|炎|
もう30年も経ってしまった。
答えの出ない記憶がまだ消えずにいる。
ある日の帰り道、原付バイクにまたぎ信号待ちをしていた。
ふと歩道に目をやると、ランドセルを背負った一人の男の子が
背中を丸めながら歩いてきた。『小学生はそろそろ帰る時間か。』
まだ信号は変わらない。
もう一度男の子に目をやると、角を曲がってすぐの酒屋の前で、
その子の体がふわんと小さく沈んだ。
『え?』
その瞬間、小さな手の中にボワっと光るものが見えた。
炎だ。
その子の前には、積まれた段ボール。
気づけばバイクを投げ出し、その子の手を掴んでいた。
小さな手のひらには、1本のマッチが頼りなさげに光を放っていた。
あの瞬間の動揺、胸騒ぎの感触が今も私を震わせる。
駆け寄り顔を覗き込んだ私に、
「学校で嫌なことがあって。」と、小さな息が答えた。
すぐそばを車が走り抜け、その音と共に消え行った。
駆け寄った私に表情ひとつ変えず、驚きもせず、そこにあるのは“無”。
その静けさを前に、抱きしめるしかなかった。
私の腕の中にあるのは、空洞だった。
今にも倒れそうな木の幹のような、硬い樹皮に身を隠したもろい空洞。
そして、私の腕の中から音もなくすり抜け、何事もなかったように遠ざかる背中を見送った。
その後どうやって自宅へ帰ったのか覚えていない。ただ、30年もの年月が経った今も、あの時の無力感に押しつぶされそうになる。
何かできただろうか。何を言えばよかったのだろうか。
あの子はどうしているだろう。どんな大人になっただろう。笑っているだろうか。誰かが傍に居てくれるだろうか。いや、ただ生きていて欲しい。
手の中に忍ばせた炎を解き放って。