだった。

 当然、開け放たれたドアからホームへと降りる。車中の女性のことを振り返りもしなかった。でも目蓋の裏には、山脈図のような肌の浮き沈みが、しっかりと焼き付いていた。

 髪は長く、全身は黒でタイトにまとめられていた。その口元も、ぴったりとした黒で覆われていた。どことなくロックな感じのする佇まいだった。目は切れ長だったろうか。そんなことを思い返しながら、駅の階段を一つ一つ、人波に紛れて上っていく。

 傷は乾き切っているようだった。一つとしてその裂け目に血液の結晶はこびりついていなかった。代わりに白い引き攣れが、皮膚にへばりついていた。

 やや渋滞した改札、そのしんがりにそれとなくつく。目前の初老の男性の不自然な頭髪量を見やる。くたびれた背広を着込んでいる。

 刃を入れてからかなりの年月が経っているように見えた。もうあの女性は自傷を必要としていないのだろうか。無数の傷痕を人目にさらしても、平然としていられるのは、一体どういう心持ちだろう。

「……かっけぇな」

 信号待ちの間。夕焼けの鋭さに視野を狭めながら、そうつぶやいていた。

                                 了

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