かっこいいアイドルと歴史学

最近ハマってるk-pop(韓国アイドル)についてのネット記事を見つけた。韓国と比べて日本のアイドルとそのファンは、アイドルの「未成熟さ」に萌える、というようなことが書かれており、膝をぽんと打った気分だった。そういえば「kawaii」は世界語っぽくなっているけど「moe」はどうなんだろう。両者の違いや分類はきっとされ尽くしているだろうから、コレというものがあったら読んでみたい。

この記事を読んで、モーニング娘。を引き合いに出しているところもなかなか納得がいった。もう何年も前になるけど、モー娘。の「リゾナントブルー」のMVを見たときに、「えっ、これが今のモー娘!?」とめちゃくちゃ驚いた。かつては、歌もダンスも心許ないと評されるメンバーが居て、テレビウケするような「キャラ立ち」することが求められ、「可愛いくてトークもできるおバカ」であることが重要視されていたような気がするが、後期モーニング娘。は歌もダンスも表情も目線もなんか全てカッコイイのだ。YouTubeのコメント欄に至極納得した覚えがある。「もうモーニング娘。はアーティストなんですよ!」。


ところで、なぜ私がk-popにハマっているかというと、9/1の関東大震災における朝鮮人虐殺を「無かった」と主張する人たちのことを知ったからだ。なぜこの方たちは、このようなことを言うのだろう? でも逆に、どうして「朝鮮人虐殺はあった」と、私自身も言えるのだろう(おつむが弱いので、常に自問)。

「歴史的事実だから」とか「教科書に載ってるから」という応答だけではきちんとした理屈として説明できない世の中になってるな、と思い、以前から歴史学というものに少しだけ興味が湧いていたところ、出会ったのが『歴史学の思考法』(東京大学教養学部歴史部会=編)である。

私には難しい語られ方の文脈も多いが、第2章「過去の痕跡をどうとらえるのか」はものすごくわかりやすく、一定の「歴史的事実」に至るプロセス(問いの立て方から、史料の収集・照合・批判を繰り返すことなど)が客観的にもよく理解できる内容だった。基本的で当たり前なことかもしれないが、何が「正しい」かは「誰にでも検証できる」ことが大切で、信憑性・有効性を見極める「史料批判」が不可欠である、というところに思わずアンダーラインを引いた。このような知識と作業の結集で、歴史は検証され史実という文脈で伝わり続けてきているのに、そこに向き合おうとしないこと、なるほどこれが「反知性」というものなのか…、とも実感が湧いた。

この本を読んでから、例えばこういうブログを読むとものすごく骨に肉がついてくる感じがするし、「虐殺は無かった」「当時の新聞にも載っている」という根拠があまりにもトンチンカンであることを、恥ずかしいくらい認識できる。だから以前からの「嫌韓」の流行ぶりにはすごく違和感を持つし、この言葉を書くこと自体も気が引けるくらい、心底辟易する。こういった風潮には一切加担したくないし、早くなくなればいいと思っている。だけど、なぜそこまで? という気持ちがずっとあって、彼ら(となりの国・地域を嫌うヒト)がどうしてそのような考えを持っているのか、知りたいと思ってる。

などといつも考えながら、「愛の不時着」にハマり、k-popに惚れ始めている。とにかく女性がめちゃくちゃかっこいいのだ。例えばTWICEを見てると「愛の〜」で描かれたユン・セリ(ソン・イェジン)とどこか重なる。(ユン・セリは)気が強くて、プライドが高く、芯が通っていて、考え方が大人で、料理や家事ができなくても社会的に全く問題なくて、むしろ経営手腕が素晴らしくて、総じて「幼さ」や「未成熟さ」は感じられない。これが世界基準なのかな、と思うと嬉しくなるし、自分が住む日本は遅れてるなぁと思う。

だけど、基本的に「国」単位で何かを評価したくないなと思っている。「いいものはいい」と素直に感じられる人間であり続けたい(とはいえ、「愛の不時着」は韓国の制作陣にしか作れない素晴らしい作品だと思った。韓国スゴイ)。とにかくすぐ隣の国・地域なのに知っていないことが多すぎる。もっと知りたい、歴史学の文脈で積み重ねられてきたことを。

以上、アイドルとかドラマとか9/1を通して最近考えていることでした。

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