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あえて「興行風デザインコンペ」と言わせていただくコンペイベントを思考してみた。

北陸にも石川県デザインセンター富山県総合デザインセンターデザインセンターふくいという団体が存在します。
それぞれにデザイン関連イベントを開催している中、福井県を除いてデザインコンペイベントが存在します。
もっとも、僕はこの北陸の団体にはどこも所属していないのですし、この話はこれらの団体とはまったく関係ないことが発端です。
しかし全国でも同じような団体があって、同じようなデザインコンペイベントが開催されているのではないでしょうか?

今回は弊社が所属する某県デザイン団体主催のデザインコンペについて意見募集というきっかけがあったため、デザインコンペについて考え、用紙からあふれてしまった分をこちらにメモしておこうと思います。

デザイン団体が行うデザインコンペイベント

おそらく様々な団体で様々な考え方があるのでしょうが、外から見ている感想としてはやはりエンターテイメント感が拭えません。
そのわりにエンターテイメントとして成立しているとは思えない部分が多いので、身内でだけ盛り上がっている感も伝わってきます。

だからあえて「興行風」と言わせていただいた次第。(;´∀`)

例えば入賞作品が並んでいるTOKYO MIDTOWN AWARD2020のページを見ると、ギフトショーの見本市とそんなに変わらない印象を受けるのは僕だけですかね? なんとなくバイヤーの目で見ちゃうから、
「これ売れそうだなぁ…、これは棚に置いてもいいけど、在庫になりそう」
って感覚で見ちゃう。
そういう感覚で見ちゃうと、グランプリと準グランプリとがなんでこの作品? とか思っちゃうことも。
実際仕事を頼むとしたら、やっぱりよく売れたものをデザインした人に頼んじゃうと思うんで、評価は内々のものって感じちゃいます。
ちなみに、この中だった「okokoro tape」はわりと動く商品になりそう。
今後のライン展開が楽しみです。(違う。そういうページじゃない)

TOKYO MIDTOWN AWARDページより

仕事につながることが興行風デザインコンペの意義⁉

そう考えているのはデザイン団体側じゃないだろうか? 所属会員さんに対する気遣いとか、補助金がついていたらその理由付けのためとか。
でも、少なくとも僕は違和感を覚えます。
WordPressのテーマデザインでこうした催しは聞いたことがないからかもしれませんが。っていうより、Web開発系とすごく考え方が離れているからかもしれません。そりゃWeb系のデザイナーさんは既存デザイン団体に入らないよなぁってちょっと思っちゃったりもします。

こうした違和感の一つ、選考基準に定量的な評価システムが組み込まれていないのが気になります。これは前段で書いたように、見る立場が変われば評価も変わることに対応できていないことが起因している気がします。
WordPressのテーマなら公式リポジトリで表示される有効インストール数と星マークで評価できますが、なかなかそうした指標を設けるのは難しいのでしょう。
しかし先のTOKYO MIDTOWN AWARDのサイトのように、作品を並べて、そこから販売権などを入札できるような仕組みがあれば、アワードも違った意味になる気がします。とはいえ、そもそも権威主義が漂ってきますが。

デザイナーの思考技術力向上が本来の役割では?

ウェブデザインもUIデザインと呼ばれていた画面設計から、UI/UXデザインと呼ばれる画面設計に加えて、操作系全体にわたるスクリーンアプリサービス全体の利用体験設計として考えられるようになりました。また最近ではサービス・プロダクト全体のエクスペリエンス・マッピングを伴うデザインへと範囲が拡大していく流れがある中、そこまで踏まえたデザインコンペイベントはどのくらいあるのか気になります。

デザインを実務として関わる場合、知見を深める意味で見てみたいのは、このエクスペリエンス・マップをあわせたデザインアイデアではないでしょうか。場合によってはリポジトリとした論文などを添えたインデックスや小論文や、Gitのように発表段階までにたどったデザイン履歴は興味があります。

学術的なアプローチで開催されていることも少ないですしね。

おそらくそう遠くない未来に、現在の深層学習技術(ディープラーニング)によって、ある系譜の延長であれば、プロダクト・デザインはAIによって生み出されるようになることは目に見えています。
実際にサブカルの世界では、手書きではなくAIによるキャラクター生成ができるようになってきていますので、同じような方法でプロダクト・デザインは生成することが可能になっていくと考えられます。

AI関連の技術背景を考えてみると、プロダクト・デザイナーやグラフィック・デザイナーに求められる役割というのは、主に意思決定のウェイトが大きくなると考えられます。
現状でもUXデザインでは、グラフィック・モーション・アクション・アニメートなど、セクションごとに必要なデザイン要素を複数の専門デザイナーに任せて、それらをコーディネートしながら組み立てていくことが多いので、すでに意思決定のルーチンはワークフローの中に入っているのではないでしょうか。もはやディレクターの領域に踏み込んでいると言っても過言ではないように思えます。
将来的にはこのディレクターポジションのみがデザイン領域に残る未来が待っているかもしれませんが。

意思決定を行うためには、経験の他に知見が必要だと考えられるのですが、どうもプロセスをオープンにすることは良しとしない風潮が気になります。
逆にウェブサービス系プロジェクトの場合、Gitなどで比較的オープンになっているのではないでしょうか。そのほうがメリットも多いとわかっているからだと思いますが。

興業風コンペの権威依存は古い⁉

やはり考え方が昭和じゃないかなと。
情報系ネットサービスが一般層まで広まった現代と、ネットが存在せず、主にマスメディアからしか情報が得られなかった時代と比較すると、当時は一般の人や実際に使ってみた人のレビューは集めることが難しい。またデザインに関する考え方も、現在より装飾要素に偏っており、理解が浅かった現状がありました。
そのためデザイン団体が太鼓判を押して、ユーザーにこれが良いデザインであるという一定の安心感を与える役割がありました。
Gマークがその代表例です。

しかし現代はAmazonをはじめ、各ECサイトには商品レビュー欄が存在し、様々な比較サイトやユーチューバーによる「使ってみた」動画などで個々の判断ができるようになりました。むしろそのほうが信頼できる時代となったわけです。そう考えると権威依存に頼らない、別の指標が必要になったと思えます。

さまざまな団体に共通したネットの理解不足⁉

理事会を持つ昭和・平成にできた団体全体に言えることですが、ネットを広告メディアとしか捉えられていないのではないかと感じます。

それは理事を構成する人たちの年齢によるテクノロジーの理解不足より、もっと根本的である思考のやり取り・意識の上書きという哲学技術の不足が考えられそうです。

明治・大正・昭和初期くらいまでは、思考に関する議論を行える場が多く存在していました。しかし、高度成長期〜ネット普及時代まで、そうした風潮は下火となり、哲学は習うものとなってしまった感がいがめません。

そのため哲学には本来あってはならない型ができてしまい、哲学雛形を知ることが権威となり、その雛形を真似ることが当たり前となった流れの延長世代が理事会を構成しているように思えます。そのため気を使う事務局が存在し、結果的に興業風コンペが増産されていく結果になっている気がしてなりません。

しかし1990年代のアナログモデム回線時代に、BBSと呼ばれる掲示板サービスを皮切りに、参加者を増加させながら、そして形を変化させながらマイクロブログ〜SNSへ移り、そしてチャットツール時代からメタバースの時代へと移り変わってきます。

近年では哲学カフェと呼ばれる場も作られるようになってきました。
こうしたことがネット上で行われるメリットとして、感情論ではなく、論理的思考に基づいた自らの論理組み立てに、あらゆる人が考えた論理的な思考法をリポジトリとして参照しやすいことが挙げられます。

うん。何書いてるかわからないと思いますけど、これが理解できないんじゃオープンソースの感覚がわからないかも。おそらく多くの団体が興業風コンペの運営で壁に突き当たっているような感覚を受けます。その原因はひとえにオープンではないことが原因だと考えてます。
審査会場を公開しても、審査そのものはクローズだったりしますしね。

これらの問題をデザイン団体間で、たとえばSlackなどを使った議論の場をモデレートしてくれたりといった事例は見当たらないのですけど、そういうことをやっていくべき時代なんじゃないかと思えます。
そもそも地域ごとに区切る必要性が薄れているような気もしてますし。

と、偉そうに書いてしまいましたが、この問題ずっと気になってました。


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