【日記】動と静の振り子 2022.7.25
志賀直哉は、その文学的姿勢として「動」から「静」へ、「反抗」から「和解」へという遷移が見て取れる。
志賀直哉はポジティヴからネガティヴという移行を果たしている一方で、 村上春樹は作品乃至彼自身の性質として「デタッチメント」から「コミットメント」への変化があったことが、彼の口から語られている。
これらの遷移を類似あるいは同一の性質を帯びたものとして捉えることは軽率であるかもしれないが、ただ多かれ少なかれ作家(あるいは人間一般)にはこのような二項対立間の移動というものが見られるということは興味深い。
僕は作家ではないし、なにか崇高な思想を持っているわけでもないから彼らに自身を重ねるなど滑稽なことではあるが、このような意識の変容は自分の身にもしばしば起こっているように思える。
ただ僕の性質が彼らと少し違うのは、このふたつの精神の移動が、何度も往復して行われるということだ。それは振り子の運動によく似ている。
真面目に書くのに疲れてきたので自分の下書きツイートを引っ張り出して引用しよう。
僕はまだ若造だから、この振り子のエネルギーが残っていて、往復スピードが速い。しかも振り子の到達する位置も高い。つまりは極端であるということだ。
より二項対立を抽象化するために直哉の動と静を借りると、小学生から中学生の時代は「静」で高校生の時代から「動」、そして最近になって再び「静」といった感じに、往復をしている。
さらにミクロな視点に立てばこの往復運動はもっと短いスパンで行われてもいる。一日二日という単位で。これはまた別の小さな振り子であるわけだが。刹那的振り子。
この振り子運動は、思うに少しずつ収束していく。そうして老いていくにつれて振り子は今の激しい運動からゆっくりとしたものになっていくのだろう。どちらかに振り切れることが良いことなのかはよくわからないが、そういう生き方は場合によっては致命的な状況に置かれることになりそうだ。振り子の糸がその運動に耐えきれずに千切れてしまうように。
ええこと言うた!
ええこと言うたな~。
文学作品とか、あるいは人の観念的な話とか、そこで扱われている概念を自分には関係のない、持ち合わせていない精神性であると断定してしまうのはちょっともったいない気がする。
もしかしたら、彼らの言っているなにかは自分の思っているなにかとは違った種類のものであるかもしれないけれど、それをなるだけ検討して、これかな?というふうに推察して自己や世界に重ねてみるというのは大事な営みであるように感じる。
それこそが純文学的な作品を鑑賞する姿勢として優れた、解釈する意欲を伴った読書であるように思う。それが必ずしも正しい読書であってそうでない読書が悪だと言いたいわけではないが、少なくとも僕はそのような観点を持つことによって作品鑑賞の質の向上が見込めるのではないかと考えている。
またええこと言うた!
ええことニ個も言うたな~。