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小説『僕に届いた最強の手紙』

 ガン(白血病)が判明し、入院を余儀なくされた中学3年生・鈴木誠司が、差出人不明の手紙を受け取ります。手紙を読み、鈴木誠司はガン告知のショックから立ち上がり、不安や落ち込みの時期を乗り越え、ガンという事実を受け入れ、現実的な対応を始めていきます。6通の手紙の内容、そして、差出人は・・・?

1:癌の告知

 七月二十一日。中学校三年生の夏休みの初日。
 目覚まし時計が鳴った。僕は目を開けて、時計を見た。午前七時。手を伸ばして、ストップボタンを押そうとした。しかし、できなかった。体が全く動かなかったからだ。声をあげて母さんを呼ぼうと思った。しかし、声が出なかった。汗が噴き出して、全身びしょ濡れだった。
 目覚まし時計は鳴り続けた。階段をドンドンと踏みしめながら、誰かが上がってきた。
 僕の部屋のドアがビシッと開けられた。母さんが鬼のような顔をして入って来た。しかし、次の瞬間、母さんは金切り声をあげた。
「誠司!」
 母さんが僕に走り寄ってきた。そして、額に手を当てた。
「熱い!」
 覚えているのはそこまでだ。それから、意識が暗闇の中へ落ち込んでいった。
 しばらくして、ドタドタと大きな音が聞こえた。目を開けると、目の前に白いヘルメットをかぶった救急隊員が二人いた。彼らは僕を抱きかかえ、移動用ベッドに乗せた。そして、僕は救急車に乗せられ、ピーポーピーポーというサイレンを響かせながら、運ばれた。意識が再び遠のいていった。
 夢を見ていた。僕は、灼熱の太陽が照りつける砂漠を一人で歩いていた。どこまで歩いてもオアシスの街は見つからない。空っぽの水筒を僕は投げ捨てた。・・・・・・
 すると、遠くから僕を呼ぶ声が聞こえた。
「誠司! 誠司!」
  僕はゆっくりと目を開けた。母さんが僕の顔を覗き込んでいた。
「誠司! 大丈夫?」
 そう言って、母さんは僕を抱きしめた。
「母さん。痛いよ」
 僕がそう言うと、母さんは僕を離した。辺りを見渡した。白い天井。白いカーテン。点滴を吊らすスタンド。
 僕は母さんを見た。
「母さん! ここは一体・・・」
「誠司。今から看護師さんを呼ぶから、ちょっと待っててね」
 そう言うと、母さんはナースコールのボタンを押した。
「母さん! ここは一体、どこなんだ?」
 僕が言うと、母さんはフーッと大きなため息をついてから言った。
「ここは病院よ。市立総合病院」
「僕はどうしたの?」
 しかし、母さんは答えない。
 やがて看護師さんが病室に入って来た。僕を見て、ニコッと笑った。
「目が覚めたのね。良かったわ。鈴木君、気分はどうかしら?」
 僕は看護師を見ながら、言った。
「僕はどうなっているんですか? 教えて下さい」
 看護師さんはサラリと言った。
「うーん。あとから主治医の先生と担当医の先生が来て、詳しいお話があるわ。とにかく、今日は入院してもらうことになるわ」
 僕は看護師を見て、叫んだ。
「入院?! いつまでですか?!」
 看護師は作り笑いをしながら言った。
「そうねえ。・・・私じゃ、ちょっとわからないわね。先生が来た時、尋ねてみてね」
 僕は思わず怒鳴っていた。
「明日、退院できますか? あさって、大切な試合があるんです。中体連サッカーの夏の大会が始まるんです! あさっての試合にどうしても出たいんです」
 看護師は母さんの顔を見た。母さんは看護師に向かって頷いてから、僕を見つめた。
「誠司。大事な話があるの。あなたは急に高熱が出て、救急車で病院に搬送されたの。そして、あなたが眠っている間にいろいろな検査をしたの。そうしたら、あなたは・・・」
 そう言うと、母さんはベッドに頭を埋めて、泣き始めた。
 僕は叫んでいた。
「泣いたって、わからないよ! 教えてくれよ! 一体、僕の体はどうなっているんだ?!」
 しかし、母さんも看護師も黙ったままだった。
「早く教えろよ! 僕は家に帰るんだ! あさっての試合に必ず出るんだ!」
 自分でもびっくりするほどの大声で僕は叫んでいた。
 看護師が部屋から走り出ていった。しばらくして、看護師は白い服を着た男二人と共に戻ってきた。背の低い方は、歳はたぶん60代。禿げていて、太っていて、銀縁メガネをかけていた。背の高い方は、たぶん30代。痩せていて、あご髭が生えていて、なよなよしていた。背の低い方の男が僕に向かってゆっくりと頭を下げてから、言った。
「こんにちは。君の主事医を務める北野慎之介です。君が眠っている間にやった検査の結果を伝えに来たんだ。つらい話だけれど、聞いてほしい。私たち医療スタッフは君の回復のために全力を尽くすと約束するよ。ところで、君はあさっての試合に出たいんだね」
 僕は60代男をにらみ付けて、うなずいた。
 60代男はゆっくり言った。
「残念だけど、君は長期入院しなければならない。あさっての試合には出られないんだ。検査の結果は、たぶん君の予想をはるかに超えている。今から検査の結果を伝えたいけど、心の準備はいいかい?」
 心臓がバクバクと音を立て始めた。こめかみの血管がドクドクと波打った。喉がカラカラに乾いていた。僕は黙ったまま、60代男の目を見つめた。
 60代男はカッと目を開き、僕の目を見据えて、はっきりと言った。
「検査の結果を君は聞きたいだろうし、検査の結果を聞かないと、君も入院することに納得できないだろう。心の準備なんか、すぐにはできないだろうけれど、聞いてほしい」
 60代男は目を閉じて、息を吸ってフーッと吐き出した。そして、目を開けて、言った。
「君は・・・・・・ガンです。白血病だ」
「ガン? 僕は死ぬんですか?」
 60代男は言った。
「大丈夫だ。君の場合、命に係わる病気ではない。それに・・・、ガンの新しい治療法が現在も次々と開発されているんだ」
 僕は黙っていた。と言うより、しゃべれなかった。口を開けたけど、言葉は出てこなかった。急に呼吸が苦しくなって、口からハアハアと息を吐き出した。気分が悪かった。胃の中のものをすべて吐き出してしまいそうだった。
 脳みそがグチャグチャになっていた。ガン?・・・「そんなの、ウソだ」、そして、「もうすぐ死ぬんだ」という言葉が僕の頭の中を駆け巡った。
 次の瞬間、僕の中にいる野獣が目を覚まして、叫んだ。
「ウォーッ!!」
 僕は枕をつかみ、60代男に投げつけた。
「嘘をつくな! 僕がガンだなんて! 何かの間違いだ! 僕はあさっての試合に出るんだ!」
 ベッドから降り、右手を上げて男に向かって行った。
 しかし、次の瞬間、僕は後ろから誰かに羽交い絞めにされた。僕は大声で叫びながら、両手と両足を力いっぱい振り回した。
「離せ! 離せ! 離せ!」
 僕は力づくベッドの上にねじ伏せられた。涙が止まらなかった。
 病室のドアが開いて、多くの患者が僕を覗いているのが見えた。僕は怒鳴り上げた。
「どっか行け! 見世物じゃないぞ!」
 看護師が患者たちを押し出して、ドアを閉めるのが見えた。
 僕は両手と両足を力いっぱい押さえつけられていた。それでも僕はもがき続け、叫び続けた。医者が看護師に向かって何かしゃべった。看護師が注射器を持って、やって来た。
「何をするんだ? やめろー!」
 看護師が僕の腕を消毒しながら言った。
「鎮静剤よ。落ち着けるわ。静かにしててね」
右腕を何人かの看護師に力ずくで押さえつけられた。そのあとのことはわからない。僕の意識は朦朧としていった。
 
 どれくらいの時が経っただろうか・・・。遠くから母さんの声が聞こえた。
「誠司! 誠司!」
 僕は目を開けると、母さんの顔がぼんやりと見えた。
 母さんが僕の手を握って、言った。
「大丈夫? あなた、10時間以上、眠り続けていたのよ」
 僕は言った。
「ということは、今日は22日で、試合はまだ明日なんだね?」
 母さんがうなずいた。それから、ナースコールのボタンを押した。
僕は上半身を起こそうとしたけど、無理だった。体が自分のものじゃないように重かった。
 しばらくして、背の高い、髭ずらの30代男と看護師がやって来た。
 30代男は銀歯を見せながらニヤッと笑った。
「おはよう、鈴木誠司君。僕は、君の担当医の阿南健太といいます。主治医は北野慎之介先生だけど、北野先生が君を往診するのは・・・一週間に一回くらいだな。僕は毎日、君を往診するからね。よろしくね。昨日はぐっすり眠れたかい?」
 僕が黙っていると、阿南先生が言った。
「どうだい、気分は?」
 僕は早口で叫んだ。
「気分なんか、どうでもいいです。そんなことより、検査をやり直してください。僕はガンだと言われましたけど、何かの間違いです。僕がガンだなんて・・・、そんなこと、ありえません!」
 阿南先生は言った。
「信じられない・・・っていうことだね」
 僕は頭を縦に振った。
「信じられるわけないでしょう? 僕はサッカー部で、毎日、猛練習を続けて来たんです。体の調子が悪かったことなんて、なかったんです。僕が白血病なんかになるはず、ありません! 明日は試合なんです。どうしても明日の試合に出たいんです」
 阿南先生は言った。
「そうだね。今日は検査をするよ。心臓や骨髄などの検査だ」
 僕は言った。
「検査をすれば、僕がガンじゃないということがわかるはずです」
 阿南先生は言った。
「鈴木君。ガンという診断を告げられることは、誰にとっても良い知らせじゃない。『あなたはガンですよ』と告知されて、『やった!』と喜ぶ人なんて、一人もいないよ。ショックを受けて、『何かの間違いだ』とか、『これは夢だ』などと考えるのは、人として自然な反応だ。だけど、この一大事を乗り越えるためには、『ガンと向き合って、現実的に考え、現実的に行動していくこと』が必要なんだ」
 僕は聞き流して、言った。
「とにかく、もう一度、検査していただけるんですね。安心しました」
 阿南先生はフーッとため息をついた。
「とにかく、今日の午前中は検査を頑張って受けてください。夕方には検査の結果を伝えに来るからね。検査の結果が出て、それが君の望む結果が出なかった時は、入院を受け入れてほしい。君が明日の試合に出たいという気持ちは十分わかるけど・・・」
 そう言うと、阿南先生は部屋を出て行った。


 7月22日。僕は午前中、看護師と共に病院を回り、色々な検査を行った。
 そして、午後4時になった。僕が個室の511号室で休んでいると、阿南先生がやって来た。
「やあ。調子はどうだい?」
 僕は横になったまま、言った。
「少しきついです。ところで、検査の結果はどうだったんですか? 良ければ、今から自宅に帰って、明日は試合に出たいんです!」
 30代男はカルテをしばらく見てから、顔を上げて、僕を見据えた。
「今日の検査の結果を伝えます。君は急性リンパ性白血病です」
 体がブルブルッと震えた。
「な・・・何ですか、それ?」
 阿南先生は言った。
「君は、ガンだ。血液のガン・・・つまり、白血病だ。まちがいない!」
 僕は口をポカンと開けたまま、阿南先生を見つめた。
 阿南先生はしゃべり続けた。
「白血病って何か、わかるかい? 白血病は、血液細胞になるはず若い細胞が、血液細胞にならない病気だ。血液細胞には、赤血球・血小板・白血球があるけれど、・・・血液細胞になるはずの若い細胞が、赤血球や血小板や白血球に成熟しなくて、骨髄に蓄積してしまうんだ。わかるかい? 血液細胞が作られる過程で、ガン化した細胞は骨髄内で増殖して、骨髄を占拠してしまうんだ。そうすると、正常な血液細胞は少なくなってしまう。その結果、いろんな症状が現れるんだ。例えば、免疫系の働きの低下、貧血、出血傾向などの症状が・・・」
 阿南先生はゴホンと咳をしてから、再びしゃべり続けた。
「小児白血病の約70%は急性リンパ性白血病だ。英語の病名の頭文字で、簡単に『AAL』と呼ばれるんだ。君の白血病も『AAL』だ。白血病は、ガン化した細胞のタイプから、『リンパ系』と『骨髄系』の二つに分けられるんだ。『リンパ系』とか『骨髄系』とかいった言葉の説明はちょっと難しいから、今日はそこの説明は割愛しよう。まあ、とにかく、リンパ球性の若い白血病細胞が成熟・分化せずに、骨髄の中で無秩序に増加した状態・・・それが、『急性リンパ性白血病』だ」
 僕は肩をすくめた。
「何を言っているのか、さっぱりわかりません。ただ、先生が言いたいことはわかりました、『僕が間違いなくガンだ』ということですね。でも、信じられません。自覚症状は何もないんです」
 阿南先生は大きく頷いた。
「君が認めたくない気持ちなのは、わかる。だけど、君が今はガンの腫瘍に侵されていることはまぎれもない事実であり、変えようもない現実であり、受け入れていくしかない。・・・う~ん。と言うか、次第に受け入れていった方がいい」
 僕は下唇を舐めてから、言った。
「どれくらい?・・・・・・僕がガンだと仮定したら、どれくらい入院することになるんでしょうか?」
 阿南先生は腕を組んだ。
「こればかりは経過次第だから、何とも言えない。でも、約2年は覚悟しておいてほしい」
 僕は叫んだ。
「2年間も!」
 僕はうつむいて、目をつむった。
 阿南先生が僕の肩に手を当てた。
 僕はつぶやいた。
「なぜ僕だけが、こんな目に合わなければいけないんでしょうか・・・」
 阿南先生は僕の肩をさすった。
「なぜ? それは、僕にもわからないな。ただ・・・」
 僕は顔を上げて、阿南先生を見た。
 阿南先生は窓の外を見ながら言った。
「ただ、大事なことは己のベストを尽くすことだ」
 僕は繰り返した。
「ベストを尽くすこと・・・」
 阿南先生は頭を左右に振ってから、僕を見た。
「ところで、病室を移動してもらいたいんだ。夕食前に引っ越ししてもらいたい。引っ越しと言っても、お隣の部屋・・・512号室に移動するだけだけどね。担当の看護師、中本がもうじきやって来るからね。ところで、512号室は大部屋で、君以外に5人の患者さんがいるからね。君はもう15歳を過ぎているから、大人と同じ扱いで、大部屋に入ってもらうよ。それじゃあ、明日からさっそく治療を開始するよ。明日、また説明に来るからね」
 そう言うと、阿南先生は病室から出て行った。
 しばらくして、看護師がやってきた。目がパッチリした看護師だった。20代の前半だろうか? 胸の名札には「中本桃子」と書いていた。
 中本さんはニッコリ笑った。
「鈴木君。こんにちは。私、512号室担当の看護師、中本です。よろしくお願いしますね。それじゃあ、今から引っ越しをするからね」
 僕は荷物を持って、中本さんと一緒に隣の病室に入っていった。5人の患者さんが一斉に僕を見た。
 中本さんが大きな声で言った。
「こんにちは。今日からこの部屋に入ることになった鈴木君です。みなさん、よろしくお願いしますね」
 僕はぺコンと頭を下げた。
「鈴木誠司です。どうぞよろしくお願します」
 そして、僕は空いているベッドに荷物を運び入れた。そのベッドは入り口から入って一番奥の右手にあるベッドだった。ベッドに横になると、僕の右側には大きな窓があり、そこから大峰山が見えた。
 しばらくして中本さんが言った。
「鈴木君。患者さんに挨拶しに行こう。一人ずつ、行くからね」
中本さんは僕を患者さん一人一人のところに連れていき、紹介してくれた。
 まず、中本さんは僕の左隣のベッドのところに僕を連れて行った。
 中本さんが言った。
「柿内さん、こちら、鈴木君よ。やさしくしてあげてね」
 僕は頭を下げた。柿内さんはニコニコと笑った。柿内さんは坊主頭で、お笑い芸人みたいにニコニコ笑顔だった。歳は40代だろうか? 
「こんにちは。僕は胃ガンなんだ。もうすぐ退院する予定だけど。よろしくね」
やけに声がでかいおじさんだった。
 次に、中本さんは僕を向かいのベッドの患者さんのところに連れて行った。
「中村さん。こちら、鈴木君よ。まだ中学生だから、わからないことを教えてあげてね」
 中村さんは30代だろうか、髪の毛はフサフサで、テレビ俳優のようにイケメンだった。
 中村さんはニヤッと笑った。
「まだ若いのに、大変だね。僕はね、大腸ガンなんだ。一緒に頑張ろうね」
 そう言って、僕に右手を差し出した。思わず僕も右手を出し、握手した。
 三番目に、中本さんが僕を連れて行ったのは、僕のベッドから見ると左ななめ前の患者さんだった。
「田中さん。こちら、鈴木君。まだ15歳なのよ。よろしくお願いしますね」
 田中さんは、歳は50代? ビジネスマン風のおじさんだった。黒縁のメガネをかけて、黒髪を7・3に分けていた。
 田中さんはメガネのまん中を右手の人差し指の先でピョンと押し上げた。
「15歳? まだ若いのに、大変だね。と言っても、こちらも舌ガンだから、大変なんだけどね。舌ガンって、わかる? ベロに腫瘍ができているんだ。酒とタバコを飲みすぎたせいだろうね。酒とタバコは飲まない方がいいよ~。ガハハハ・・・」
 僕は「よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。
 それから、中本さんは僕を病室の入り口から入ってすぐ右手のベッドに連れて行った。僕のベッドから見ると、左横の、さらにもう一つ左横のベッドの患者さんだった。
 中本さんが僕を指差して、言った。
「長嶋さん。こちら、鈴木さん。よろしくお願いします」
 僕は頭を下げた。そして、長嶋さんを見た。歳は90代ぐらいだろうか。痩せていて、気難しそうなお爺さんだった。
 だまったまま、こちらを向きもしなかった。
 最後に中本さんは、病室の入り口を入ってすぐ左手のベッドのところへ僕を連れて行った。僕のベッドから見ると、一番対極の位置にあるベッドだった。
「秋山さん、聞こえますか? こちら、新しい入院患者の鈴木さんよ。まだ中学生なのよ。よろしくお願いしますね」
 僕はさんを見た。歳は70代か? 頭はツルッパゲだった。目が細く、眼が鋭く光っていた。僕は少しあとずさりした。
 秋山さんは甲高い声で言った。黒板を引っ掻いたような声。
「わ・・・わ・・・わたしは・・・、あ・・あき・・・あきやま・・・で・・・です。よ・・・よろ・・・よろしく、お・・・お・・・おおお・・・ね・・・ねがい・・・しま・・・しま・・・します」
 そして、秋山さんは頭を深々と下げた。
 僕は思った、「この人はうまくしゃべることができないようだ。この人も、舌ガンなのかもしれない。舌がうまく回らないのかも・・・」と・・・。
 中本さんは僕に5人の患者さんを紹介してから、僕を自分のベッドのところに戻した。そして、僕につぶやいた。
「秋山さんは吃音だから、あまりしゃべりたくないようなの。だから、ベッドの周りのカーテンを閉じて読書したり、団らん室に行って読書したりしていることが多いのよ」
「吃音・・・って、どもるってことですね。僕はてっきり、秋山さんって舌ガンなのかなと思いました」
 僕はベッドの上に座り、フーッと息を吐き出した。そして、考えた、「この部屋は、ガン患者のための部屋なんだ。そして僕も間違いなく、その一人なんだ」と・・・。
 それから、ベッド横になって、窓の外を見た。大峰山の山頂は黒い雲がかかり、今にも雨が降りそうだった。
 しばらくして、夕食の時間になった。中本さんが夕食を運んで来てくれた。
 僕は一人で夕食を食べていると、隣の柿内さんがニコニコ笑顔で話しかけてくれた。
「住めば都・・・っていうだろう? 入院した最初はね、俺も落ち込んでいたけれど、段々元気が出て来るから、大丈夫、大丈夫! わからないことあったら、何でも俺に聞いてよね」
 僕は「ありがとうございます」と言った。
 しかし、「今日は疲れたから、早く寝ます」と言った。
 そして、僕はベッドの周りにあるカーテンをサーッと引っ張り、布団をかぶった。
 しかし、いつまで経っても眠れそうになかった。


 0時をまわった。7月23日になった。目が冴えわたっていた。
 自分でもなぜだかわからなかったけど、僕は声を押しとどめることができなかった。
 自分の口から変な叫び声が勝手に出て来て、止めることはできなかった。
「ぐぎゃー!」
 真っ暗になった病室に僕の雄叫びがこだました。
「助けてくれ~! イヤだ、イヤだ、イヤだ~~!!」
 看護師の中本さんが駆けつけてきた。しばらく僕の目を見てから、言った。
「鈴木君! 鈴木君! どうしたの?」
「やっぱり、俺を試合に出させてくれ! 今日の9時から試合なんだ! 俺はこんなところにいるわけにはいかないんだ!」
 中本さんが僕の額に手を当てた。
「熱を測ってみようね」
 僕は中本さんの手を払いのけた。
「そんなことしても、何の意味もない。どうせ、試合にはもう出られないんだ! それに! それに! それに!」
 中本さんの目が引きつっていく。しかし、口が勝手に動くのを止めることはできなかった。
「2年間入院しろだって? 嘘だろ! 俺は中学3年生なんだぞ。もうすぐ高校受験なんだ。夏休みまではサッカーを頑張る。そして、試合に負けたら、受験勉強をきちんとスタートさせる予定だったんだ。なのに! なのに!」
 声にならなかった。泣き叫んだ。
「バカ野郎! 俺は一体、どうすればいいんだー!!」
「鈴木君!」
中本さんが叫んだ。そして、ナースコールを押した。
「やめろ! なぜボタンを押すんだ! どうするんだ? また、注射を打つ気か!! 俺を病人扱いするな! 俺は9時から試合なんだ!」
 同室の患者たちが僕を黙って見つめていた。まるで僕が気違いみたいに・・・
「そんな目で俺を見るな!」
 僕は枕を投げた。ガシャーン。何かが割れる音がした。
 次の瞬間、看護師が山のように部屋に乱入してきた。そして、僕を抑え込む。
 ベッドごと僕は部屋の外に出され、長い廊下を移動していく。
「やめろ、やめろ、やめろ! どこに連れていく気だ~!」
 僕は叫び続けた。
「俺はガンなんかじゃない。俺をだますな。みんなで、俺をだますな~! 俺は明日の試合に出るんだ! 俺を試合に出させてくれ~!」
 廊下の突き当たりの部屋のドアが開き、僕のベッドはそこに運び込まれていった。
 ただの空き部屋。ベッドから降ろされ、僕はマットの上に乗せられた。
 すると、看護師たちが部屋から出て行った。残ったのは、男の看護師と僕だけ。
 ギーッ。ガチャン。
 僕はドアに走り寄って、ドアノブをガチャガチャと回し続けた。しかし、無駄だった。ドアは決して開かなかった。ドアや壁をドンドンと叩き続けた。手が痛くてたまらなかった。ひとしきり叫んだが、何の反応もなかった。
 男の看護師が静かに言った。
「さあ、落ち着いて。静かにしよう」
 僕はマットの上に座り、ため息をついた。
 しかし、僕はいつしか眠りに落ちてしまった。


 目が覚めた。
 ゆっくりと目を開いた。白い天井と、白いカーテン。テレビ。それは、以前見た風景だった。
「512号室?」
 中本さんがベッドの傍らに座っていた。朝食がベッドのわきに置かれていた。
「目が覚めた? 鈴木君。大丈夫かな? 朝ごはん、食べられそうかな?」
 僕はぐったりして、何も答えられなかった
 中本さんが僕の目を覗き込んで、言った。
「あなたが落ち込んでしまうのもわかる気がする。だけど、ガンで戦っているのは、あなただけじゃないわ。『あなたはガンだ』って言われたら、最初は『自分はガンなんかじゃない』って否定する人が多い。だけど、ゆっくりでいいから、ガンという現実を受け入れていってほしいの・・・」
 僕は目を閉じた。体中から力が抜け落ちていくようだった。
 僕はハッと思い出した。
「今日は何日ですか?」
「今日? 今日は7月23日よ」
「今は何時ですか?」
 飯田さんは腕時計をチラッと見た。
「午前10時よ」
「試合は・・・。もう始まってしまったんだ」
「試合?」
「サッカーの試合です。僕にとっては・・・、大事な大事な試合だったんです。今日の9時、キックオフだったんです」
「そうなの・・・・・・」
 そう言ったきり、中本さんは黙っていた。
 しばらくして、中本さんが言った。
「少しは落ち着いたかな?  昨日みたいにまた暴れるんだったら、特別室にまた行かなくっちゃいけないけど・・・・・・?」
 僕は顔を上げて、言った。
「大丈夫です、たぶん・・・・・・」
「たぶん?」
「はい。なぜって、もうすぐ試合は終わってしまうから」
 僕はベッドに横になって、布団を引っ張り上げ、頭まですっぽりと布団をかぶった。

2:ミスターXからの手紙、一通目
・・・自分の苦しみを判別する。変えられないことか、変えられることか?

 今日は7月24日。入院して、4日目。
サッカーの試合は昨日終わってしまった。試合の結果は母さんから聞いた。2対1で勝つことができ、僕たちのチームは第二回戦に進むことができたそうだ。でも、そんなこと、もうどうでもよかった。
朝食後、いくつかの検査を受けた。そして、僕は病室に戻って、ベッドに横になった。
 しばらくしたら、看護師の中本さんの声がした。
「鈴木君。昼御飯よ」
 僕は寝たふりをしていた。誰とも話がしたくなかった。
「鈴木君。君宛ての手紙が届いているの。病院の受付ポストに入っていたの」
 僕はガバッと布団を払いのけ、顔を出した。
「何が届いてるんですって?」
 自分でもびっくりするほどの大声だった。
 中本さんが僕に手紙を差し出した。
 僕は思った、「一体、誰が僕に手紙を寄こすんだ?」と。僕は右手を伸ばし、手紙を受け取った。すぐに表書きを見た。病院の住所が書かれていないし、切手も貼られていない。ただ「市立病院の南病棟512号室、鈴木誠司様」と書かれていた。手紙をひっくり返し
て、裏を見た。「ミスターXより」と書いてあるだけ。差出人の名前も住所も書いてなかった。
僕はさっそく封を切り、中の手紙を引っ張り出して、読んでみた。


512号室の鈴木誠司君へ
                           ミスターXより


前略
鈴木君、君はガンと宣告されて、頭の中が真っ白になり、何も考えられないし、何も信じられない状態だと思います。
 私はどうしても君に一言伝えたいことがあり、手紙を書かせてもらいました。
 私が誰なのかを名乗ることを控えさせていただきます。すみません。


 今の君に一番言いたいことは、以下のことです。
「生きづらい時は、以下のことを実行してもらいたいです。
自分を苦しめる状況が、次のどちらなのか、判別して下さい。
A 自分のコントロールが全く及ばないこと(どうにもできないこと)
B 自分のコントロールがある程度まで及ぶこと(どうにかできること)
 ただし、その判別は頭の中だけで行わないで下さい。紙に書き出してみて下さい。この判別をすると、生きづらさがスーッと消えていきます。なぜなら、自分の苦しみ・悩みがもしAならば、それをあるがまま受け止めるしかないですし・・・、自分の苦しみ・悩みがもしBならば、変えていく努力すればいいからです。
自分が悩んでいることが「どうにもできないこと」なのか、「どうにかできること」なのか・・・そのどちらなのかを判別できれば、気分はスッキリ・サッパリとなります。
どうか、自分の苦しみ・悩みを判別してみて下さい」
言いたいことは、以上です。


これからは、付け足しです。
自分の悩みの識別を具体的にどうやるのかを書いておきます。
 白い紙のまん中に縦線を描き、左側には「A 自分のコントロールが全く及ばないこと」を書きます。そして、縦線の右側には「B 自分のコントロールがある程度まで及ぶこと」を書くのです。


 具体例を2つ書いておきます。一つ目は、サッカーの練習や試合の時に苦しいと思った場合。二つ目は、ガンを告知されて苦しい場合です。
★一つ目(サッカーの練習・試合で苦しい場合)
A 自分のコントロールが全く及ばないこと
・生まれつき与えられた自分の運動能力が自分の願うほどには恵まれていない。
・チームメイトのミスプレー。
・過去の戦績。
・相手チームの状態   

・トレーニングによって技術や体力を向上させること。                     

B 自分のコントロールがある程度まで及ぶこと

・自分がチームメイトと協力すること。。」

・試合中の今この瞬間のプレー。

・今後の練習の内容を考えること。

★二つ目(ガンの告知、ガンの告知で苦しい場合)

A 自分のコントロールが全く及ばないこと

・自分が今、ガンだという事実。

・薬の副作用。

・入院している間は、在籍している学校に行けなくなること。   

B 自分のコントロールがある程度まで及ぶこと

・ガンに関する情報を集めること。
・医療スタッフや家族とコミュニケーションを取って、意欲的・前向きでいられるようにすること。
・治療の方法について医者と協議すること。
・自分の精神面をコントロールすること。
・体調を整えること(食事・睡眠・運動)。
・悩んでいることを相談すること。
 

上の二つの表をからわかることは何でしょうか? 
「A 自分のコントロールが全く及ばないこと」は、「過去」と「他人」に関することだということです。つまり、「過去」と「他人」は、変えられないのです。
そして、「B 自分のコントロールがある程度まで及ぶこと」は、「今」と「自分」に関することです。つまり、自分が今、何をどのように考えるか、何をどのように努力するかということは、コントロールできることです。そして、今の思考・努力が、未来を変えていくのです。


以上のことから、おススメしたい考え方・行動の仕方は、以下の二つです。
①変えられないことは、受け入れる! 無駄なエネルギーを注がない!
・「A 自分のコントロールが全く及ばないこと」については、次のように考えない、「我慢できない、許せない、変えたい、変わるべきだ」なんて・・・。どんなに嘆いてもコントロールできないのだから、嘆くだけ無駄である。嘆くなど、無駄なエネルギーを注がないのが、賢いやり方だ。
②変えられることにだけ、エネルギーを注ぐ。
・「B 自分のコントロールがある程度まで及ぶこと」についてだけ力を注ぐべきだ。

 最後に、私のアドバイスとその理由をもう一度述べて、終わります。
自分を苦しめる状況が、次のどちらなのか、判別した方がいいです、「A 自分のコントロールが全く及ばないこと」なのか、あるいは、「B 自分のコントロールがある程度まで及ぶこと」なのか・・・
なぜそうした方がいいのか? そうすれば、あまり悩まなくて済むから。もし自分を苦しめている状況が「A」である場合は、諦めて受け入れていくしかないし、・・・もし自分を苦しめている状況が「B」である場合は、できるだけの努力をして、状況を改善していく原因づくりをしていけばいいのであるから・・・。
多くの人は自分の苦しみがAなのか、それともBなのかを判別していません。そして、多くの人は、変えられないことを変えたいと望んで苦しみ続けたり、変えられることを変える努力をしないで、「苦しみが変わらない」と嘆きつづけたりしています。
自分の苦しみが「どうにもできないもの」なのか、「どうにかできるもの」なのかを判別できれば、苦しみを乗り越えて行くことができます。とにかく、試してください。そうして、生きづらさがスーッと消えていく感じを自分の体で実感してみて下さい。
草々

僕は手紙を折り、封筒に入れた。
僕は思った、「こんなことで僕の苦しみが解決するのだろうか? 自分の悩み・苦しみを判別するだけで、解消されるのだろうか?」と。「でも、とりあえず、試してみるだけ試してみようか。ダメでもともとだし・・・」と。
それから、僕は思った、「この手紙を書いた人は、僕のことをよく知っている人だ。僕がこの病院に入院してから、暴れたり叫んだりしたことを知っていなければ、こんなこと、書けるはずがない。ミスターXは、この病院内にいる誰かなんだ。一体、ミスターXは誰なんだ? 医者か? あるいは、看護師か? あるいは、入院患者か?」と・・・。

3:検査、そして、寛解導入療法スタート

 今日は7月25日。
 昨日の昼食時に届いたミスターXからの手紙を読み終えて、僕は思った、「ミスターXは、この病院のスタッフか、患者に違いない。なぜなら、ミスターXは僕が入院してから暴れたことをよく知っているからだ。それに、手紙には切手が貼られていない。この病院内にいる誰かが手紙を書いて、病院の受付ボックスの中に入れたんだ」と・・・・・・。
 さらに、僕は思った、「一番怪しいのは、担当医の阿南先生だ。あの髭の先生が僕を元気づけようと思って、手紙を寄こしたに違いない。今度、会った時に尋ねてみよう」と・・・・・・。
 

 朝食が終わって、担当医の巡回が始まった。
 阿南先生が512号室に入って来て、僕の顔を見ると、右手を挙げた。
「やあ、鈴木君。どうだい、気分は?」
 僕はフーッとため息を吐き出した。
「気分ですか? 何と言っていいか、わかりません」
「そうか。でも、以前に比べたら、少しは落ち着いたように見えるけど・・・」
 僕は顔を上げて、阿南先生に向かって言った。
「気のせいです。少しも落ち着いていません」
 阿南先生は真面目な顔をして、居住まいを正した。
「そうか、そうか。そうだよな。まだ入院して、5日目だからなあ。でも、今日から治療を本格的に始めることになるよ」
「はい」
「まず、寛解導入療法という治療を始めるよ」
「か・ん・か・い・ど・う・に・ゆ・う・り・よ・う・ほ・う? 何ですか、それ?」
「鈴木君。寛解治療療法というのは、白血病細胞を一気に減らすことを目標にした治療なんだ。複数の抗癌剤を使うんだ」
「どれくらいの期間、行うんですか?」
「そうだな。3週間から4週間ほどかかる。この間、大量の抗ガン剤を用いる。つまり、寛解導入療法とは、強力な治療法だ。これをやると、完全寛解を得られるんだ」
「完全寛解? なんですか、それ?」
「治療の後に、脊髄に正常細胞が現れ、輸血が不要になり、白血病細胞が5パーセント未満に減少すると、『完全寛解』と判断されるんだ」
「完全寛解になる患者は、どのくらいいるんですか?」
「心配だよね。通常の寛解導入療法を行うと、現在では、約8割の患者さんが『完全寛解』に到達できるんだ」
「約8割! けっこう高い数字ですね」
「そうだね。希望が持てたかい?」
「そうですね、少しは・・・」
 阿南先生は髭をもぞもぞと触った。
「だけど、いいことばかりじゃないんだ」
「悪いこともあるんですか?」
「残念だけどな。寛解導入療法は大量の抗ガン剤を用いるって言っただろう? 確かに、強力な治療法ではあるんだけど、多くの患者さんは、薬の副作用や合併症を経験してしまうんだ」
「副作用と合併症! 一体、どんな症状なんですか?」
「考えられる副作用としては、脱力感や吐き気を感じたり、嘔吐したり、下痢をしたり、脱毛してしまったり、貧血や食欲不振になったり、免疫力が低下して細菌やウィルスに感染しやすい状態になったり、口や喉の痛みがあったり・・・」
 足がブルブルと震えた。それから、こめかみの血管がドクドクと音を立てながら流れていくのを感じた。
 阿南先生は僕の目を覗き込んだ。
「こんなこと言うのは、君を驚かせようとするためじゃない。あらかじめ、そういう心身の変調が起こるかもしれないと、心の準備をしておくといいと思って、言ってるんだ」
 僕はため息をついた。
「そう言えば、そうですよね。『何の副作用もない』と思い込んでいたら、いざ副作用が襲って来た時に、キツイですよね」
 阿南先生は右手で鼻の下をこすった。
「それから・・・君が完全寛解を得られたら、それで治療が終わり・・・というわけじゃないんだ。そのことも、知っておいてほしい。完全寛解が得られても、白血病細胞が完全に体からなくなったわけじゃないんだ。放っておくと、再発の恐れがある。だから、完全寛解が得られても、次の治療が始まるんだよ」
 僕はうなずいてから、手を挙げた。
「先生。聞きたいことがあるんですけど・・・」
「なんだい? なんでも聞いていいよ」
「僕がガンになった理由について知りたいんです。」
 阿南先生が髭をこすりながら、言った。
「答える前に質問していいかい?」
「はい」
 僕はうなずいた。
 阿南先生はもみあげを人差し指の腹でこすり上げながら言った。
「なぜガンになった理由が知りたいんだい?」
「なぜって・・・、なぜ僕がガンなんかにならないといけないのか、わからないからです」
 阿南先生は腕を組んで、天井を見上げて、しばらく目をつむっていた。
 そして、しばらくして、僕の目を見据えて、言った。
「君がガンになった理由は・・・・・・、はっきり言って・・・・・・、わかりません!」
 僕は大声で叫んだ。
「わからない?!」
 病室の患者さんの視線が僕と阿南先生に集中するのがわかった。
 阿南先生はしゃべりつづけた。
「もしかしたら、君は・・・・・・、ガンになった原因が自分にあると思っているんじゃないだろうか? 違うかい?」
 僕はうろたえて答えた。
「ええ、まあ・・・」
「安心しろよ。君のせいなんかじゃない。君の行いのせいでもないし、君の責任でもない」
 僕は間髪いれずに言った
「じゃあ、原因は何なんですか?」
「ガンの原因は簡単には特定できないんだ」
 僕は中学校の授業で勉強したことを思い出して、言った。
「学校の先生が確か教えてくれたような気がします、『ガンは生活習慣病』だって・・・。たしか、こんな風に説明してくれました・・・、『喫煙や飲酒があると、遺伝子の変異が起きやすくなる。ガンの発症には、生活習慣が大きく関係している』と・・・」
 阿南先生は僕の目を覗き込んで、言った。
「君はタバコを吸うのかい? あるいは、お酒を飲むのかい?」
 僕は顔を左右に強く振った。
「もちろん、タバコも吸いませんし、酒だって飲みません! 僕がそんなこと、するわけないじゃないですか? 僕はサッカーに命を賭けて来たんですよ」
 阿南先生は笑った。
「そうだったね。確かに、喫煙や飲酒などの生活習慣が、ガンのリスクとなるというデータはある。しかし、患者一人一人がガンになる本当の原因はわからない。ガンの人が全員、生活習慣が悪いというわけじゃないんだ」
「じゃあ、僕がガンになった理由は・・・? なぜ俺がガンにならなきゃいけないですか? 理由を教えて下さい。何か、俺、悪いことしたんでしょうか? それとも、ガンって、遺伝なんですか?」
 先生は鼻の下を右手でこすった。
「運・・・だな?」
 僕は叫んだ?
「運? それって、『運命』ってことですか?」
 阿南先生は首を振った。
「いやいや、『運』というのは、『巡りあわせ』という意味さ。ガンの発症に影響した要因を分析すると、偶発的な遺伝子の複製ミスという要因が最も高いんだ。ガンの約7割近くの要因が『運次第』ということなんだ。ガンが発症するということが、生まれる前からあらかじめ定められている・・・というわけじゃないんだ」
 僕が黙っていると、阿南先生は続けて言った。
「ガンは遺伝子の病気なんだ。人間の細胞は常に新しい細胞と入れ替わるから、分裂したり増殖したりしている。その際、遺伝子が複製されて、受けつがれていくんだ。しかし、複製ミスが起こる場合がある。遺伝子の複製ミスが起こると、異常な遺伝子が生じ、ガンが発生するんだ。・・・遺伝子の複製ミスは、偶然に発生するんだ。つまり、原因などなく、思いがけず起こるんだ。だから、ガンが発症するのは、『運』なんだ。君が悪いわけでもないし、親から受け継いだ遺伝子が悪いというわけでもないんだ」
 僕は確認した。
「阿南先生! じゃあ、ガンの最大要因は、『運』なんだと考えていいんですね」
 阿南先生は大きくうなずいた。
「そうだね。だから、君は自分を責める必要もないし、親を呪う必要もない。好むと好まざるとにかかわらず、たまたま君の細胞に複製ミスが発生したというだけさ。だから、それは受け入れるしかない」
 僕はハッとした。阿南先生が「受け入れるしかない」と言ったからだ。
「あのお、阿南先生。もう一つ、質問があるんですが・・・」
「何だい?」
 僕は昨日届いた手紙を差し出した。
「この手紙が昨日僕の所に届いたんです。その中にこんなことが書いてあったんです。つまり、『苦しいことがある時、それが完全にコントロールできない状況であるならば、その状態を変えたいなんて悩まないで、受け入れていった方がいい』と・・・・・・。例えば、ガンの発症です。自分にガンが発症したことはどうしようない事実であり、それを否定したり、間違いだと言い張ったりしても、何もならない・・・って、書いてあるんです」
 阿南先生は、僕の手から手紙を受け取ると、それを読み始めた。
 僕はこっそりと観察した。なぜって、「この手紙を書いたのは、もしかしたら、阿南先生ではないか」と推測していたからだ。しかし、阿南先生の様子からすると、その可能性はほとんどなさそうだった。阿南先生は注意を集中し、手紙の文章を目で追っていた。
 しばらくして、阿南先生は顔を上げて、言った。
「鈴木君。いい手紙をもらったね。素敵なことが書いてあると思うよ」
「そうですか? 先生、どう思います?」
「うん。僕は、この手紙に書いていることは、正しいと思う。状況が『自分で全くコントロールできない場合』は、どうにかしたいと望んでも仕方ないと思うよ。望んでも、変えられないんだから・・・。だから、やっぱり受け入れるしかないと思う。変えられないことを変えたいと望んでイライラしても、骨折り損のくたびれもうけ・・・だよね」
 僕は阿南先生に向かって猛然と叫んだ。
「でも、受け入れるなんて、簡単にできることじゃないですか! 変えられないとわかっていても、『変えたい』と望んでしまうのが、人間じゃないですか! そんな・・・感情のないロボットみたいなこと、できませんよ。理性的に考えて、『変えられないから受け入れることにしよう』なんて、簡単にできませんよ!」
 阿南先生は、僕に顔を近づけて、僕をジッと見た。
 僕は顔を引きながら叫んだ。
「自分がガンになったことを受け入れろと言われても、そんなこと、できません! 確かに自分の意思や努力でガンを無くすことはできません。ガン細胞を僕がコントロールすることは不可能です。でも、それを無くしたいと願ってしまうのが人情じゃないですか? できないとわかっていても、変えたいと思ってしまうのが人間じゃないですか!」
 同室の患者さんの視線が僕に集中しているのをイヤというほど感じた。でも、僕は叫ぶのを止められなかった。
「『イライラした状況が自分のコントロールが全く及ばない状況である場合、受け入れろ』なんて言われても、一体、どうやったら受け入れられるというんですか!!」
 僕は怒鳴った。病室がシーンと静まり返った。
 阿南先生は両手を挙げて、言った。
「残念だけど、どうやったら受け入れられるのか、僕にはわからない。少なくとも、今すぐには答えられない。でも、考えてみるよ」
 そう言うと、阿南先生は病室を出て行った。
僕はベッドから降り、廊下を走って、阿南先生の背中に向けて叫んだ。
「阿南先生!」
 阿南先生が振り向いた。
「鈴木君? 一体、どうしたんだい?」
「もう一つ質問があったのに、尋ねるのを忘れてました!」
「何だい?」
「さっき見せた手紙の書き主のことなんですけど・・・」
「うん?」
「あの手紙を読んで判断すると・・・、ミスターXは僕の病気のことをよく知っているんです。僕の推測が正しいとすれば、ミスターXは病院関係者じゃないかと思うんです。僕がガンを告知されて暴れたりしたもんだから、僕のことを心配して、手紙をくれたんじゃないかと思うんです」
「そうなんだ・・・」
 僕は阿南先生の目を見て、言った。
「ミスターXは、まさか・・・阿南先生ではないでしょうね・・・」
 阿南先生は目を細めた。
「ハハハ。残念だけど、僕じゃない。もし僕が君を元気づけたいと思ったら、手紙など書かずに直接言うよ。医療スタッフが患者に対して無記名の手紙を送ったりしないものなんだ。それに、僕はあんなに気が利いた文章なんか書けないし・・・」
「そうですか。ミスターXは阿南先生じゃないんですね」
阿南先生は笑った。
「残念だけど、僕じゃない。だけど、ミスターXは本当に気の利いたことを書くね。僕も、ミスターXに賛成だ。変えられないことを変えたい・・・って、いつまでも嘆いたりしても、どうしようもないからね。受け入れるしかないよな」
「だけど、『変えられないものを受け入れていかなければ』と頭ではわかっていても、体や心がついていかないです」
「うーん。そうだな。ミスターXが作っていた一覧表があったよね。『自分のコントロールが全く及ばないこと』と『自分のコントロールがある程度までは力が及ぶこと』の一覧表を自分なりに検討してごらん。医者の僕が読んでも、すごいと思うよ」
「そんなもんですか?」
 阿南先生はウィンクして言った。
「そんなもんさ」
「呼び止めてすみませんでした。ありがとうございました」
 僕は病室に戻り、ベッドの周りのカーテンを閉めて、手紙を取り出した。そして、一覧表のところを読み直してみた。「自分のコントロールがまったく及ばないこと」に書いてあること、そして、「自分のコントロールがある程度は及ぶこと」に書いてあることを読み返してみると、「そうかもしれない」と思う。
過去にすでに起こってしまったことは変えられない。僕のリンパ系幹細胞がガン化してしまったことは、いくら嘆いても、変えられないことなのだ。僕がガンになったことをいつまでも嘆いていても何もならない。今の僕みたいに、自分に起こってしまったことを「こんなこと、起こるべきじゃない」と否認しても、自分がガンである事実は変わらない。「どうして僕だけがガンになるのか」と怒っても、ガン細胞がきえるわけじゃない。「僕がガンのはずがない。何かの間違いだ」と否定しても、何にもならない。「今の状況とは違う状況が起こるべきだ」と望んでも、今現在の状況は変えられない。受け入れるしかない。過去や、今現在に起こってしまっている状況は変えられない。
でも、今この瞬間に自分の思考や行動は変えられるんだ。今現在の自分の思考や行動を変えることによって、未来も変わって行くんだ。そんな風に視点や見方を変えれば、自分の生きづらさを少しは抱えていけるような気がしてくる。
ミスターXの言うことは正しいかもしれない。
しかし・・・・・・、「どうにもできないことは受け入れるしかない」と、頭でわかっていても、嘆くことを止めることは実際には難しい。勝手に頭が考えてしまう、「自分がガンになるなんて、おかしい。こんなはずじゃない」って・・・。

4:ミスターXからの手紙、二通目
・・・変えられないことを受け入れるための「腹式呼吸」

 7月30日。入院して、10日目。
 昼食時に見知らぬ看護師さんが512号室に入って来た。そして、僕に向かって、ニコッと笑った。
「こんにちは、鈴木君。私、この部屋の担当の看護師の、上田雅子です。よろしくね」
 僕は頭を下げながら、上目づかいで上田さんを見た。メガネをかけている。ピンク色の細い縁のメガネ。長くてサラサラの髪が肩まで垂れ下がっている。やせ気味。
「中本さんは・・・?」
「中本さんは、今日は休み」
「そうですか・・・」
 そう言ってから、上田さんは僕の昼食を運んで来てくれた。そして、手紙を僕に手渡した。
「はい。これ、あなたに来てたわよ」
 心臓がドキドキと音を立てた。心臓の音が上田さんに聞こえるのではないかと心配した。
 僕は手紙の表面を見た。「市立総合病院512号室 鈴木誠司君」と書かれていた。裏をひっくり返した。「ミスターX」という汚い文字が目に飛び込んできた。
 僕はすぐに封を破った。


512号室の鈴木誠司君へ
                                 ミスターXより


前略
 こんにちは。ミスターXです。2通目の手紙など出すつもりはなかったのですが、どうしても伝えたいことがあり、手紙を書きました。
 君は思っているかもしれません、「自分のコントロールがまったく及ばないことを受け入れることなんてできない」と・・・。
しかし、そんなことはありません。受け入れることはできるんです。その方法は? 結論から書いてしまうと、「自分のコントロールがまったく及ばない状況を受け入れる方法は、腹式呼吸です」・・・。


 私は第1通目の手紙で、こう書きました、 
すなはち・・・・・・、自分が苦しい状況が、「まったく自分の力で変えられないものなのか」、あるいは、「ある程度までは自分の力で変えていけるものなのか」・・・どちらなのかをはっきりと紙に書き出して判別した方がいい、と・・・。・・・そして、苦しい状況が、「自分が完全にコントロール不可能の状況」であるならば、それを何とかしようとせず、ただ受け入れた方がいい、と・・・。・・・さらに、「ある程度は自分のコントロールが及ぶ状態」であるならば、変えようと努力すればいい、と・・・。
 しかし、君は思っているかもしれません、「自分のコントロールがまったく及ばないことは受け入れるしかない・・・と言われても、そんなこと、できるわけない」と・・・・・・。
「頭で理性的にはわかってはいても、体は諦めきれないで、ついつい変えたいと望んでしまう」と・・・。


 私は思います。「自分のコントロールが全く及ばない状況を受け入れることができるのではないか」と・・・。
では、具体的にどうやったらいいんでしょうか? どうやれば、自分の力がまったく及ばない状況を受け入れることができるんでしょうか? もっと具体的に言うのなら・・・、鈴木君、君が白血病であるということを心安らかに受け入れるためには、どうすればいいんでしょうか?
 その答えは、「腹式呼吸」です。
受け入れがたいものを受け入れるために、なぜ「腹式呼吸」がいいのか? その理由は私にはわかりません。たぶん、体と心はつながっていて、体を整えることで心を落ち着かせ、起こった事実を別の見方をすることができるようになるのだと、思います。
ただ、私がやってみた結果は、恐るべきものでした。腹式呼吸を続けていると、いつのまにか、不安や恐れや心配から解放されていることに気が付きました。私は最初、思っていました、「腹式呼吸なんかやったって、無駄だ」と。でも、すがる思いで毎日、腹式呼吸を繰り返してみたのです。そして、ある日、ふと気づいたんです、「あれ? 以前ほど、苦しくないぞ」と・・・。
ただし、私に効果があったらからと言って、腹式呼吸が君にも効果があるかどうか、わかりません。でも、やってみなくてはわかりません。ぜひ、やってみてほしいです。君にも効果があるかもしれません。


 ところで、具体的に「腹式呼吸」をどうやるのかについて、書いていきます。
 とにかく、ゆっくり吸い、おなかを大きく膨らませ・・・、ゆっくり吐いて、おなかをくぼませることがポイントです。そのために、吸う時も吐く時も呼吸をカウントします。・・・特に、吐く時にゆっくりと時間をかけることが大切です。息を吐く時には、副交感神経が働き、リラックスすることができるからです。
 具体的なやり方を書きます。
まず、息を吸う時は、鼻から息を吸います。その際、「1、2、3、4」と四拍数えながら息を吸い、下腹部を大きく膨らませるようにします。
次に、息を止めます。お腹を大きく膨らませたまま、「5、6、7、8」と四拍数えます。
さらに、息を吐く時は、口から行います。そしてその際、「1,2,3,4,5,6,7,8」と8拍を数えながら、行うのです。つまり、息を吐く時は、吸う時の2倍の時間をかけて行うのです。息を細く、長く吐き出すのです。その際、肩の力を抜くことができるのであれば、肩の力を抜きます。
あとは、繰り返しです。以上のような「吸う」「止める」「吐く」という動作を何度も繰り返すのです。キッチンタイマーをセットして取り組むことをおススメします。次第に、5分、7分、10分・・・といった具合に、腹式呼吸を続けられる時間が長くなっていくと思います。頭の中にいろいろな雑念が浮かんで来ても、無視するのです。ただただ、吸う息をカウントし、息を止めている時間をカウントし、吐く息をカウントすることを続けるのです。
以上の腹式呼吸を続けていれば、「受け入れがたいことでも、受け入れることができる」ようになるから、不思議です。
とにかく、チャレンジしてほしいです。

 
もし、君が実際に「腹式呼吸」をやってみて、少しでも効果を実感できたら・・・、「自分のコントロールがまったく及ばない状況を受け入れることができる」と思えたら、そのまま続けていってもらいたいです。
 鈴木君。君が腹式呼吸に取り組んでくれることを祈ります。そして、君の心に平安が一日でも早く訪れますように祈っています。
草々

僕は手紙を折りたたんだ。
僕は思った、「腹式呼吸なんかしたって、生きづらさは変わらないだろう。周りの状況や自分に起こった事実は変わらないのに、呼吸の仕方を変えただけで今の状況を受け入れることができるようになるとは思えない」って。
しかし、ミスターXは書いている、「起こった事実は変えられない。しかし、腹式呼吸を繰り返すことで、事実に対する見方・捉え方を変えることはできるのだ」と・・・。本当だろうか? 試してみるか?
また、僕は思った、「ミスターXはこの病室の中にいる患者さんかもしれない」と・・・。
僕はベッドから周りを見渡した。そして、こっそりと同室の患者さんたちを観察した。チラチラと僕の方を見ている人はいないだろうか、と・・・。しかし、皆、普段通りに昼食を食べていた。
僕はフーッと息を吐き出して、昼食を食べ始めた。そして、みそ汁を飲み込んで、考えた。
「もし、ミスターXがこの病室の患者さんの中に居ないとしたら、考えられるのは・・・、えっと・・・、看護師さん? この部屋の看護師さんと言えば、中本桃子さんか、上田雅子さんだけど、どちらかと言えば、中本さんの方が可能性が高い気がする・・・」
 僕は箸をつかんで、昼食を食べ始めた。そして、思った、「よし。今度、中本さんが来た時に尋ねてみよう」と・・・。

5:寛解導入療法の第二週目

 8月3日。
 月日の経つのは速いもので、僕がこの病院に入院して、早くも2週間がたった。
 7月21日・・・夏休みの初日に入院して、検査をした。そして、7月25日から寛解導入療法を始めた。寛解導入療法を始めて、今日で10日目になる。
 阿南先生の言ったことは正しかった。阿南先生は以前、僕にこう言った。「寛解導入療法は大量の抗癌剤を用いるから、薬の副作用や合併症を経験してしまう。副作用としては、脱力感、吐き気、嘔吐、下痢、脱毛、貧血、食欲不振などが考えられる」と・・・。
 僕の場合、一番問題だったのは、「ぐったり疲れる」「夜に眠れない」ということ。夜中に目が覚めてしまい、寝付けなくなってしまう。トイレに何度も行く。ベッドに横になっても、頭が冴えわたり、仕方なく病室から出て、廊下のベンチに座る。しかし、手持無沙汰で、しばらくしてベッドに戻る。ベッドで何度も寝返りを打つ。朝、起床時間が来た時は、睡眠不足で、あくびを繰り返した。・・・そして、次に問題だったのは、「吐き気がして、嘔吐する」「食欲がない」ということだった。食事が出されても、食べたいという気になれなかった。食事をいつも残した。そして、その割には、食べたものを吐き戻してしまうのだった。
でも、問題は、体の変調だけではなかった。心の方もヤバイ状況にあった。なぜだかわからないけれど、物事に集中できなかった。教科書を読もうとしても、ダメ。問題集を解こうとしても、ダメ。小説を読もうとしても、ダメ。僕は思った、「学校の友達はこの夏休みは部活動の試合に完全燃焼しているというのに。あるいは、試合に負けたとしても、目標を高校入試に切り替えて、受験勉強に取り掛かっているというのに」・・・。なぜ僕だけが病院で一日中、横になっていないといけないのだろう?
このままでいいのか? つらくて、やりきれなかった。大声で叫びたくなる時があった。爪を噛んだ。・・・それに、「これから、自分はどうなるんだろう」という不安が僕を襲った。2学期が始まったら、学校はどうなるのか? 入試は? 高校は? 体はどうなるのか? サッカーは再びできるようになるんだろうか?・・・頭の中で、いろんな考えがグルグルと回っては、僕を苦しめた。
 そんな時、ミスターXからの手紙を取り出して、こっそりと見た。そして、腹式呼吸に自分なりにチャレンジしてみた。7月30日に手紙を受け取って、30日、31日、8月1日、2日と・・・たった四日間だけど、僕なりに腹式呼吸に取り組んでみた。ベッドの周りのカーテンを閉めて、ベッドから足を垂らして座って、手紙に書かれていた通りに腹式呼吸に取り組んだ。・・・しかし、続かない。3分もすると、「なぜこんなこと、しなければいけないのか?」とか、「今日の昼ごはんのメニューは何だろう?」と考えてしまう。


 朝食はほとんど手をつけずに、返却してしまった。
 しばらくして、往診の時間が来た。
 阿南先生が512号室に入って来た。相変わらずの髭面だ。僕を見ると、静かに笑って、手を挙げた。
「おはよう、鈴木君。調子は、どうだい?」
 僕は目を少し上げて、答えた。
「最悪です」
「最悪! どこがどう、最悪なんだい?」
「夜、ほとんど眠れないんです。それに、食欲が全くないんです」
「そうか、それは、つらいねえ」
「はい。それに・・・何をしても長続きしないんです。勉強も、読書も、音楽も・・・すぐ飽きてしまって、ぐったり横になってしまうんです」
「仕方ないよ。自分を責めるんじゃないよ。君が悪いんじゃない。薬の副作用なんだから・・・」
「はい」
 その時、僕は2通目の手紙のことを思い出した。
「阿南先生。ミスターXからまた手紙が来たんです。良かったら、読んでもらえませんか?」
「えっ! 読ませてもらっていいのかい?」
「はい。そして、ぜひアドバイスをもらいたいんです。腹式呼吸の効果とか、やり方とかについて・・・」
「腹式呼吸?」
 そう言いながら、阿南先生は手紙を受け取り、読み始めた。
 しばらくして、阿南先生は手紙を折りたたみ、僕に返した。
「いい手紙だね。鈴木君、ミスターXに感謝しなくちゃ」
 僕は手を挙げた。
「先生。質問があるんですけど」
「なんだい?」
「腹式呼吸って、効果があるんでしょうか? つまり、ガン患者が腹式呼吸をして、何かいいことって、あるんでしょうか? 腹式呼吸をしたら、僕の睡眠不足や吐き気が解消されるんでしょうか?」
 阿南先生は腕を組んで、天井を見上げた。そして、僕を見た。
「そうだね。僕もミスターXに賛成だ。腹式呼吸を続けていくと、呼吸によって体や心の緊張をゆるめることができるようになるよ。ミスターXの言うように、世の中には変えたくてもほとんどコントロールできないことが多いよね。そうしたものを受け入れていくためには、腹式呼吸など自分にとって落ち着ける方法を見つけて繰り返し行っていくことは、とてもいいことだよ。鈴木君、続けてみなよ。リラクセーションの方法って、すぐに効果が出るって期待しちゃだめだよ。長くやり続けていると、知らぬ間に変化が現れるものだよ」
 僕は頷いた。
「ありがとうございました」
 阿南先生は白い前歯をニヤッと出して、言った。
「じゃあ、また明日」
 僕は頭をチョコンと下げた。
僕は言葉には出さなかったけど、心の中でつぶやいた、「阿南先生もあんな風に言ってるし、腹式呼吸、もう少し続けてみようかな。ダメでもともとだし・・・。それに、阿南先生も言っていた、『即効性があるわけじゃない』って」と・・・。
 

 しばらくしたら、すぐに昼食の時間になった。看護師の中本さんが配膳にやって来た。中本さんはお盆を僕に渡して、言った。
「こんにちは、鈴木君。元気してた?」
「はい。あの~、中本さん・・・。あとで聞きたいことがあるんですけど・・・」
「いいわよ。何なの?」
「ありがとうございます」
 中本さんは512号室の患者さん全員に昼食を配膳してから、僕のベッドにやって来た。
「何なの、聞きたいことって?」
 僕は小さな声で尋ねた、同室の患者さんに声が聞こえないように配慮して・・・
「実は僕に手紙が来たんです。差出人は不明です。ミスターXとしか書いてないんです。でも、手紙の内容から推測すると、ミスターXは僕の病状のことをよく知っている人だと思われるんです」
 中本さんは目を細めた。
「それで?」
 僕は一呼吸置いて、言った。
「ミスターXの正体は一体誰なのか、知りたいんです。もしかしたら、ミスターXって、看護師の誰かなんじゃないかと思ったんですけど・・・」
 僕は中本さんの目を見つめた。
 中本さんは、ニッコリ笑った。
「残念だけど、ミスターXは私じゃないわ。そして、私以外の看護師でもないと思うわ。なぜって、医療スタッフは特定の患者さんに手紙を送ったりしないものよ。それが、専門職っていうか、プロフェッショナルの仕事のやり方なのよ」
 僕は頭を下げた。
「阿南先生も、そう言ってました」
「そうなの。阿南先生にすでに尋ねたのね。だったら、私に聞く必要なんかなかったでしょうに。医療スタッフは、患者に個人的な手紙など送ったりするわけないでしょ。私たち看護師はけっこう忙しいんだから・・・」
 頭にカチンと来た。僕は低い声で言った。
「ですけど、患者が医療スタッフの方に疑問に思うことを尋ねてもいいんじゃないですか?」
 中本さんは目を丸くして、僕を見つめた。
「そりゃそうだけど・・・。鈴木君、怒ってる?」
 我知らず、僕は叫んでいた。
「そりゃ、そうでしょ。僕は大量の抗ガン剤を飲んでいるんですよ! 副作用で気分も悪いし、体調も悪いんです!」
 中本さんが後ろに一歩下がった。作り笑いをしながら、震えた声で言った。
「そ・・・そ・・・そうだったわよね。ごめんなさいね」
 僕は言った。
「僕は中本さんに相談に乗っていただきたかったんです。ミスターXから来た手紙には、こんなアドバイスが書いてありました、『自分で変えられないイライラした状況がある時には、腹式呼吸とか、自分にとって心地いいことをやれば、体も心もリラックスさせることができる』って・・・。僕は自分なりに工夫して、腹式呼吸をやってみたんです。だけど、腹式呼吸をやっても、ゆったりと気持ちが落ち着いて来たりしないんです! どうしたらいいか・・・尋ねたかったんです」
 中本さんが頭をぺコンと下げた。
「ごめんなさいね。そうだったのね・・・。いろいろと悩んでいたのね」
 僕は大声で叫んでいた。
「腹式呼吸などで、僕のイライラは消えたりしないと思うんです。そりゃ、『腹式呼吸をするといい』って教えてもらって、ありがたかったです。おかげで、少しは気持ちが落ち着いて来ている感じがします。でも・・・でも・・・それだけじゃあ、ダメなんです。何かが足りないんです。腹式呼吸をしても、眠れないし、食欲もないし、吐き戻してしまうんです」
 中本さんが頭を上下に振りながら、ウンウンとうなずいていた。
 僕はハアハアと肩で息と繰り返していた。
「僕はこれから、どうなるんでしょうか? これから、どんな治療をしていくんでしょうか?! 治療はうまく行くんでしょうか?! 治療がうまく行っても、再発や転移の可能性はないんでしょうか?! 僕は中三だけど、2学期から学校はどうなるんでしょうか! 高校入試は! 僕はまたサッカーできるようになるんでしょうか!」
 涙が出ていた。  
 中本さんが僕の肩をポンポンと優しくなぜてくれた。顔を上げると、病室の患者さんが僕をジッと見つめていた。
 中本さんがポツンと言った。
「つらかったね。イライラしてもいいのよ。言いたいことや困ったことがあったら、いつでも言ってちょうだいね。これから、どうしたら楽になれるか・・・一緒に考えていこうね」
 僕はベッドの上に横になった。そして、いつのまにか眠ってしまった。

6:ミスターXからの手紙、三通目
・・・変えられないことを受け入れるための「思考の観察」

 8月6日。
 昼食時、病室の入ってきたのはメガネ美人の上田さんだった。
「鈴木君、はい、どうぞ」
 そう言って、上田さんは僕にお盆を差し出してくれた。
「最近、食欲はどうなの?」
 僕は両手を挙げて、答えた。
「吐き気がして、あまり食べたくないんです」
「そうなの」
「それから、時々、下痢もします。全身から力が抜けた感じがして、ボーッとしています」
「そうかあ。大変だね」
「でも、母が見舞いに来た時には、『大丈夫!』って言ってしまうんですよね」
「心配させないように、気を使ってるんだ。えらいね、鈴木君」
「そんなこと、ないですけど」
「おっと。また手紙が来てたわよ」
 そう言って、上田さんは僕に手紙を渡した。僕は思った、「ミスターXだ」と。
 手紙の宛名を見ると、間違いなくミスターXだった。僕はベッドの周りのカーテンを引いてから、手紙の封を破った。


鈴木誠司君へ
                 ミスターXより

前略
こんにちは。また手紙を送りつけてしまう無礼をお許しください。
この手紙を送るかどうか、かなり迷いました。もし私が見もしらぬ人から一方的に手紙を送りつけられたら、頭にきてたまらないと思います。が、どうしても我慢できずに、手紙を書いてしまいました。
失礼な手紙はもうこれで終りにさせていただきます。ですから、この手紙を読んでいただけると幸いです。


君はもしかしたら、こう思っているかもしれません、「腹式呼吸なんかしたって、イライラは消えたりなんかしない。自分の力でまったく変えられないものを受け入れることなんて、できるはずがない」と・・・。
今日、私は「腹式呼吸」以外のもう一つの方法を提案させてもらいます。それは、「自分の思考を観察する」という方法です。


君は思うかもしれません、「自分の思考を観察する? そんなことしたって、苦しみは消えたりしない。外部の状況や起こった事実は何も変わらないままで、悩みは消えたりしない」と・・・。
でも、とりあえず、最後まで読んでもらいたいです。
先に、「自分の思考を観察すること」の方法について、書かせてもらいます。
その後に、「なぜ、自分の思考を観察すれば、苦しみを受け入れていくことができるのか」について、書かせてもらいます。


第一に、「自分の思考の観察方法」について、です。
腹式呼吸を何度か繰り返した後、静かに自分の思考を観察してみて下さい。「今この瞬間、自分の体験はどのようなものだろうか? どのような思考が、頭の中を通過しているのだろうか? どのような感情が頭の中にあるだろうか?」と・・・。
意識的に頭の中を見つめると、自分がいろんなことを考えていることに気づくことができます。私たちは普段、自分が思考しているということすら自覚できないでいるのですが・・・。
まずは、腹式呼吸を何度か繰り返し、静けさの中にとどまってください。落ち着いて、待ってください。決して慌ててはいけません。
次に、自分の脳の中を覗いてみます。自分が今、何を考えているのか、自分は今、何を感じているのか・・・自分の思考を観察して、思考が生まれて来ていることに気づきます。・・・。例えば、「中学校に復帰することはできるんだろうか」と考えているかもしれない。例えば、「サッカーを再びやることができるんだろうか」と不安になっているかもしれない。例えば、「医療費で家族に迷惑をかけてしまって申し訳ない」と心配しているかもしれない。・・・いずれにしろ、自分の頭の中で経験していることを注意して観察し、「自分が今、何について悩んだり苦しんだりしているのか」ということに気づくのです。
さらに、自分の思考の存在に気づくことができた後は、どうすればいいのでしょうか? それは・・・「自分の思考を穏やかで冷静な関心を持って見守り、思考に自分自身が巻き込まれないようにする。思考に自分自身が乗っ取られないようにする」です。
具体的にどうすればいいかと言うと・・・、今の思考状態を変えようとしないようにするのです。力んではいけません。自分の思考内容に対して、評価も批判も判断もしません。「良い・悪い」とか、「正しい・間違っている」とかいうラベルを、思考に対して貼り付けないようにします。思考をあるがまま、受け止めるのです。・・・つまり、思考をただ眺めるのです! 「やがては変化し、消えるもの」として、放っておくのです。そうすれば、頭の中の思考は風に流されて、いつのまにか消えてしまいます、風に流される雲のように・・・。やがて気にならなくなってしまいます、不思議なことに・・・


第二に、「思考の観察が苦しみの受け入れを可能にする理由」について述べます。
自分が今、思考に乗っ取られているということに気づくことができたら、すばらしいことが起こります!! 脳が今この瞬間に何を考えているのかに気づくことができたら、自分の思考にどう反応したらいいのかを自分で決めることができます。自分の思考に対応することができるんです! そうすれば、変えられることができない悩みを受け入れることができるようになるんです! わかりますか? 自分の思考・感情と少し距離を取って、客観的に自分の思考や感情を観察することができると、それを取り扱うことができるようになるのです。
反対に、もし今この瞬間に自分の思考や感情に気づくことができなければ、君は自分の思考・感情に乗っ取られたまま、苦しみ続けるしかありません。
自分を見つめる、もう一人の自分を持つ。そうすることで、自分を苦しめている思考・感情を冷静に見つめ、受け入れることができるようになるのです。
鈴木君、「自分の思考を観察すれば、苦しみを受け入れていくことができる理由」・・・、わかりましたか?


忘れないで下さい。思考は単なる思考で、現実でもなければ、事実でもありません。例えば、君が「ガンが転移したり再発したりしないだろうか」と考えたとします。しかし、それは「現実」でもないし、「事実」でもありません。単なる「恐れ」「不安」「心配」です。それは、きちんと言ってしまえば、「幻想」です。
ですから、自分が頭の中で悩んでいることに気づくことができたら、起こった事実を「ただ起こった事実」として受け止めて、それに対して自分勝手に評価や好き嫌いの思考を継ぎ足さないようにしてほしいんです。自分の思考に対して、判断も評価もしないでください。起こった自分の思考に対して、『これは自分にとって良いこと』とか、『これは自分にとって悪いこと』とか、一切決めつけないでほしいのです。自分の頭の中に起こっている勝手な妄想に、自分が巻き込まれないようにしてほしいんです。
そうすることができれば、君は・・・自分の心が評価を始める前の状態で、心を保つことができます。余計な思考や自己中心的な感情がまだ起こっていない前の精神状態をキープし続けることができるのです。思考と思考の間・・・思考がまだ起こっていない状態をキープすることができるのです。


自分の思考を観察すること・・・そして、自分の思考の存在に気づくことができたら、それを見守り、消えていくまで放っておく作戦・・・、どうぞ、試してみて下さい。
草々


 僕は手紙を折りたたみ、封筒に入れた。
 僕は思った、「けっこういいかもしれない。自分の思考を観察する作戦。やってみるか・・・」と。
ベッドの周りのカーテンを開いて、部屋の中を見渡した。僕は中村さんと田中さんと長嶋さんと秋山さんに視線を送った。皆、朝食を食べていた。中村さんがチラッと僕の方を見た。一瞬、僕と中村さんの視線があった。中村さんがニヤッと笑った。僕は頭をわずかに下げた。
僕は思った、「ミスターXは中村さんなのだろうか」と・・・。「30代のイケメンのビジネスマンがあんな文章を書くだろうか? でも、人は見かけによらないし・・・」・・・僕は頭の中で色々と考えながら、食事をした。

7:寛解導入療法の第三週目

 8月7日。
 朝、7時。起床時間が来て、僕はベッドから降りようとした。その時、僕は枕を見てびっくりした。なんと髪の毛が10本ほど付いていた。
 僕はスリッパを履き、洗面所まで走っていって、鏡を見た。そこには、知らない誰かが立っていた。
明らかに髪の毛が減っていた! 僕は髪の毛を触ってみた。そして、僕は自分の掌を見た。指の間に幾本かの髪の毛が付いていた。
僕はもう一度、鏡を見た。そこには、顔がふっくらとしている男が立っていた。
僕は思った、「このまま運動せずに太っていったら、ブクブクになってしまう!」と・・・。


 朝食後、回診の時間がやってきた。阿南先生が病室に入って来た。阿南先生が髭を剃っていた。
「おはよう、鈴木君。今日は、調子はどうだい?」
 僕は黙ったままだった。
「どうかしたのかい?」
「先生。実は・・・」
 先生がゴクンと唾を飲み込むのが聞こえた。
 僕は先生の目を見つめて、言った。
「実は、髪の毛が抜けています」
「そうかあ・・・」
 そう言った後、阿南先生は無言のまま、フーッと息を吐いた。
 僕はしゃべり続けた。
「それに・・・体重も増え続けています。このまま運動しないで太り続けるのはいやです。僕はサッカーがしたいんです。このままではもう二度とサッカーなんかできないのではないかと心配です」
「そうかあ・・・。寛解導入療法を始めて第三週目に入るからなあ。薬の副作用がいろいろと出て来るころだからなあ・・・」
 そう言ったきり、阿南先生は黙って、目をつむって、腕を組んでいた。
 長い沈黙の後、阿南先生は目をカッと開き、僕の目を覗き込んだ。
「ねえ、鈴木君。こんな時、ミスターXだった、どんなアドバイスをくれるだろう? ミスターXだったら、『何をしろ』って言うだろう?」
 電気が走った。体がビクッと震えた。僕は思った、「ミスターXだったら、こんな時、何をやれと言うだろう?」と・・・。
 僕は阿南先生に言った。
「わかりました。考えてみます。こんな時、ミスターXは何と言うだろうかと・・・」
 阿南先生は頭を下げた。
「ごめんな。力になれなくて・・・」
「いいえ。そんなこと、ないです。ミスターXのことに気づかせていただいて、良かったです」
 阿南先生はニコッと笑って、次の患者さんのところへ移動していった。


 阿南先生が退室して、僕は屋上に上がった。誰もいなかった。ベンチに腰を下ろし、背筋を伸ばして座った。そして、僕は目をつむって、腹式呼吸を始めた。
 やがて次第に心が落ち着いてきた。自分の頭の中に注意を向けて、思考を見つめてみる。すると、頭の中で内なるおしゃべりが始まっているのに気づいた。例えば、「髪の毛がなくなって、ツルッ禿げになるのはイヤだ」とか、「ブクブクの白豚になったら、サッカーなんかできない」とか、「僕は病気から本当に良くなるんだろうか」とか、「僕はもうダメかもしれない」とか。止めようとしても次から次に頭の中で不安・心配・恐れ・分析・解説が起こり続けた。
 僕は思った、「僕は知らない間にこんなに多くのことを考えていたんだ」と・・・。
 ミスターXが教えてくれたことをやってみる。ミスターXは教えてくれた、「思考に巻き込まれない。思考から距離を取る。自分の思考に対して、判断も評価もしない。起こった事実をただ起こった事実として受け止めて・・・、それに対して自分勝手に評価や好き嫌いの思考を継ぎ足さない。思考を放っておく、『変化し、消えるもの』として」と・・・。
 僕は目を閉じてゆっくりと呼吸を続け、呼吸をカウントし始めた。そうすると、不思議なことに頭の中の思考の波は穏やかに静まっていった。
 「すごい」と思った。
 でも、新たな疑問が起こっていた。「苦しみのうち、変えられないものを受け入れていく方法はわかったけど、変えられる苦しみはどうやって変えていけばいいのだろうか?」という疑問が・・・


 午後。昼食が終わって、看護師の上田さんがお盆を持って部屋から出て行った。
 僕の左横のベッドの柿内さんが声をかけてきた。
「鈴木君。最近、調子はどうなの?」
 僕は柿内さんを見た。相変わらずお笑い芸人のようにいつもニヤニヤしていた。坊主頭の髪の毛が以前より伸びている気がした。
「調子ですか? あまり良くないです」
「そうなの。それじゃあ、明るい話題に切り替えようか? いいかい?」
「はい」
「この部屋の担当の看護師の中本さんと上田さんのことだけどさ、鈴木君、どっちが好みのタイプかな?」
 僕は柿内さんを振り返った。
「えー。そんなこと、わかりませんよ」
 すると、中村さんが会話に入って来た。
「柿内さん。中学生にそんなこと、聞いちゃいけませんよ!」
 柿内さんが頭を掻きながら、言った。
「そうか、そうか。ごめん、ごめん」
 僕は中村さんを見た。中村さんはイケメンの30代の公務員。中村さんは大腸ガンだけど、いつも言っている、「早く仕事にもどりたい」と・・・。
 すると、田中さんが僕に話しかけてきた。田中さんは黒メガネをかけて、いつも大声でガハハと笑っている、50代のビジネスマンだ。
「ところでさ。まったく話題は変わるけどさ。鈴木君、高校野球とか興味ないの?」
「高校野球ですか?」
「そうそう。今、テレビで甲子園球場の中継があっているでしょ?」
「僕はサッカーは好きですけど・・・、野球は、あまり・・・。田中さん、高校野球、好きなのですか?」
 田中さんはウィンクして言った。
「実はね。野球、大好きなのよ」
「そうなんですか?」
「実はね、昔ね、草野球のチームに入っていたんだよ。日曜日は朝早くから試合に参加していたんだけどねえ。舌ガンになっちゃったから、野球もしばらくおあずけなんだ」
「残念ですねえ。ところで、田中さん。質問していいですか?」
「いいよ、いいよ。なんでも、どうぞ」
 僕は心の中で思った、「ミスターXがもしこの病室の中にいるとしたら、僕の言うことに注意を払っているはずだ。僕の言うことに動揺するそぶりを見せる人がいたら、その人がミスターXだ」と・・・
 僕は息を吸い込んでゆっくりと吐き出してから、言った。
「相談なんですけど。さっき柿内さんに言ったように、僕は最近あまり体調が良くないんです。それで、ある人に勧められた方法を試してみたんです」
 田中さんが左手でもみあげを触りながら言った。
「方法? どんな方法だい?」
「自分の思考を観察する・・・という方法です」
 僕はサッと病室を見渡した。しかし、誰も変わった様子は見せない。僕は「この部屋の中にミスターXはいないのか? いや、そんなことはないはずだ」と思った
 田中さんが頭をかしげた。
「自分の思考を観察する? それ、一体、どうやるの?」
「はい。目をつぶって、深呼吸して、自分の頭の中を落ち着いて観察するんです。そして、自分が今、何を考えているのかに気づいて、それをゆっくりと見送っていく・・・という方法です」
「それやると、どんないいことがあるわけ?」
「イライラしたことでも受け入れられるようになるらしいんです。実際に僕もやってみたんです。すると、驚きました、『自分ってこんなにもたくさんのことを考えていたんだ』って、気づいたんです。普段は人は自分の思考に気づくことなく、自分でも自覚しないまま思考し続け、頭の中で独り言を言い続けているけれど・・・、自分の思考に気づくことができれば、それを静かに放っておくことができるんです。そうすると、やがて思考は消えていき・・・、とっても楽になれるんです」
 田中さんが頷いた。
「いいねえ。その作戦、俺もやってみようかな」
 僕は部屋全体を見渡しながら、ゆっくりと言った。
「でも、疑問があるんです。自分で変えられないことについては、自分の思考観察作戦でもいいんです。だけれども・・・、自分で変えられることについて、どう取り組めばいいのか、わからないんです。教えてほしいんです!」
 誰もピクリともしなかった。柿内さんも、中村さんも、田中さんも、「ふーん」とうなずいただけだった。病室の入り口付近の二人・・・秋山さんは黙って、いつもどおり本を読んでいるし、長嶋さんはウトウトと昼寝をしているようだった。
僕は内心、思った、「ミスターXは誰だ? 怪しいのは、僕のことをよく心配してくれる柿内さんか、中村さん・・・。もしかしたら、田中さんかも・・・。しかし、今日の様子からじゃあ、誰がミスターXか、わからない」と・・・。
田中さんが目をパチパチさせながら、僕を見た。
「自分で変えられないこととか、自分で変えられることとか・・・一体、何のことなんだい?」
 僕は答えた。
「自分で変えられないことは、過去とか他人のこととかです。自分で変えられないことについては、腹式呼吸をしたり思考を観察したりすることで、受け止め方を変えて、受け入れていけばいいんですけれど・・・、自分で変えられることについては、どうすればいいか、わからないんです。自分で変えられることっていうのは、例えば、体調を整えたり、医者とコミュニケーションを取って治療方針について話し合ったりとか、そういうことです」
 田中さんが再び、もみあげを手で触りながら言った。
「自分で変えられることをどうすればいいか・・・。ちょっと僕にはわからないね」
その時、柿内さんが突然言った。
「そんなことよりさ、私、皆さんに言っとかないとといけないことがあるんですよ。実は私、明日、退院することになりました!」
僕は言った。
「よかったですねえ」
しかし、心の中で僕は密かに思った、「もし柿内さんがミスターXだったとしたら、もう手紙は来ないなあ」と・・・。

8:ミスターXからの手紙、四通目
  ・・・変えられることを変えるための「価値あることの明確化」

 8月13日。
 旧暦のお盆に入り、入院している患者さんの中には一時帰省している人が多くいて、病棟は閑散としている。
 昼食を持って来てくれたのは、今日は看護師の中本さんだった。中本さんはニコニコしながら、僕にお盆を渡してくれた。
「はい、どうぞ」
「いつもありがとうございます」
 そう言うと、中本さんは他のベッドに向かった。しかし、急にこちらを振り返った。
「あっ! 忘れてた! 鈴木君に渡すものがあったわ」
 そう言って。ポケットから手紙を取り出した。
「はい、手紙よ」
「ありがとうございます」
 宛名は「512号室 鈴木誠司様」と、今までと同じ筆跡で書いてあった。手紙をひっくり返して、差出人を見た。ミスターXだ!
 僕は急いで封を切った。


鈴木誠司君へ
                        ミスターXより
前略
 鈴木君。元気にしていますか?
 いつも私の方から一方的に手紙を送りつけて申し訳ないと思っています。そう言いながら、手紙が4通目になってしまいました。
君がこの手紙のことをどう受け取っているのか、心配しています。
それでも、私としては、手紙を送らざるを得ないのです。君が生きづらさのどん底から一分一秒でも早く抜け出してほしい・・・そう、願っています。


今日、一番言いたいことは、「苦しみのうち、変えられるものについてはどうするかについて・・・自分が本当にやりたいことは何かを明らかにして、自分が本当にやりたいことに実際に挑戦してほしい」ということです。
そうすれば、君はこの上ない幸せを感じることができます!!


自分が困っていることのうち、「自分で変えられること」については、どうすればいいのか・・・悩むと思います。「自分で変えられること」って、たくさんあると思います、しかし、その中でも「自分が本当にやりたいこと」をはっきりさせてほしいのです。あれもこれもと、たくさんのことに手を付けても、満足感や充実感は得られません。自分自身が本当にやりたいことを明確化して、それにしぼって取り組んでほしいのです。
もっとわかりやすく言うと、「自分にとって価値あることは何かを、はっきりさせてほしい。つまり、人生で最も何をやりたいかを、はっきりさせてほしい。・・・そして、それを・・・自分にとって価値ある、最もやりたいことを・・・実行してほしい」いうことです。


具体例を挙げるなら、・・・
例えば・・・、「もし、自分にとって価値あることが『心の平安・・・怒り・悲しみ・苦しみ・ストレスの少ない、穏やかな心の状態でいたい』ということならば、瞑想をしたり、心理学や哲学を勉強したり、信仰活動を行ったりしてほしい」。 
例えば・・・、「もし、自分にとって好ましいこと・喜ばしいことが『人間関係・・・配偶者や子どもたちと愛し、思いやって、責任を果たせるパートナーや親になる』ということならば、家族と一緒に活動する時間を長く取ったり、多くの時間を家族とのコミュニケーションのために使ったりしてほしい」。
例えば・・・、「もし、自分にとって意味あって、楽しいことが『教育・・・学んだことを伝えたい』ということならば、きちんとした教育を受けて、他の人に何かを教える機会を持つようにしてほしい」。
例えば・・・、「もし、自分にとって心から楽しいと思えることが『チャレンジ・・・何かにいつも挑戦し、一人の人間として向上し続けたい』ということならば、立ち向かう困難を征服する努力を続けてほしい」。
例えば・・・、「もし、自分にとって大切だと思えることが『身体の健康・・・体調にさまたげられることなく、自分がやりたいと願うことを思う存分やれるだけの体力をもっていたい』ということならば、毎日一定時間、運動をする時間を取り、食事・睡眠をきちんと取ってほしい」。
例えば、「もし、自分にとって重要で意義あるものが『仕事・ボランティア活動・・・楽しいと思える仕事がしたい、自分の強みを生かして他人に奉仕したい』ということならば、仕事や地域ボランティア活動をする時間・機会を確保してほしい」。


なぜ???
なぜ?・・・「自分にとって価値あることは何かを明らかにして、自分にとって価値ある行為をしてほしい」などと私が言うのは・・・なぜだと思います? 理由がわかりますか?
その答えは以下の通りです。
なぜなら、自分が「価値がある行為だ」と思えて、やっていてとにかく楽しいと思える行為に取り組んでいる時に、人は幸せを感じることができるからです。我を忘れて自分の好きなことに集中している時に、人は深い意義・満足感を感じることができるからです。
それから、もう一つの理由があります。それは・・・、君が「それをやっていると、我を忘れて集中できること」をはっきりと定めると、行動しようというやる気が湧いてくるからです。生きる元気が湧いてくるからです。自分の価値に基づいて生きることができるようになるからです。・・・・・・そうなれば、自分が受け入れなければならない苦しいことを乗り越えていこうとする意欲が湧いてきます。受け入れなければならない苦悩と戦っている最中でも、行動しようとするモチベーションが湧いてきます。
確かに、人生にはままならないことが圧倒的に多いです。つまり、「自分のコントロールが完全に及ばないこと」が圧倒的に多い。そうした中で多くの人は次のように捉えてしまいがちです、「人生は自分のコントロールがまったく及ばないことばかりで、人生のすべてをただ我慢して受け入れなければならない」と・・・。しかし、そのようにいつも落胆していたら、あなたの人生は苦しみ・不安・心配・恐ればかりになります。
だけど!! 人生は、「変えられないこと」ばかりではありません。「自分のコントロールが少しは及ぶこと」も、あります。自分のコントロールが及ぶことが複数ある中で、「自分が心の底からやりたいこと」に取り組むのです。そうすれば、あなたは苦しみから抜け出し、イキイキとした人生を送ることができるのです!!


私は申し上げました、「主体的に自分の価値を明らかにして、自分が心の底から楽しいと思える活動に取り組んでほしい」と・・・。
しかし、残念ながら・・・、ほとんどの人がそれを実行していません。
多くの人は、自分でも無意識のうちに・・・、世間の価値観を取り入れてしまっています。「お金が大切」「とにかく食べて、生活していくことが大事」「学歴が大切」「一流企業への就職が大切」「立身出世が大切」「有名になることが大切」「顔や体型などの見た目が重要」「娯楽や美食が大事」・・・そうした、世間で適切だと見なされている価値観を取り入れてしまっています。実際、ほとんどの人は、自分で意識しないままに世間の価値観を取り入れてしまっています。幼少期に親や教師によって世間の価値観を刷り込まれてしまったことに、自分で気づけていないのです。多くの人は、「自分の人生の価値は何か」を深く考えずに、世間の価値観を自覚しないままに取り入れてしまって・・・、そうして、自分で選び取ったつもりになっています。
しかし、社会が適切・重要だと見なしている価値に従ってしまっては、君が満足感や充実感を感じることはできません!! それでは、行動しようというやる気も生まれてきません。自分が情熱を持って取り組めないことを強制されていては、ハッピーになれるわけありません。自分がイヤイヤ取り組まなければいけないことだけを毎日やらなければいけないなんて、つらすぎます。
だから、君が「そのことをするのが心から楽しい」と思える行為を自分で選び取ることが大切です。そして、君は、その主体的に決定した活動を実践し、心から楽しんだ方が良いのです。


もう一度、言います。自分の好きな活動、自分の興味がもてる活動は、何なのかを明らかにして下さい。そして、それに取り組んで下さい。・・そうすれば、時間が経つのも忘れて活動に没頭し、人生を満ち足りて感じることができます。
自分は何をしている時に我を忘れて活動に集中できるのかを、明確にしてください。そして、その活動を行い、イキイキとした充足感・満足感を感じて下さい。
自分の価値に従うのです。


もしかしたら・・・、ガンが転移するかもしれません。ガンが再発するかもしれません。ガンが完治して、ガンが再発も転移もしなくても、いつか必ず死がやってきます。
死がやって来た時、君はどんなふうに感じたいですか? 自分がまったくコントロールできないことを受け入れるだけで、死を迎えたいですか? 君は、未来に対する不安・心配のいいなりになって、クヨクヨとした人生を送って死を迎えたいですか? やりたいことに挑戦しないまま、人生を終えたいですか? 「チャレンジしても、どうせ失敗するだろう。失敗して、失望したくない。自分は能力がない」と考えて、引きこもりますか?
私だったら、自分でコントロールできる幾つかの中から・・・本当に自分がやりたいことを選びます。そして、それに挑戦して、どんな結果が出ようとも後悔はしない人生を送りたいです。自分がやりたいと思ったことにチャレンジして、「やるだけやったから、結果はどうあれ、満足だ」と言って死を迎えたいと思います。
我を忘れて、時が過ぎるのも忘れて熱中できるものを見つけることができれば、たとえ障害があっても飛び越えていくことができます。
理想の自画像を設定してください。「理想の自画像を実現しよう」としてください。夢をあきらめないで下さい。努力する過程に、人生の喜びがあるのですから。たとえ思うような結果が出なくても・・・
                                     草々

僕は手紙を読み終えて、フーッとため息を吐き出した。
僕は目をつむって、思った、「僕が最もやりたいことって、何なんだろう? それをやっていると集中して取り組めて、時間が経つのも忘れてしまうような、楽しいことって、一体、何なんだろう?」と・・・
今まで僕は「自分の価値とか自分の本当にやりたいこと」なんて、しっかりと考えたことはなかった。ただ、なんとなく、思っていた、「高校に行って、サッカー部に入って3年間続けて、できたら全国大会に行って・・・、そして、サッカーの推薦で大学に進学するか、Jリーガーとしてプロのサッカー選手としてお金を稼いでいきたい」と・・・。
自分の価値に基づいて、自分がもっとも大切だと思うこと? 自分は一体、どんな人生を送りたいのだろう? 果たして自分は、どんな自分になりたいのだろう? 理想の自画像とは、どんなものなんだろう? 実現したい自分とは、一体どんな人間なんだろう? 一度限りの人生で、自分は一体何をしていると心の底から楽しいと感じることができるんだろう? 自分のやりたいことをやり続けて、たとえ努力の結果、良い結果を出すことができないとしても、死が訪れた時、「自分の価値あるものに挑戦したのだ。後悔はない!」と言って死を迎えることができるもの? 自分が本当の望むもの・・・それが、自分自身でわからない! 自分自身が本当に希望するもの、自分自身の本当の気持ちに気づきたい! 自分自身とは一体、何なんだ? 「汝自身を知れ」とか、「己事究明」とか、よく言われるけれど、自分が自分でわからない!

9:寛解導入療法の第4週目

 8月14日。
 午後2時。昼食を食べ終えて、「昼寝をしようかな」と思った時だった。病室の入り口ドアがノックされた。
 ドアが開けられ、入ってきたのは、サッカー部の副キャプテンの井上君だった。
「失礼します」
 井上君は頭を下げ、病室に入って来た。花束を持っている。井上君に続いて、佐藤君と桐谷君が病室に入って来て、頭を下げた。二人ともチームの要の選手だ。
 僕は右手を挙げて、左右に振った。
「こんにちは。こっち、こっち!」
 三人は僕のベッドのところにやって来た。
「やあ」
 僕は椅子を指差して、言った。
「そこの椅子にすわって。ありがとう、お見舞いに来てくれて。うれしいよ」
 三人は椅子に座って、僕の顔を見た。
 井上君が花束を僕に差し出した。
「これ、サッカー部全員から・・・」
 僕は腕を伸ばして、花束を受け取った。
「ありがとう」
井上君が伏し目がちに僕の頭をチラッと見た。
その時、僕はニット帽をかぶっていた。僕は思った、「僕がなぜニット帽なんかをかぶっているか、わかるだろうか・・・。髪の毛が抜けて、禿になっていることがわかるだろうか・・・」と・・・
 佐藤君は目を細めて、僕を見た。
「どうだい、調子は?」
「うん。入院生活はけっこうつらいよ。イライラして、時々、力いっぱい走りたくなるよ」
桐谷君が言った。
「そうなんだ。ストレス、たまるんだ。具体的にどんなことがつらいわけ?」
「う~ん。やっぱり、薬の副作用が一番つらいんだ」
「副作用かあ。どんな副作用があるんだい?」
 井上君が桐谷君に顔を向けて、低い声で言った。
「桐谷! お前、ちょっとそんなこと・・・・聞かない方がいいんじゃないか」
 桐谷君がハッとして、僕の方を向いた。
「ごめん・・・」
そう言うと、桐谷君は床を向いて黙り込んだ。
「大丈夫、大丈夫。心配しないでいいんだよ。医者も『大丈夫だ』って言ってるし…」
 僕は無理に笑いながら言った。
布団の下で僕の足が震えていた。喉がカラカラになっていた。「大丈夫なんかじゃない。それに、病気のことは聞かれたくない・・・と言おうか」と、思った。喉まで出かかったけど、それを僕はグッと飲み込んだ。
 井上君が僕に向き直って、言った。
「鈴木。俺たちサッカー部全員、夏の大会、頑張ったよ。頑張ったけどな、負けてしまったよ。チームのキャプテンであるお前が入院して、チームとしては正直言って困ったけど・・・。だけど、みんなでお前の分まで頑張ろうと言って、頑張ったんだ。だけど、市内大会の準決勝で負けてしまったよ」
「そうかあ・・・」
 桐谷君がポッとつぶやいた。
「お前がいてくれたら、勝てたかもしれなかったのになあ・・・」
 井上君が叫んだ。
「桐谷! それを言うなって!」
 桐谷君は震えて、しょぼんと頭を垂れた。
 僕は布団の下で右手を握りしめた。「負けてもいいから、全力で戦いたかった。戦うことができたお前たちがうらやましい」と、僕は思った。思ったけど、口にはできなかった。
 佐藤君が言った。
「鈴木。何か、持って来てもらいたいものとか、ないか? マンガ本とか、CDとか・・・」
 僕は右側の口の端を上げて、ニヤリと笑った。
「いいよ、いいよ、いらないよ。ありがとう。気を使ってもらって、ありがとう」
 それから、長い沈黙が続いた。
 井上君がフッと息を吐き出してから、僕を見て、言った。
「じゃあ、鈴木。あんまり長居して、お前を疲れさせてもいけないから、俺たち、もう失礼するよ」
「なんだよ。もっとゆっくりしていけよ」
「いや。そろそろ、おいとまするよ。元気で頑張れよ」
 佐藤君が悲しそうな顔をして、僕を見た。
「また、来てもいいかな」
「ああ、もちろんさ。今日は来てくれて、ありがとう。うれしかったよ」
 桐谷君が顔を上げて、僕を見た。
「じゃあ、元気でな」
「ああ、ありがとう」
 三人は椅子から立ち上がり、病室のドアのところで振り返り、僕に手を振った。そして、病室の患者さんたちに「失礼しました」と声をかけて頭を下げて、出て行った。
 その時、甲高い声が聞こえた。黒板を引っ掻いた時のような声。
「す・・・すず・・・すずき・・・すずきくん。と・・・と・・・ともだち・・・きて・・・きてくれて・・・よ・・・よか・・・よかったね」
 振り返って見ると、病室の入り口付近の秋山さんだった。秋山さんが細い目をさらに細めて、ニコッと笑っていた。
僕も笑った。
「そうですね。ありがとうございました」
「げ・・・げ・・・げんき・・・だ・・・だし・・・だし・・・て・・・」
 秋山さんは僕に向けて、細くて皺だらけの腕を挙げて、左右に振った。
 僕は頭を下げた。それから、ベッドに倒れ込んだ。
 3人の顔や腕の皮膚は、夏の日差しを浴びて真っ黒に焼けていた。それに比べて、僕といったら、真っ白のブクブクの豚だった。
 フーッと長い息が僕の口からでた。布団を頭までかぶって、僕は目を閉じた。しかし、いつまで経っても昼寝はできそうになかった。


 8月15日。
朝食後、阿南先生が病室に入って来た。僕のベッドの脇に立った。
「鈴木君、おはよう」
「おはようございます」
「どうだい、最近、調子は?」
「はい。まあまあです」
 阿南先生は僕の顔を覗き込んでから、言った。
「その様子じゃあ、調子はあまり良くないようだなあ」
 僕は顔を上げて、阿南先生の目を見た。阿南先生が仏像のようにニコッと笑った。
「昨日、サッカー部のチームメイトがお見舞いに来てくれたんです」
「ほう」
「でも・・・彼らとの距離は遠く離れてしまった感じです。なんか・・・僕と彼らはもう『別の人種』っていう感じでした」
「『別の人種』って、どういうこと?」
「あいつらは健康で・・・、真っ黒に日焼けしていて、精悍に痩せていて、スポーツマンなのに・・・。僕といったら、真っ白になってしまって、ブクブクと太っていて・・・」
「なんか、置いていかれた、と言うか、取り残された・・・っていう感じかな?」
 僕は頷きながら言った。
「はい。その通りです」
「そうかあ。それは、つらいねえ」
「つらいです」
 阿南先生は右手で顎髭をジョリジョリと触りながら言った。
「ミスターXだったら、今、何と言うだろうなあ?」
「先生。実は、一昨日、また手紙が来たんです」
「そうなの! それで、なんて書いてあったの?」
「はい。こんな風に書いていました、『我を忘れて集中して活動できることをはっきりさせろ。そして、それを実行しろ』って・・・」
「ふ~ん」
「それってつまり、『自分の価値に従って、自分が心の底から本当にやりたいことは何かを明確にしろ。そして、それをやれ』っていうことなんです」
 阿南先生は右手の人差し指で僕の胸を指差した。
「聞いていいかい? 君が熱中できるものは、何なんだい?」
 心臓がギクッと震えた。頭の中でしばらく思いを巡らしてから、僕は答えた。
「正直言って、僕は自分が心の底からやりたいことがわからないんです。そんなことって、あまり考えたことはなかったです。今までは、なんとなく『高校行って、サッカーをやって・・・それからあとのことは、高校に行ってから考えよう』としか思っていませんでした」
 阿南先生が言った。
「そう。それじゃあ、ミスターXからの手紙は、自分の本当に好きなものを見つける、いい機会じゃないか。それで・・・・、とりあえず今のところは、どんなふうに考えているの? 君が心の底から本当にやりたいことは何なんだい?」
 僕は頭を掻きながら答えた。
「わかりません。でも、考えてみます、『自分が本当にやりたいことは何なのか』ということを・・・」
 阿南先生は窓の外を見た。僕は阿南先生の視線の先を追った。巨大な大峰山がそこにゆったりと横たわっていた。
「楽しさや達成感を感じることは大切だ。そして、最高に幸福な瞬間を感じるためには、自分にとって熱中できるものをはっきりさせることが大切なことなんだと、僕も思うよ」
 そう言ってから、阿南先生は僕の顔に視線を戻し、ウィンクして言った。
「鈴木君。自分の価値に沿った大切なことは何か・・・、はっきりわかったら、教えてよ」
 そう言うと、阿南先生は行ってしまった。
僕は遠ざかっていく阿南先生の背中を見た。思わず目を細めて、手を目に当てた。
太陽光線のような激しい光が病室の入り口から部屋に侵入してきた。阿南先生の背中がまぶしい光の中で黒いシルエットとして浮かび上がった。その時、阿南先生がこちらを振り向いた。そして、右手を挙げて、左右に振った。阿南先生が光で囲まれて、キラキラと輝いた。僕は目を見張った。「なぜなんだ? なせ、阿南先生が輝いて見えるんだ?」と思った。
阿南先生は病室のドアから出て行った。
僕はその時、ひらめいた、「そうだ。そうなんだ。僕は阿南先生みたいな人になりたいんだ。僕をガンのどん底から救ってくれたのは、阿南先生・・・北野先生。それから、それから、誰だかわからないけど、僕にアドバイスを授けてくれるミスターX。ズタズタに打ちのめされた僕の心と体を癒してくれたのは、彼らなのだ。それから、それから、看護師さんや心理士、栄養士、薬剤師、ソーシャルワーカーなどなど、たくさんの人が僕を助けてくれたんだ。彼らがいなかったら、僕は・・・一体、どうなっていたんだろう? そうだ! 僕は阿南先生みたいな医者になりたいと思っているんだ。医者になることが無理なら、医療関係のスタッフとなり、困っている患者さんを救いたい」と・・・。
僕はしばらく暖かい光の中に包まれて、目をつむっていた・・・・・・


午後4時ころ。夕食の始まる前だった。看護師の中本さんが病室に入って来た。そして、僕のベッドの足元の方に向かった。そこは、中村さんのベッドがあるところだった。
中本さんが中村さんに向かって言った。
「それじゃあ、引っ越しにかかりますよ。準備、できていますか?」
中村さんがベッドから降りて、フサフサの真っ黒な髪の毛を右手で持ち上げてから、病室の患者さんたちに向かって言った。
「あの~。みなさん、今まで黙っていて申し訳ありませんが、私、中村善次郎はこの度、他の部屋に移動することになりました。今から、引っ越しをします。今までお世話になりました。ありがとうございました
 そう言うと、中村さんは頭を深々と下げた。
 中村さんの隣のベッドの寝ている田中さんが尋ねた。
「どこの病室に行くの?」
 中村さんが答えた。
「えっと、北病棟の1階」 
 田中さんがニヤッと白い歯を見せた。
「北病棟の1階? あそこはヤバイよ。あそこの部屋に替わっていく患者さんはみんな病状の重い人が行くっていう噂だよ。あそこの部屋の次は、どこの部屋に行くかというと・・・知ってる? 中村さん? あそこの部屋の近くに霊安室があるの、知ってる?」
 そう言って、田中さんはガハハ・・・と笑った。
 中村さんも笑いながら切り返した。
「冗談は止めてくださいよ! 私、まだ30代ですよ。私を勝手に殺さないで下さい。そんなに簡単に死んだりしませんよ。私の大腸ガン、けっこう良くなってきているんですから!」
 中村さんは看護師の中本さんを振り返った。
「ねえ、中本さん。そうですよね? ねえ! 大腸ガン、良くなってきてますよね!」
 中本さんは田中さんをにらみ付けて、甲高い声で叫んだ。
「田中さん! 変なこと言うの、やめて下さい! 冗談にもほどがありますよ! 患者さんに病室を替わってもらうことは、よくあることですから!」
 田中さんは頭を下げてから、言った。
「ごめんなさい。もう、ふざけませ~ん」
 病室が笑いに包まれた。
 その時、僕は密かに思った、「ミスターXは中村善次郎さんかもしれない。あとで確認してみたい」と・・・。
 すると、中村さんがベッドから降りて、トイレに行った。僕もベッドから降りて、トイレに向かっていく。
 僕はトイレから出てきた中村さんに向かって言った。
「中村さん、今まで長い間、おせわになりました。ありがとうございました」
 中村さんはニコニコ笑った。
「こちらこそ、お世話になったね。これから元気で頑張ってよ」
「中村さん、今、ちょっとお時間、いいですか?」
「いいよ。何だい?」
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんです」
「うん?」
「僕宛てに手紙が時々届いているの、中村さんも知っていますよね」
「みたいだね。それで?」
「はい。手紙によって僕は元気づけてもらって、助かっているんですけど・・・、その手紙は差出人が不明なんです。僕は、差出人はもしかしたら同じ病室の方なんじゃないかと思っているんですけど・・・」
 中村さんがヘッと笑った。
「それで、差出人が僕なんじゃないかと思っている・・・ということ? アハハ。残念ながら、差出人は僕じゃないよ。だけど、誰なんだろうね・・・手紙の差出人・・・」
 僕は中村さんを観察していたけど、とてもウソをついているようには見えなかった。
「変なこと、尋ねて、すみませんでした」
 そう言って、僕は頭を下げた。そして、二人で病室に戻っていった。
 しばらくして、中村さんは病室のみんなにあいさつした。
「長い間、お世話になりました。ありがとうございました」
 そして、深々と頭を下げた。そして、看護師の中本さんと一緒に512号室から出て行った。


 夕食後、田中さんがベッドから降りて、僕のところへやって来た。いつものガハハという笑いがなく、低い声で言った。
「鈴木君。ちょっと話していいかい?」
「はい、いいですよ」
田中さんは椅子を引っ張り出してきて、僕のベッドの脇に座った。
 僕は思った、「もしかしたら、この人がミスターXかもしれない」と・・・
 田中さんは黒メガネのまん中を右手の人差し指で持ち上げてから言った。
「中村さんが病室を替わって行って、淋しいね」
「淋しくなりましたね」
 田中さんは声のボリュームを落として、ささやいた。
「本当に淋しくなったね。この病室、今は4人だもんね。君と僕と・・・それから、ほとんどしゃべらない二人・・・長嶋さんと秋山さん。二人とも後期高齢者だもんね。それに、秋山さんは吃音者だしね」
「そうですね」
 そう言いながら、僕は思った、「ミスターXのこと、田中さんにそれとなく聞いてみよう」と・・・。
 僕は手を挙げた。
「あの~。お尋ねしたいことがあるんですけど、いいですか?」
 田中さんはガハハと笑ってから、言った。
「なんでもどうぞ!」
 僕は思い切って、尋ねた。
「田中さんの本当にやりたいことは、なんですか?」
「僕の本当にやりたいこと?」
 田中さんは腕を組んで、目をつむった。長い沈黙のあと、田中さんは目を開いてから言った。
「やっぱり、野球だよ、野球」
「野球ですか! あの・・・打ったり、走ったり、捕ったり、投げたりする・・・野球ですか?」
「ああ、そうだよ。野球って、それ以外にあるの?」
「ありませんけど・・」
「言いたいこと、わかるよ。僕は舌ガンだし、タバコも酒も飲みたいだけ飲んできた。今はブヨブヨに太っている。散歩さえできない身だ。でも、残された人生で野球をやりたいんだ」
「なぜですか?」
「うーん。そうだねえ。野球をしていると、とにかく楽しいんだよ。何も考えないで、飛んできたボールを追いかけてしまう。何も考えないで、投げられたボールにバットを当てようと振り回す。それが、たまらなくたのしいんだよ。ところで、実は、私は大学生まで軟式野球をやっていたんだ。しかし、就職した時、野球をやめてしまった。それから、仕事三昧。ストレスを解消するために、タバコと酒浸りになった。しかし、ガンが発覚した。僕の舌ガンの病期は、『ステージ4』なんだ。」
「ステージ4・・・っていうことは・・・」
「そう、最悪だ。もう手術もできない。自分の余命があとわずかであることが分かった今、
生きているうちにやりたいことは何なのかと考えたんだ」
「なぜ、野球なんですか?」
 田中さんはガハハと大声で笑った。長嶋さんと秋山さんが顔を上げて、こちらを見た。
田中さんは大声で言った。
「さっき言っただろう? 理由なんて、わからないよ。でも、野球をやっていると、とにかく楽しいんだ。理由なんて、ないかもしれない」
「理由もなく楽しい・・・ですか?」
「そうだよ。自分でも理由を言葉で説明できないけれど、野球をやっていると、とにかく気分爽快なんだ。不安や雑念が消える感じ。そして、時間が止まったかのように感じるんだ」
「時間が止まったかのように感じる?」
「うん。何も考えないんだ。バッターの時は、投げてきたボールに向かって、ただバットを力いっぱい振る。守備の時には、飛んできたボールに向かって走り寄って、ただ捕球しようとする。そして、一塁手の胸元に向かって投げる。それだけだ。考えないで、ただ体が勝手に動くんだ」
「そんな風にプレーすることがが、理由もなく楽しいんですか?」
「口では説明できない気がするよ。バットを構えて、投げられるボールに集中する。腰を落とし、グラブを構えて、飛んでくるボールに集中する。その一瞬・・・『ああ、俺は今、生きているんだ』という感じがするんだ」
「そんなもんですか?」
「少なくも、俺にとってはね」
「田中さんが本当にやりたいことが野球だってことはわかりましたけど、質問していいですか? 田中さんが野球をやりたいということは分かったんですけど、田中さんは今この瞬間、野球はできないですよね。それって、ストレス、溜まりませんか? 心の底からやりたいことができないのだから・・・」
 田中さんが僕の目を覗き込んだ。
「そうだね。ストレス溜まるね」
 僕は大きな声で言った。
「本当にやりたいことを明確にしても、それが今すぐ実行することができない場合、どうしたらいいと思いますか?」
 田中さんは唇を上げてニヤッと笑って、叫んだ。
「どうしたらいいか、教えてくれよ、ガハハハ」
 田中さんはまた大声で笑った。長嶋さんと秋山さんがこちらを見て、「うるさいなあ」と言わんばかりの顔をした。
 田中さんは長嶋さんや秋山さんのことは眼中になく、言った。
「将来、僕が野球ができるようになるためには、どうしたらいいと思う? 僕の方こそ聞きたいんだけどな」
「う~ん。どうしたらいいんでしょうか?」
「僕は今は入院中だから、野球はできない。それに、長い間、タバコと酒まみれの不摂生な生活を送ってきたから、退院しても、すぐには野球をすることはできない。それでは、どうすればいいのか?」
「どうするんですか?」
「実は僕はすでに考えているんだ。退院できたら、まず散歩から始めたい。そして、少しずつストレッチを行っていく。やがて、筋トレも始める。そして、ジョギングを追加していこうと思っている。つまり・・・、自分が本当にやりたいことをはっきりさせることができれば、それを実現するために何が必要なのかを自分で考えて決めるんだ。夢の実現のために必要なことは何か、自分で考えて、自分で決めるんだ。そして、それをやる! そうすることで、自分のやりたいことがいつかできるようになる」
 僕は頷いた。
 僕は心の中で考えた、「自分がやりたいことをはっきりさせたら、それを実現させるために何をやらなくてはいけないのかを決めることが必要なんだ」と・・・
 田中さんは目をキラキラと光らながら、しゃべり続けた。
「実は、ガンが発覚して、『自分がやがて死ぬ』ということを考え始めたんだ。そこで、『死ぬまでに自分がやりたいことは何なんだろう』って、考えてみたんだ。そしたら、『自分の本当にやりたいことは野球なんだ』と思ったんだ。今までも野球を再開したいと思うことは、あったんだ。でも、今回ほどはっきりと自分の体の中で確信できるものじゃなかったんだ。でも、今回は違う! 僕は退院したら、野球をするために全力を尽くそうと思うんだ。別にうまくプレーできなくたってかまわない。草野球ができて、楽しければいいのさ」
 僕は言った。
「そんなもんですか?」
「そんなもんさ」
 そう言ってから、田中さんは付け加えた。
「でも、鈴木君。なぜ『僕が本当にやりたいこと』なんて尋ねたんだい?」
 僕は目を凝らして、田中さんの目を見た。田中さんは演技している様子には見えなかった。
僕は思った、「こんな質問をするということから判断すると・・・、田中さんはもしかするとミスターXではないのかもしれない。・・・でも、もしそうだとすると、ミスターXは長嶋さんか、秋山さんということになる。・・・しかし、待てよ。あるいは、田中さんは自分がミスターXであることを隠し通したいと考えて、ミスターXではないフリを演じているのかもしれない」って・・・。
僕は答えた。
「白血病が治ったら、僕はどうしたらいいのかな・・・と思っていたので・・・」
 田中さんがガハハと笑った。
「鈴木君。君はまだ若いんだから、自分のやりたいことはゆっくり探せばいいよ」
 そう言うと、田中さんは椅子から立ち上がって、自分のベッドに戻っていった。


 僕は考えた、「田中さんにとって、本当にやりたいことは野球なんだ。では、僕の場合、今の時点では、自分が最もやりたいことは、医者か医療関係者になって、病気で困っている人を手助けしたいということだ。しかし、長期入院を余儀なくされている今すぐに、僕が医者か医療関係者になるころはできない。僕が本当にやりたいことがやれるようになるためには、今この瞬間、どうしたらいいんだろう?

10:ミスターXからの手紙、五通目
  ・・・変えられることを変えるための「価値あることの実行」

 8月19日。
 昼食時間が来た。看護師の上田さんが病室に入って来た。
 お盆を持って、僕の所にやって来ると、手紙を差し出してくれた。
「鈴木君。はい、これ! ラブ・レター、来てるわよ!」
「ラブ・レターなんかじゃないですよ!」
 そう言って、僕は上田さんから手紙を受け取った。宛名書きをチラッと見た。間違いなくミスターXからだった。
 僕は封を切り取り、さっそく読み始めた。
 上田さんがクスッと笑った。
「ご飯も食べないで・・・。やっぱり彼女からのラブ・レターなんじゃないの?」
 僕は笑って、フッと息を吐き出して、手紙に視線を落とした。
         

鈴木誠司君へ                     ミスターXより前略
 こんにちは。いつも一方的に手紙を送りつけて、すみません。私はいつも思っているのです、「この手紙で最後にしよう」と・・・。そう思いながら、懲りずに五通目の手紙を送らせていただきました。
私は次のように考えて、手紙を送っています。「鈴木君が生きづらくて、困っているのではないか。もし私の手紙がガン患者の先輩として少しでも役に立ってもらえたらいいな」と・・・。「この手紙を読むことで、鈴木君が病気の苦しみから抜け出す手助けになれたらいいな」と考えています。
ということで、懲りずにまた手紙を書き、送らせていただきました。


今日、書かせてもらうことは、「自分の人生で最もやりたいことは何なのかを明らかにした後は、具体的にどうしたらいいか」ということです。
結論を言ってしまうと、次の二つになります。
すなはち、・・・一つ目は「自分がコンロロールできる目標を設定する」です。そして、もう一つは、「自分がコントロールできる目標を実行する」です。


一つ目の「目標設定」は、あくまで「自分にコントロールできること」を目標にするのが大切です。「目に見える結果」を目標にしてはいけません。なぜなら、「目に見える結果」「自分にコントロースできないこと」を目標にしてしまうと、努力が実りそうにないという不安に襲われるし、思い描いた結果が達成できないとわかった時に挫折と失望に襲われてしまうからです。ですから、目標は「自分がコントロールできること」を目標にした方がいいのです。つまり、『自分の取り組み態度』について目標を設定したり、『自分の行為』について目標を設定したりするのが良いのです。
悲しいことに・・・・・・、自分のやりたいことを明確化しても、その実現に向けて動き始める人の、なんと少ないことでしょう! なぜ、人は実行しないのでしょうか? それは、結果がうまく出ないことを恐れるからです。成功するかどうか、心配だからです。結果的に失敗して夢を実現できなかった時に、「最初から無理だったんだ。僕には能力が生まれつき無いんだ」などと言い訳したくないのです。
確かに・・・最初から努力しなければ、失敗するという危険性を負うことはありません。しかし! それでは、心が満たされることはないでしょう。
 だから、自分にコントロールできることを目標にするのです。例えば、「自分は時間を見つけて、一日に30分間は『夢の実現のために頑張る』とか、『結果など気にせず、とにかく自分のベストを尽くす』とかいったこと」を、目標に設定した方が良いのです。結果は自分にコントロールできません。自分にコントロールできないことを目標にしないで下さい。
面白いことに・・・「自分がコントローできること」を目標に設定することが、良い結果をもたらすことにつながるのです。スポーツと同じです。試合の最中に、結果を気にしていたら、一つ一つのプレーに集中することはできません。そうすると、試合に負けてしまうことにつながります。逆に、勝敗という結果など気にせずに、「ベストを尽くすこと」を目標にして、一つ一つのプレーに集中すれば、結果的に勝利に結びつくことになります。・・・コントロールできない結果を目標にしないことは大切なのです。


二つ目の「自分にコントロールできる目標を実行すること」は、「良い結果を導くことになる原因を作る」ということです。
「自分が本当にやりたいこと」や「コントロールできる目標」がわかっていながら、それを実現するための行動を実際に起こさないほど悲しいことはありません。何も行動しなければ、何も変わっていかないからです。・・・・・・反対に、自分が熱望することを知っていて、その達成を目指して実際の活動を行う人は、心の底から満足感・充足感を味わうことができます。君も実際にやってみると、実感できるはずです。とにかく実践してみて下さい。自分の価値に従って自分の願望をはっきりさせて、その願望の達成を目指して努力している時、この上ない喜びを感じることができるのです!


具体例を挙げます。もし、君が「自分の最もやりたいこと」は、サッカーをしたりサッカーを教えたりすることだと明確化したとします。しかし、今、君はガンの治療のために、これから長い間、入院しなければならない。今すぐサッカーすることはできません。それならば、いつかサッカーができるために「今は何ができるのか、という目標を設定すること」と、「設定した目標を実行すること」が必要だと思います。
まず、一つ目の「自分にコントロールできる目標の設定」について。
君の場合・・・、栄養・睡眠・散歩などをきちんと管理して、病気を治したいという自覚を持ち、医者や看護師と協力していくことなど・・・自分に今できることをすべてやるという目標を設定するのです。まちがっても、「ガンを直す」とか「プロのサッカー選手になる」とかいった「目に見える結果」「自分にコントロールできないこと」を「目標」にしないで下さい。結果は自分では全くコントロールできないことなのです。そんなことに目標を設定してしまうと、いくら君が頑張っても、その目標を達成できない可能性がありますから! でも、君が「体と心の健康回復のために、今、自分にできる限りのことを行う」ということは、コントロールできますから。
次に、二つ目の「自分のコントロールできる目標の実行」について。
君の場合・・・、将来の自分の理想像に向けて、設定した「自分にコントロールできる目標」を実際に実行するのです。
例えば、睡眠や栄養をきちんと取り、適度な運動を行って、将来のトレーニングに備えるのです。
例えば、医師や看護師とコミュニケーションをきちんと取って、病状や治療方針、今後の見通しなどを率直に話し合い、自分なりにガンに対する向き合い方を探していくのです。
例えば、テレビでサッカーの一流選手のプレーを見て、その技術やチームの戦術について研究するのです。
例えば、サッカーの本を読んで、技術・トレーニング・戦術・栄養などについて研究するのです。
例えば、サッカーはチームプレーだから、自分の人間関係能力やリーダーシップの能力を育てていくのです。
まとめると・・・良い種をまかなければ、良い実は収穫できません。良い原因が無ければ、良い結果は訪れません。よい結果を招くと予想される行動は何かを考えて、実行に移してほしいです。頭の中で考えているだけではダメです。実行して下さい。


自分の価値・理想に向けて行動している時、人は至上の満足感を感じることができます。我を忘れて熱中できるものを見つけたら、立ちはだかる壁に向かっていってください。その時に、この上ない充足感を感じることができます。「ああ、俺は生きているんだな」という深い生きがいを感じることができます。たとえ思うような結果が出なくても、人は自分にできることを精一杯やったのなら、死ぬ時に後悔はないはずです。
努力するプロセスが大事です。ただただ、実行してください。
                                    草々


 僕は手紙を折りたたんで、封筒に入れた。
 そして、僕は考えた、「今の時点では、自分が最もやりたいことは、医者か医療関係者になって、病気で困っている人を手助けしたいということだ。しかし、それは今すぐ行うことはできない」と・・・。
 「僕に今できることは何だろうか?」・・・僕は考えてみた。
 「一つ目の『自分がコントロールできる目標の設定』は、何だろう?」と考えてみる。「今の僕に最大限できること。それは、一日も早くガンの治療を終了させて、退院することだ。そのあとは、高校合格に向けて、勉強することだ。だから、目標は、『健康の回復に努めるベストを尽くす』、『ガンに立ち向かって、前向きに取り組んでいく精神面を整えるベストを尽くす』『ガンの情報を医者に聞いたり、ガン体験者の話を聞いたり、ネットで調べたりするために、毎日30分を費やす』・・・にしよう」と思った。
 僕はさらに考えた・・・「二つ目の『自分がコントロールできる目標の実行』は、具体的には何だろうか?」と・・・。「健康の回復のために・・・、食欲が無くても、三度の食事をなるべくきちんと食べて、栄養を取ること。それから、眠たくなくても、疲労を取り除くために横になっておくこと。」だと・・・。「それから、それから、・・・散歩など、今でもできる運動をして、体調を整えていくことと。それから、それから、・・・ガンにかかったことを受け入れて、ガンに立ち向かっていこうという気持ちに切り替えていくこと。そのために、ガンについての情報を集めたり、同じ体験をした人に話を聞いてみたり・・・動き始めることが大切なんだ」と、そう僕は考えた。
 「僕はガンと共に生きていくんだ」・・・・その時、僕はそう思った。 
僕は手紙を仕舞い、病室を見渡した。
 今、病室にいるのは、三人。田中さん、長嶋さん、そして、秋山さん。三人とも昼食を食べ終わって、ベッドの横になって昼寝しているようだった。
 果たして、ミスターXは一体、誰なんだろうか? 
 

 翌日、8月20日。
 朝食後、病室の入り口に年配の女性が入って来た。絣の着物を着ていた。
「失礼します」
 その人は深々と礼をしてから、田中さんのところへ近寄っていった。
 田中さんが手を挙げた。
「ありがとう」
 僕がボーッと謎の女性を見ていると、田中さんが僕に向かって言った。
「僕の家内だよ」
 僕はその人に小さく会釈した。
 その人はニコッと上品に笑った。
「主人が長い間、お世話になりました」
 僕が目を丸めて、田中さんを見つめた。
「もうすぐ退院するんだ。黙っていて、ごめんな」
 僕はすぐに返事ができなかった。しばらくして、やっと言葉が口を突いてでてきた。
「そうですか。おめでとうございます」
「いろいろ世話になりました。うるさくして、申し訳なかったね」
「いえいえ。こちらこそ、お世話になりました。田中さんがいなくなると、寂しくなります」
「いやいや。静かになっていいだろう」
 そう言って、ガハハと田中さんは笑った。
 田中さんと奥さんはしばらくの間、荷物をまとめていた。そして、片づけを終えると、二人は512号室の患者のところへ行って、挨拶をした。
 田中さんはまず、僕のところへやってきた。田中さんは言った。
「野球の話ができて、本当にうれしかったよ。ありがとう」
「こちらこそ、野球の話をうかがえて、うれしかったです」
 その時、僕は勇気を出して言った。
「田中さん、最後に質問があるんですけど・・・」
「何?」
 田中さんが目を大きくして、僕を見た。
「田中さん、僕に手紙をくれませんでしたか? ミスターXという名前で・・・」
 田中さんはニコッと笑って、言った。
「残念ながら、僕はミスターXではないよ」
「そうですか。これまで長い間、本当にありがとうございました。野球、頑張って下さいね」
「ああ、頑張るよ。君も頑張れよ」
 そう言うと、田中さんは僕に右手を差し出した。僕も右手を差し出し、ガッチリと握手した。田中さんの右手は、大きく、そして、熱かった。
 僕は思った、「田中さんはミスターXではないんだ。だとすると、残るのは、長嶋さんと秋山さん・・・。ミスターXは、一体、どっちだ?」と・・・。
 田中さんは僕のベッドから離れて、次に僕の横に寝ている長嶋さんのところへ行った。僕は長嶋さんの様子を見つめた。
 田中さんが長嶋さんに向かって言った。
「長嶋さん、長嶋さん。退院することになりました。ありがとうございました」
 長嶋さんは返答しない。ただ右手を右耳に当てて、田中さんの言うことを聞き取ろうとしていた。
 田中さんが長嶋さんに近づいて、声のボリュームを上げて言った。
「長嶋さん! 聞こえますか? 私は今日、退院します。長い間、ありがとう!」
 そして、田中さんは両手で長嶋さんの右手を暖かく包んで、上下に揺すった。
 それから、田中さんは秋山一夫さんのところへ向かって、ゆっくりと歩いていった。僕は秋山さんの様子を観察した。
 田中さんが秋山さんの肩をポンポンと叩きながら、言った。
「秋山さん。長い間、お世話になりました。本当にありがとうございました。お元気でお過ごしください」
 秋山さんは目を押さえながら言った。
「こ・・・こ・・・こちらこそ、お・・・おせわに・・・な・・・なり・・・なりました。あ・・・あり・・・あり・・・ありがとう・・・ござ・・・ござ・・・いました」
 そして、田中さんは秋山さんを抱き寄せた。二人はひとしきり抱き合ってから、離れた。
 田中さんの声が涙で震えていた。
「元気でいてくださいね」
 最後に田中さんは病室のドアのところで深々と頭を下げた。僕も頭を下げた。
 僕は思っていた、「ミスターXはどっちだ? 長嶋さん? それとも、秋山さん?」と・・・

11:地固め療法スタート

 8月21日。
 朝7時。看護師の上田さんが朝食を持って、病室に入って来た。
「おはよう、鈴木君! 久しぶりね」
「本当に久しぶりですね。しばらく中本さんがこの部屋に来てましたもんね」
「そうねえ。また、よろしくね。ところで、調子はどう? 食欲はあるの?」
 僕は頭をペコッと下げてから、言った。
「心配していただいて、ありがとうございます。食欲はないですけど、なるべく食べるように努力しています」
 上田さんが目を丸めて、僕を見た。
「久しぶりに会ったと思ったら・・・、やけに丁寧な言葉使いね。なんか、ずいぶん大人になったみたいね。何か、あったの?」
 僕は頭を掻きながら答えた。
「別に何も変わったこと、無いですけど」
「そう?」
 上田さんは僕の顔を覗き込んだ。
「ところで、体調はどうなの?」
「上田さんだから正直に言いますけど、体調はあまり良くないです。相変わらず、夜、あまり眠れませんし、食欲もないし、吐き気も続いています。それでも、気分は以前ほどイライラしなくなったような気がします。髪の毛が抜けたり、ブクブク太ったりで、思い通りに行かないことも多いんですけど・・・、気持ちの方も少しは落ち着いたみたいで、昔みたいにイライラを我慢できないで人にぶつけたりすることが減ってきた気がします」
「体調は悪いのに、気持ちは落ち着いているのね。それって、すばらしいわね」
「はい。不思議ですけどね」
「それにしても、あなた、本当に落ち着いたわねえ。入院当初は暴れて、大変だったけどねえ。この一カ月間でずいぶん変わった気がするわ」
「昔のことは言わないで下さいよ!」
「はい、はい。でも・・・本当に穏やかになったわねえ。どうして、そうなれたのかしらねえ・・・」
 上田さんはまじまじと僕の顔を見つめた。
 僕は両手の手のひらを天井に向けて持ち上げ、肩をすくめた。
僕は心の中で思っていた、「それもこれも全部、ミスターXからの手紙のおかげなのかもしれない」と・・・。
 ミスターXに勧められた腹式呼吸を僕はずっと続けてきた。それから、「思考を観察するという作戦」もずっと続けてきた。「こんなことしても意味も効果もない」とバカにしていた。しかし、最近はイライラすることが減って来た気がする。それから、爪を噛んだり、壁を蹴ったりすることもなくなってきた・・・


 朝食後、しばらくして往診の時間が来た。今日はいつもと違って、たくさんの医者と看護師が病室に入って来た。
 主治医の北野先生が銀縁メガネのまん中を人差し指でずり上げてから、僕に言った。
「鈴木君、どんな感じ?」
 僕は鼻の下を人差し指でこすってから言った。
「体調はあまりよくありません。夜は寝付けないですし、夜中に何度も目が覚めてしまいます。食欲もなくて、食事も残しています。吐き気がして、たまらないんです」
「そうか・・・」
「髪の毛が抜けているのが、イヤです。禿げになりたくないです。それに、ブクブク太っているんです。・・・日によって気分が変わるんです。気分が明るい日もあれば、落ち込んでしまう日もあるんです。もうすぐ2学期が始まるので、学校の友達はみんな学校に行き始めて、普通に勉強したり運動したり友達と雑談して笑ったりするんだろうな・・・と思ってしまいます。それなのに、僕は・・・」
 北野先生は禿げ頭を右手でさすってから、言った。
「やっぱり、学校のことが気になるんだね。君だけじゃない。学生の人はみんなそうだよ。でも、今は治療を頑張ろうよ」
「はい。僕もそう思っています。自分にできることをしたいと思っています」
「ところで、今日は君に連絡です。今まで一カ月間、寛解導入療法を続けて来たけれど、その結果をお知らせします」
 北野先生は人差し指でメガネをかき上げてから、手元の書類をパラパラとめくって、覗き込んだ。
「長い間、抗ガン剤を飲んできたおかげで、君の体の中で・・・正常細胞が骨髄の中に現れて来ているよ。白血病細胞は5パーセント未満に減少しているから、もう輸血も必要ない。つまり、寛解導入療法は終わりだ」
 僕は北野先生の目を見た。
「ありがとうございます。ところで、次はどんな治療を進めていくんですか?」
「うん。これからは地固め療法を始めるよ」
「じ・が・た・め・り・よ・う・ほ・う・・・ですか?」
「そう。地固め療法。これは、寛解の程度を深める療法なんだ。今までの寛解導入療法によって、すでに君は寛解が得られた状態にある。しかし、それでもまだ体内には、まだ多くの白血病細胞が残っているんだ。その残っている白血病細胞を減らすことを目的として地固め療法が行われるんだ」
 僕は手を挙げた。
「具体的には、どんなことするんですか?」
「点滴治療が中心だよ。寛解導入療法で用いた薬剤の一部に、代謝拮抗剤という種類の抗癌剤を組み合わせて、注射するんだ」
 僕はおそるおそる尋ねた。
「それって、どのくらいの期間、行うんですか?」
「うん。そうだな、経過を見ながら判断するけど、ざっと半年から一年間・・・というところだね」
 僕はフーッとため息をついた。
「半年から、一年・・・・・・」
 北野先生はうなずいた。
「君は一人じゃない。僕たちが付いている。一緒に頑張ろう」
 僕は北野先生の顔を見上げて、言った。
「わかりました。頑張ります」
 北野先生は右手の親指を立てて、右手を僕に向けて差し出した。そして、他の患者のベッドへ移動していった。
 それから、しばらくして、阿南先生が病室に入って来た。そして、僕のところへ近づいてくると、右手を挙げた。
「よおっ! 元気しているかい?」
「阿南先生!」
 僕は手招きしてから、ささやいた。
「実は先生に見てもらいたいものがあるんです」
「なんだい?」
「カーテンを閉めてもらっていいですか?」
 阿南先生は僕のベッドの周りのカーテンを閉めてから、椅子に座った。
 僕は5通目の手紙を阿南先生に差し出してから、言った。
「これです」
「ミスターXからの手紙?」
 僕は黙ってうなずいた。阿南先生は手紙を広げて、読み始めた。
 しばらく阿南先生は黙ったまま手紙を読み続けた。そして、顔を上げてから言った。
「あいかわらずミスターXはいいこと、言うねえ~」
「そう思いますか?」
「思う、思う。僕も全く賛成だ」
「そうですか・・・」
 阿南先生は手紙を指差しながら、言った。
「こう書いてあるのが、いい。つまり、『自分の価値に基づいて、自分が本当にやりたいことを明確にすることができたら、・・・その次は、自分がやりたいことを実現するための目標を、何に設定すればいいかを明確にして、それを実行していけ』と書いているけれど、それって大切だと思う」
「どうして大切なんですか?」
「やっぱりね、人って自分が価値あると思えることに没頭している時に生きがいや喜びを感じることができるから! 自分が本当はやりたくないことをイヤイヤしながらやらされても、満足感も達成感も感じることはできないものさ。人生には希望が必要なんだよ。未来に希望や理想を実現できると信じて、努力している時に人はイキイキできるのさ。苦しみや悩みなんか忘れて、自分の好きなことに没頭する。壁があっても、乗り越えられると信じて、乗り越えて行く。・・・・・・それが、人生の醍醐味だろうな」
「そんなもんですかね~」
「そんなもんさ。ところで、鈴木君。君の理想の自画像は何なんだい? それから、未来の夢を実現するために、今、何をしようと思っているんだい?」
 僕は息が止まった。
「何ですか、いきなり!」
「うん。ミスターXの提案を採用して、君も自分の価値に基づいて自分が本当にやりたいことを明確にして・・・その実現のために必要なことを実行していったらいいと思ってね」
 僕はうなずいた。
「正直言うと、実は、僕もミスターXの提案を採用しようと思っているんです。本当になりたい自分というものを明確にして、その理想を実現していくために何をしていくことが今この瞬間に必要なのかを決定して、それを実行していきたいって、思っているんです」
 阿南先生は手を叩いて喜んだ。
「いいね! ぜひ実行しなよ。ところで、君が集中して取り組めることを教えてくれないか? それから、それを実現するための作戦も・・・」
 僕は下を向いて、鼻の下をこすった。
「すみません。今はちょっと秘密です。まだ言いたくないんです」
「そうか、そうか。もし話せる時が来たら、教えてね」
 そう言うと、阿南先生は病室から出て行った。
 恥ずかしくて阿南先生には言えなかったけれど、僕は自分なりに考えていることがあった。それは、将来の夢のことだ。入院する前まで僕には「はっきりとした夢」はなかった。
確かに「サッカーに関わっていく」という目標はあったけど、それは漠然とした目標でしかない。僕は最近、考えるようになったんだ・・・「大人になった時、自分はどんな自分になっていたいのか? そして、自分は何をしていたいのか? 何に熱中していたいのか?」・・・・・・。
 最近、僕の中に夢が芽生えた。僕はいつからか、「医療関係者になりたい」と思うようになった。「医者とか、患者の心のケアをする人とかにないたい」と思うようになった。まだ詳しくは知らないけれど、「緩和ケア」とか、「精神腫瘍学」という学問・・・心と体、心と病気について研究する学問を勉強したいと思うようになった。もし僕が入院することが無かったら、こんな風に思うことはなかっただろう。しかし、僕は入院し、いろんな人に助けられて、思うようになったんだ、「僕も病気で困っている人を助けられたらどんなにいいだろうか・・・」って・・・。そういう点から考えると、入院したことにも意味があったと思う。
 それじゃあ、「医者などの医療関係者になりたい、病気で困っている人を助ける人になりたい」という理想像を達成するために、今、必要なことを何だろうか・・・と、考えてみた。それに対する答えは、今のところ、「自分は今、白血病というガンにかかっているという事実をきちんと受け入れて、現実的な対応をしていくこと」だと思う。具体的に言えば、食欲がなくてもなるだけ食べるようにする。夜、眠れなくても、疲れを取るために横になっておく。病気や治療法の情報を集め、ガンに立ち向かっていこうという気持ち・心構えを確立する。・・・そうしたことを実行していくことが、今、やらなければいけないことだと思う。そうしないと、「病気を治して、退院して、高校に進学する」ことが実現できない。そして、高校に進学して、大学進学のための勉強を進めたい。そして、医学部に進学していきたい。・・・今は、そんなふうに内心、考えている。
とにかく、医療関係者になるという挑戦に取り組むのに適した能力を発展させる・・・自分に今できる最大限のことに取り組みたい。


 やがて、昼食時間になった。看護師の上田さんが昼食を持って来てくれた。
 僕は上田さんが持っているお盆を見た。
「上田さん。手紙、今日は届いていませんか?」
 上田さんは両手を開いて僕に見せた。
「残念ながら、今日は届いてないわよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 僕はそう言うと、チラッと病室を見渡した。しかし、誰も普段と変わった様子は見られない。みんな、黙って昼食を食べている。
 僕は箸で味噌汁をかき混ぜながら、考えた、「ミスターXだと考えられるのは、二人のうち誰かだ。長嶋さんか・・・? それとも、秋山さんか・・・? 僕がこの病室に入院して以来、ずっと一緒にいるのは、この二人だけだからな。
僕は内心、思っていた、「長嶋さんか、秋山さんか・・・。ミスターXは、一体、どっちだ?!」と・・・。


 それは、8月22日だった。正確には、22日の深夜0時を回っていたから、23日の出来事だった。
 8月22日。いつも通り夕食が終わり、いつも通り風呂に入って、いつも通り就寝時間が来た。
 僕はいつも通り、枕元の電燈スイッチを消して、いつも通り、目をつむった。しかし、なぜか・・・いつも通りに寝入ることはできなかった。不思議に目が冴えて、僕はベッドの中で寝返りを打ち続けた。
 夜中の1時を過ぎたころだろうか? 悲鳴が聞こえた。女性の甲高い声だった。
「助けて~」
 僕はベッドから飛び降りて、廊下に飛び出した。廊下には多くの患者と看護師が集まっていた。幾人かの医者や看護師が階段を走って登っていくのが見えた。
 看護師たちは患者に向かって叫んだ。
「病室に入っていて下さい!」
 しかし、患者たちは口々に叫んでいた。
「何があったんですか! 教えて下さい。じゃないと、眠れません!」
 看護師たちは患者を押しながら言った。
「今は言えません。すみません。とにかく、今は病室でお待ちください」
 僕は仕方なしに病室に戻った。やがて、長嶋さんが廊下から病室に戻ってきた。
 そして、僕の所にやって来て、つぶやいた。
「さっきの悲鳴の件、わかったよ」  
 僕はゴクンと唾を飲み込んだ。
「自殺だよ、自殺。飛び降り自殺。屋上から飛び降りたんだってさ」
「だ・・・だれが・・・」
 僕にはそれだけしか言えなかった。足が勝手に震えて止まらなかった。
「大学生だよ、大学生。知らないかい? 515号室の大学生の三宅君。やけに明るい男の子がいただろう?」
 僕は思い当たった。部屋は違ったけど、廊下ではよくすれ違い、挨拶していた。
 長嶋さんが口を押さえながら言った。
「看護師が屋上で見かけた時は、三宅君はもうすでに柵を乗り越えていたそうだよ。看護師の悲鳴が聞こえただろう、『助けて~』って・・・」
「はい」
「それから三宅君は屋上から飛び降りたんだって」
「そ・・・そ・・・そうなんですか?」
 僕は耳をふさいだ。しかし、それでも、長嶋さんは容赦なくしゃべり続けた。
「三宅君の飛び降りたところは一面、血だらけだったらしい」
「長嶋さん、僕、もう聞きたくないです」
 心臓が破裂しそうだった。息が止まって、呼吸ができなかった。
「あのね。死体はグチャグチャにつぶれていたらしいよ。死体はすぐに霊安室に運ばれたって・・・。白血病だったそうだよ」
「もうやめて下さい!」
 僕は叫んで、長嶋さんを突き飛ばしていた。
 看護師が走り込んできた。
「どうしたの!」
 体が勝手にけいれんし始めた。
「あ・・・あ・・・」
 しゃべろうとしたけれど、言葉が出てこなかった。
 看護師が叫んで、僕の肩を揺すった。
「鈴木君!」
 病室の患者さんたちが僕の周りに集結しているのが見えた。
 僕は叫んでいた。
「大学生が死んだ。自殺したんだ。白血病で・・・。僕も死ぬかもしれない」
 看護師が叫んだ。
「大丈夫! あなたの病気は大丈夫! 死んだりしないから!」
「白血病でなくても、いずれ人は死ぬんだ! 僕だって、やがていつか必ず死ぬんだ! ウォー!」
 僕は手足を振り増していた。看護師が力ずくで僕を押さえた。僕は抵抗して、暴れまくった。やがて、僕はベッドの乗せられたまま、特別室へ連れていかれた。
 個室に閉じ込められ、僕は疲れ果て、いつしか眠ってしまった。


 8月23日。
 目が覚めて、辺りを見渡した。いつもの病室ではなかった。特別室だった。昨夜のことを思い出した。僕は大学生の飛び降り自殺でパニックになって、この部屋に運ばれたのだった。
 掛け時計を見た。午前10時だった。
 しばらくして、見たこともない看護師が部屋に入って来た。
「鈴木さん、おはよう。具合はどうですか?」
「はい。大丈夫です」
「先生を呼んで来るから、ちょっと待っててね」
 そう言うと、看護師は部屋から出て行った。
 しばらくして、阿南先生が入って来た。
「おはよう、鈴木君。どうだい、気分は?」
「はい。気分はいいです。もう、大丈夫です」
「自分の病室に戻れそうかい? 本当に大丈夫かい?」
 僕は無理に笑った。
「もうあばれたりしません。部屋に戻りたいですし・・・」
「そうか。じゃあ、部屋に戻ろうか。でも、約束だよ。気持ちが不安的になったら、いつでも看護師を呼ぶんだよ。約束できるかい?」
「はい、約束できます」
 僕は無事に512号室の戻ることができた。
 それから、僕は昼寝をして、のんびりと過ごした。一日が無事に終わり、僕は眠りについた。・・・
 

 翌日、8月24日。
 僕は気分がボーッとしていたので、ウトウトと昼寝をして、一日を過ごした。
 就寝時間がやって来た。電灯を消したけど、寝入ることはできなかった。
 真夜中の0時ごろ。妙な音がした。「ゴボッ、ゴボッ」という音。
 僕はベッドから降り、カーテンを開けた。音は、確かにこの部屋の中から聞こえていた。
部屋の入口近くだ。
 僕はベッドから降り、部屋の入口近くへ歩いて行った。
 音は、秋山さんのベッドから聞こえて来ていた。
「秋山さん?」
 僕は声をかけた。しかし、返事はない。
 僕は秋山さんのベッドの周りのカーテンを開けた。僕は凍りついた。一面、血の海だった。廊下から漏れてくる灯りに照らされて、掛布団もカーテンもすべて真っ赤に染まっているのがわかった。秋山さんが口を押さえていた。しかし、次から次に血の塊が口からあふれ出てきた。暗闇に「ゴボツ、ゴボッ」という音が響き渡った。
「秋山さん!」
 秋山さんが首をかしげて、僕を見た。ニコッと笑ったような気がした。
「だ・・・だ・・・だれか・・・よ・・・よんで・・・」
僕は思い切り叫んだ
「誰か~! 来て下さい! 助けて下さい!」
僕の叫び声を聞きつけて、看護師たちが走って来た。
看護師たちはサッサと秋山さんのベッドを廊下に出し、どこかに運んで行った。
 僕はその場に立ちつくしていた。
 しばらくして、看護師がやって来て、僕をベッドに連れて行った。
「鈴木君。大丈夫? 気持ちは安定してるかな?」
 僕はハアハアと荒い息を繰り返していた。目がチカチカして痛くてたまらなかった。こめかみの辺りの血管がドクドクとでかい音を立てていた。なぜか右手が震えるので、僕は左手で右手の腕をつかみ、押さえつけていた。
「だ・・・だ・・・だいじょうぶだと・・・思います」
「そう? そうは見えないけれど・・・」
 そう言うと、看護師は僕をベッドに横になるように指示した。そして、しばらく丸イスに座って、僕の左腕に指先を当てて、脈を取った。
 しばらくの間、目をつむっていた。しかし、声をかけられて起こされた。
 目を開けると、看護師の上田さんだった。
「鈴木君、鈴木君」
「はい?」
「今、すぐ起きれるかな?」
「はい、大丈夫ですけど、一体、どうしたんですか?」
 上田さんが泣きそうな顔をして、言った。
「秋山さんがね、どうしても今、あなたに会いたいって言っているのよ」
「秋山さんが! わかりました。行きます」
 上田さんは僕を集中治療室へ連れて行った。上田さんの後ろに付いて、僕は集中治療室へ入った。そこには、北野先生と阿南先生がいた。白い帽子と白いマスクで顔を覆って、白い手袋を手にはめていた。
 阿南先生が僕を見て、言った。
「本当はね、今、お見舞いは許されない状況なんだ。でもね、秋山さんが言うんだ、『どうしても死ぬ前に君に会いたいって。君と話をしたいって』・・・」
 阿南先生はそう言うと、ベッドを指差した。
 僕は歩いてベッドのそばに立った。
 秋山さんが横になっていた。目をわずかに開けて、僕を見た。
「す・・・す・・・すずき・・・すずきくん」
 涙が出て、止まらなかった。
「はい!」
 僕は秋山さんの手を握った。
 秋山さんはニコッと笑って、言った。
「て・・・て・・・てがみ・・・」
 僕は叫んだ。
「ミスターXはあなただったんですね。ありがとうございます。ありがとうございま・・・」
 声にならなかった。目に涙が溢れて来て、止まらなかった。
 秋山さんが僕の手を握りしめた。
「が・・・が・・・がん・・・がんばってよ」
 そう言うと、秋山さんは目をつむった。
 北野先生が叫んだ。
「緊急手術だ。鈴木君、退室してもらうよ」
 僕は上田さんに手を引かれて、集中治療室からひっぱり出された。

12:ミスターXからの手紙、六通目
  ・・・自分を忘れる

 8月25日。
昨晩から今日にかけて、目が冴えわたり、僕は一睡もできなかった。秋山さんの手紙を何度も何度も読み返した。その度に涙がこぼれ落ちた。
朝の5時。長嶋さんが廊下から病室に入って来た。長嶋さんのベッドは512号室の入り口に入ってすぐのところなのに、長嶋さんは部屋の一番奥にある僕のベッドまでやってきた。そして、ヒソヒソ声で僕に話しかけた。
「鈴木君。目はさめているかい?」
 僕も小さな声で返事した。
「はい」
 長嶋さんはカーテンをめくって、顔を出して、こう言った。
「あのね・・・」
「はい?」
「秋山さんのことだけどね・・・・・・」
 僕は思わず耳を押さえた。体が震えて、止まらなかった。
 長嶋さんのつぶやきが聞こえてきた。
「秋山さんね、さっき亡くなったんだってさ。手術したけど、ダメだったんだって・・・」
 そう言うと、長嶋さんは自分のベッドに戻っていった。
 僕はベッドに横なった。涙が耳に入っていった。僕は横になったまま、動けなかった。
しばらくして、起床時間が来た。僕は上半身を起こした。そして、ベッドの周りのカーテンを開けて、秋山さんがいたベッドに目をやった。しかし、秋山さんはもうそこにはいない。
僕は目を閉じてみた。瞼の裏に秋山さんの姿が浮かんできた。いつも静かに笑っていた秋山さん。そして、静かに本を読んでいた秋山さん。
僕は目を開いて、秋山さんのいたベッドをもう一度見た。しかし、そこにはもう誰もいない。時は確実に流れていた。


アッと言う間に昼食時間が来た。
看護師の上田さんが昼食のお盆をもって病室に入って来た。
「鈴木君・・・」
上田さんの声が震えているのがわかった。
「はい?」
僕は顔を上げて、上田さんを見た。
上田さんが真っ青な顔をしていた。目が真っ赤に充血して、今にも泣き出しそうだった。そして、右手を差し出した。その手には、白い封筒が握られていた。
僕は顔を上げて、上田さんの目を見た。
上田さんは噛んでいた唇を開いた。
「昨日の午後、病院の受付ポストに投函されていたそうよ。今さっき、ナースステーションに届いたの」
僕はゆっくりと右手を差し出し、手紙を受け取った。そして、手紙を見た。手紙のあて名書きは相変わらず汚い字だった。懐かしい文字だった。それから、僕は手紙を裏返した。そこには、「ミスターX」と書かれていた。
僕は顔を上げて、上田さんを見た。
上田さんは目を押さえたまま、部屋から走り去った。
僕は手紙の封を破った。
 


鈴木誠司君へ
                     ミスターXより
前略
 こちらの都合で手紙を勝手に送りつけていることを、申し訳ないと思っています。しかし、今日はどうしても書きたいことがあって、手紙を書きました。どうぞ、読んでもらいたいと思います。
私は君に今まで5通の手紙を送ってきました。5通の手紙の中で、私が書いてきたことは、・・・「苦しいことが起こった時に、それにどう対応したらいいか」ということでした。
しかし、今日はもっと根本的な問題について、書かせてもらいたいと思います。例えば、「人はなぜ、苦しむのか」「苦しみから脱却するためには、どうすればいいか」・・・といった問題についてです。
結論を書いてしまうと、「苦しみから脱却するためには、自分のことを忘れる」ということです。
びっくりしないで下さい。とにかく最後まで読んで下さい。お願いします。


考えてみると・・・・・・そもそも苦しいことが存在するから、それに対応しなくてはいけなくなるのです。もし、苦しいことが存在しなければ、苦しまなくて済むのです。そう、思いませんか?
そこで、考えてみました。「苦しいことを無くすことはできるのだろうか?」と・・・。そして、その質問に対する、私の答えは・・・「できる」です!
でも、ちょっと待ってください。まず、この質問はちょっとおかしいのです。なぜって、「苦しいこと」というのは、人によって異なるからです。ある人にとっては「苦しい」と感じることが、別の人にとっては「苦しくない」と感じることがあるのです。つまり、「苦しみ」とは主観的だということです。百人の人がいれば、百通りの「苦しみ」があるのです。人にとって、「苦しみ」は異なるものなのです。「苦しみ」とは、「十人十色」であり、「百人百様」です。「一人一人、別々の苦しみがあるだけです。すべての人がまったく同じ悩みを抱えているわけではないのです。結局、「苦しみ」は個別的なものであり、A君には、「A君が苦しいと感じる苦しみ」があり、B君には、「B君が苦しいと感じる苦しみ」があるのです。別々なのです。
だから、「自分が苦しいと感じることを、どうやれば無くすことができるのか?」・・・について、考えてみるべきなのです。それに対する、私の答えは・・・、「自分を忘れること」です。だって、そうではありませんか? 自分の願うような状況を作りたいと願ってしまうからこそ、自分の願いどおりにいかない状況を苦しいと感じてしまうのではありませんか? また、自分の嫌悪するような状況を消し去りたいと願ってしまうからこそ、自分の思い通りに消え去らない状況を苦しいと感じてしまうのではありませんか? すべてを自分の思い通りにしたいと望んでしまうけれど、すべてが自分の思い通りになることはなく、・・・苦しむことになる。だから、すべてを自分の思い通りにしたいと欲してしまう「自分」というものを忘れてしまえば、「自分が苦しいと感じること」が亡くなってしまうのです。そうなれば、苦しみはなくなる・・・と思います。
それとも・・・、「そんな風に単純に・・・自分を忘れることなんてできない」・・・と、思いますか?


では、「自分を忘れる」とは、どういうことかと言うと・・・、「自我意識を無くすこと」です。つまり、「自分が、自分が・・・」という意識を無くすことです。「あらゆることを考える時に、自分というものを勘定に入れないこと」です。何をする時でも、「これは、自分にとって得なのか、あるいは、損なのか」ということを考えないということです。


 しかし、ここで私たちは大きな壁にぶつかってしまいます。「自分を忘れる」なんて、できるのでしょうか? そんなことは実現不可能なことなのでしょうか? 私はその問いに対して、次のように答えたいと思います。・・・「できます! 自分を忘れることは可能なのだ」と・・・。
では、一体、どうやったら自分を忘れることができるのでしょうか? その問いに対する私の回答は、以下の2つです。
「自分のことを忘れる」ためには・・・以下の2つの作戦があります。①は・・・今、自分がやっていることに集中する。②は・・・、自分のことを考えないで、自分以外の人のこと・・・他人のことを考えて、思いやり、奉仕する。
前者の①「今、自分がやっていることに集中する」ということは、「余計なことは考えないで、働きそのものになる」ということです。どのような活動・体験に対しても「これは面白い、しかし、あれは退屈だ」とか、「これはやる価値のあることだ。しかし、あれはやる意味がない」とかいったラベルを貼らないようにします。
そして、単に瞬間の行為に意識を向けるという事です。今この瞬間に自分がやっていることに、我を忘れて没頭することです。例えば、歯を磨く時には、歯を磨く行為になりきる。例えば、掃除する時は、掃除するという行為になり切る。例えば、他の人と話をしている時は、目の前の人と話をする行為になり切る。いつもいつも「今この瞬間」を大切にし、いつもいつも「今いる場所」を大切にし、いつもいつも「目の前にいる人」を大切にするのです。もし、目の前に誰もいない場合は・・・、自分一人の場合は、自分自身を大切にするのです。過去の失敗を思い出したりしないし、未来の不安におびえたりもしないで・・・、今この瞬間に生き切るのです。自分の思考を観察することを忘れないで下さい。自分の思考を観察し、もし自分中心の思考を始めてしまったことに気づいたら、その時は自分の思考を手放すのです。深呼吸を繰り返して、自分の思考を放置して、それが変化して消えていくのを見送るのです。
後者の②「自分のことを考えない。自分以外の人のこと・・・他人のことを考えて、思いやり、奉仕する」ということは、「他者のために役立とうとする」ということです。つまり、「自分のことなどどうでもよい。世のため、人々のために、生きていこう」と決め、それを実行していくことです。この時にも、自分の思考を観察することが大切です。自分の思考を観察して、自分中心に行動したいという思考・欲望の存在に気づいたら、その思考が消えていくのを見送るのです。そして、自分のためではなく、自分を含む全体のために、行動するのです。


私がガン患者であることは今まで述べてきました。しかし、今から言うことは、今まで秘密にしてきました。それは、私のガンがステージ4のガンだということです。ステージ4と言えば、最も進行したガンです。私は実は3年前に、「余命は、よくもって3年だ」と言われました。そして、それから3年が過ぎてしまいました。しかし、まだ生きています。しかし、・・・今後、いつ私が死ぬのか、わかりません。
医者から「余命3年」と言われなくても、人はいつか必ず死ぬものです。死なない人間などいないのです。考えようによっては、医者から「余命が3年だ」と言われたことで、私は逆にこの3年間を充実させて生きてくることができたと思います。私は君を始め、多くの人々にガン患者の過ごし方についてお話させていただきました。
君も・・・そして、私も・・・いつ死ぬか、わかりませんから。
ロウソクに灯された炎のような存在。いつ消えていくか、わからない存在。それが、私たちです。
しかし、「私」という一本のろうそくの炎が消えたとしても、炎のすべてが消えてしまうわけではありません。「大いなるいのち」という「炎」はずっと燃え続けていくのです。
                                    草々

 僕は手紙を読み終えた。手紙を丁寧に折りたたみ、パジャマの胸のポケットに入れた。そして、スリッパを履いて、ベッドから降りた。そして、僕は屋上に上がっていった。
 屋上には誰もいなかった。僕は柵を握ったまま、空を見上げた。雲一つない青空が広がっていた。
 僕はパジャマのポケットから手紙をそっと取り出し、再び読み始めた。
 涙が出て、止まらなかった。
 僕は声を出して、泣いた。
 空を見上げた。
 いつの間にか、空に虹がかかっていた。
 その時、僕は確信した。
「秋山さんは死んでしまったけど・・・、でも、今もつながっているんだ。秋山さんは
僕の中に生きているんだ」と・・・。
 僕は虹に向かって手を合わせ、頭を下げ、目を閉じて、誓った。
「ありがとうございます。僕は一生懸命に生きていきます」
 顔を上げて、もう一度、空を見た。
 飛行機が飛んでいた。青空を横切って、真っ白な飛行機雲が僕の頭から虹に向かって一直線に伸びていく。どこまでもどこまでも伸びていく。
 僕は涙を拭いて、病室に向かって歩いていった。一歩一歩、ゆっくりと・・・・・・。一歩一歩、今この瞬間に集中しながら・・・・・・・

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