見出し画像

早稲田卒ニート112日目〜教え上手は学び上手〜

今回も勉強になります。

「ガンガン鉛筆を走らせてノートを取って、復習としてそれを整理する」こと。私は浪人生の頃からまさしくこればかりやっていたし、教師になってからも、こういう学生にこそ出会ってみたかった。



毎週金曜日は1年目と2年目の若い教師が集まる授業研修があって、模擬授業を披露する。それを見て、第一線でご活躍のベテラン教師おふたりがコメントを施す。中途採用の私は授業をする機会が回ってこないうえに、どうせマトモな授業もできないから言う資格など無いが、とにかく見るに耐えない。教えることにばかり意識が向き過ぎて、学ぶことが疎かになっているように見える。授業を聞いていても、そいつが何を学んだのかがサッパリ伝わってこないのである。

ベテランもベテランで,若手の「教え方」に舌鋒鋭く指摘を浴びせるだけでなく、自分の「学び方」をも語ってやればいいのになと思う。

三浦先生は、「教えるために1番大事なことは学ぶこと。学んでるから教えられる」と仰ったし、坂倉先生も、「教え上手になるには、学び上手になること」だと仰った。

 ほとんどの場合、古典文法は暗記すべきものとして提示される。たとえば助動詞ムの文法的意味は意志・推量・仮定・婉曲の四つであるという提示がなされ、生徒たちはそれをただ覚える—これではたのしいわけがない。まるで事件の年号を覚えさせるだけの歴史の授業のようである。もしも歴史の授業が年号の暗記だけだったらだれも興味はもたないだろう。その事件が起こった背景は何か、その事件が起こったことによってどういった影響がどこに及んだか、といったことが解説されて、はじめて生徒たちは興味をもつのである。古典文法の授業においても、助動詞ムの文法的意味はどうしてその四つなのかといったことぐらいは解説しないと、けっして生徒の興味をひくことはできないであろう。

(吉田茂晃「生徒に嫌われない古典文法指導を目指して—「推量」の助動詞を面白がる—)

確かに、それぞれの助動詞がなぜその意味になるのかを解説してくれた授業は、一度も受けたことがない。高等学校では助動詞一覧表の暗記テストが課せられただけであるし、あの有名な元暴走族の某古文教師の映像授業でも、ただ何度もしつこく繰り返し声に出しては、「これ絶対覚えろよ」と言うだけであった。これでは何も教えたことにならない。

古典文法指導の最大の問題は“教えていない”ということではあるまいか。一覧表的な知識を提示して「テストをするから覚えなさい」というのでは“教えた”ことにはならない。

(吉田茂晃「生徒に嫌われない古典文法指導を目指して—ヴォイスの助動詞を面白がる—」)

予め用意された結果のみを提示するだけで、その過程を掘り起こさないならば、「問1はウ、問2はア、問3は……」と正答のみを読み上げるのと大差ないことになってしまう。

たとえばテレビに餅をつく機能がついていたら、これはとても奇妙な話であり、どうしてそんなことになったのか理由を知りたくなる。—助動詞「る」が〈受身〉のほかに〈可能〉や〈自発〉を表すのは、テレビで餅をつくようなものではないのか。なぜそんなことが可能なのか、教師はぜひとも解説すべきである。たとえば〈受身〉と〈可能〉は、あるいは〈受身〉と〈自発〉は、どこでどうつながっているのか、その謎解きが鮮やかにできたら、生徒に興味を持って聞いてもらえる授業になるのではないだろうか。

(同上)

そうは言っても、たとえば市販の学習参考書程度しか読まないし持っていないような教師には、そんな授業は到底不可能である。巷に溢れる学習参考書に、その「謎解き」は書かれていないからである。であるからやはり、学び方の上手さが求められることになる。

予習に際しては、「どうやって教えようか」がまず初めにあるのではなく、「どれだけ面白がって学べるか」を努めて自分に課すことにしている。それに、面白がるためにはなるべく自分が無知な方が都合がいい。中途半端に知った気になると、「こんなことはとっくに知っている」として、既知の事項を軽んじて憚らない傲慢に帰結してしまう。しかし、そんな学生をよく目にするのは残念である。

自分が全く無知の段階から何を読み、何に気付き、何を考えたのか。その過程をもう一度辿るようにして喋る。まさしくそれを実現した最初が、教育実習であった。何一つ知りやしない鎌倉仏教についての、てんでダメな授業にもかかわらず、高校生らはよく話を聞いてくれた。あのとき、私の理解と彼らの理解とが互いにゼロから順を追って一致していくような、不思議な一体感を覚えたことだ。

揺らぐことのない私の授業の原点は、そこにある。他の誰でもない私こそが、教室で最も無知な存在であれれば、そんな私でさえ理解できたことは、私よりも賢い彼らになら理解できるに決まっている。だからそのために、己を最も無知無能として位置付ける努力が要るのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?