砂漠に行きたい
砂漠に行きたい。
砂漠に行きたいという願望は最近になって抱くようになった。
大学1,2年の頃は刺激を求めて富士急やら遊園地やら行くのが好きだったけれど、大学3年になってからはなんだか悟りを開いてしまったので、自然との触れ合いを好むようになった。砂漠に行きたいという願望もその一環である。
自然の中でぼーっとするのが好きなので、何もない砂漠で無気力な時間を過ごしたい。
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砂漠とは不思議なもので、ロマンと侘しさが同居しているように感じる。
日本の童謡の一つに「月の沙漠」という作品がある。
月の沙漠を、はるばると旅の駱駝がゆきました。
上の一節から始まるこの作品は、砂漠への魅力的な幻想を私たちに抱かせてくれる。視野いっぱいに広がった、銀色に輝く砂。それを照らす金色の月の光。そんな空間を少しずつ、少しずつ進んでいく二頭の駱駝…
先頭の駱駝には王子さまが、後ろの駱駝にはお姫さまが乗っている。
朧にけぶる月の夜を、
対の駱駝はとぼとぼと。
沙丘を超えて行きました。
黙って、超えて行きました。
夜の砂漠は、一体どんなに美しい景色なんだろうと、砂漠に対する想像力を掻き立てられる。
一方で、同じく砂漠を題材の一つにした作品として、千種創一さんの歌集『砂丘律』を挙げたい。「」内は連作タイトル。
「鳥取と平衡」
閉じられないノートのような砂浜が読め、とばかりに差し出されている
千種創一(2015)『砂丘律』青磁社(p. 70)
「罰について」
深く息を、吸うたび肺の乾いてく砂漠は何の裁きだろうか
同上(p. 102)
「No way」
携帯が通じるのに死ぬ雪山の遭難おもいながら砂踏む
同上(p. 133)
骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな
同上(p. 135)
中東在住の著者による、砂のように乾いた歌が様々に散りばめられている。
「月の沙漠」とは明らかに異なった、砂漠の侘しさのイメージがここには刻まれている。
砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなってしまった人と、死んだ人と、何が違うんだろって思う。
同上(p. 242)
これは歌ではないが、それでも頭から離れない言葉だったので引用した。
砂と地平線以外はほぼ何も視覚情報が入ってこない土地だからこそ、「そこにないもの」を考えざるを得ないのだろうか。
実際砂漠に行ったら、きっと「月の沙漠」のようなメルヘンな世界は存在しないということに気付くだろう。でも、そんなロマンがあるかもしれない、というだけでなんだか砂漠が魅力的に思えるのである。
そして何もない砂漠が、どんな思索を授けてくれるのか。千種さん同様に乾いた、儚い思いにふけるようになるのか、それともまた違う感情や考えがもたらされるのか。
あぁ、砂漠に行きたい。
ここまで読んでくださりありがとうございました。