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【#Real Voice 2022】 「最高の人生」 4年・北本達拓

こんにちは。4年の北本達拓です。
先日の引退をもって、これまで人生の多くの時間を費やしてきたサッカーに一区切りつきました。
昔なら日本代表やプロの試合を見ながらプレーに対して文句を言っていた自分。
でも大学でこれだけ上手い選手が集うア式蹴球部でも数人しかプロになれない現実を知り、プロの世界で活躍している人はとんでもない化け物ということを理解した私は、いまプロの試合を見ても全然文句が出てこなくなりました。
これもア式蹴球部に来たからこその気付きだし、この4年で成長したなと実感しています。
ア式蹴球部での4年間を通じて上には上が居ることを痛感した私は、悔いなく次のステージに挑戦することが出来ます。
これまで関わってくださった方々、応援してくださった方々、本当にありがとうございました。
それではラストブログいきます。

「良い人生とは何だろうか?」
私が今思う「良い人生」の大きな要素は自己肯定出来るかどうかだと考えている。
仮に経済力・交友関係・社会的地位などに恵まれた人生を歩んでいても自己肯定感が高くなければ、傍から見れば良い人生でもその人生を生きる当事者にとっては良い人生と捉えるのは難しいのではないだろうか。では私の人生はどうだっただろうか。

幼少期、父の仕事の関係で5年間をタイのバンコクで過ごした。今では信じられないが、当時の私はインターナショナルスクールに通っていたこともあり、日本語・英語・タイ語の3か国語を喋っていたらしい。さらにバンコクに居た3歳の頃に私はサッカーを始めた。

帰国後は地元の幼稚園に入園し、その友人達と共に地元のサッカークラブにも入った。3歳という早い段階でサッカーを始めたアドバンテージがあったおかげもあり、周囲と比べて上手い事に優越感を感じた私は、井の中の蛙である事に気付かないままサッカーに夢中になっていた。今考えると、幼少期の頃なんて自分を客観的に捉えることもできないし、他者との勝ち負けや優劣が自分の価値を認識する唯一の方法だったと考えていたのかもしれない。ゲームとか山ほど誘惑がある中で、サッカーに打ち込むことが出来たのはこのおかげだと自分なりに分析している。好きこそものの上手なれという言葉もあるが、サッカーを好きになる為には、早くから競技を始めることが意外と重要であることを自分の人生を通じて痛感した。

小学校高学年に入り、私は中学受験の為に塾に入った。塾に行けば、周囲の同級生より先に色々な分野の事を学ぶ為、学校のテストでは皆より早く解き終わり、高い点数を取ることが出来るようになった。これも早くから塾に行き始めた事、そして勉強という結果が如実に数字として表れる分野であることが作用し、勉強でも周囲より秀でている感覚に快感を覚えた。
もちろんサッカーと勉強、どちらの分野でも自分より優れている人間は沢山居たが、都合の良いように解釈するのが得意な私は、文武両道という言葉を盾に総合値なら自分が1番だと謎の自信を持つことで、自尊心を保つことに成功した。

中学受験では無事に第1志望だった暁星中学に合格し、中高6年間をこの学校で過ごした。暁星学園という学校は社会的にはお坊ちゃん学校と言われることも多い。確かに学校としてそうした側面もあるが、家庭環境が似た集団の中でも各々が個性に富んだ環境だった。自分にとって都合の良い最高の魔法の言葉「文武両道」、学校の方針もそうであった為、ひたすらに高いレベルでの文武両道を実現する為に、努力し続ける日々を過ごした。よく考えれば中高一貫校に通っているのだから、勉強なんて最低限してサッカーに打ち込むという選択肢も存在したが、私にはその考えは1ミリも無かった。今になって当時を振り返ると、潜在的にどちらか片方を失えば、自分の謎理論である総合値ナンバーワンが崩壊し、自分の価値が一気に下がる気がして怖かったのだと思う。結果的に、中高でも自分よりサッカーの上手い・勉強のできる人間とは沢山出会ったが、謎理論を突き通すことで、自己肯定感が著しく高い学生生活を過ごした。

高校卒業後は目標としていた早稲田大学に入学、そして早稲田大学ア式蹴球部に入部した。ア式蹴球部はこれまで私が過ごしてきた組織・集団とはまた異なるもので、価値観・環境・これまでの学生生活、話を聞けば聞くほどいかにこれまでの私が狭い世界で生きてきたかを理解した。そのことを理解するにつれ、他者との比較を自分の判断基準・価値基準にしてきた人生を歩んできた自分に対して負い目を感じるようになった。
恵まれた環境で生きてきたのに、実際の自分は大した人間ではないというギャップに苦しむ日々。だからといって、そう簡単に自分が信じてきたものをないがしろにも出来なかった。なぜならそれを失えば、自分が本当に何者でもない人間になってしまう気がしたから。

でも、そもそもなぜ私はこんなことに負い目を感じているのかと考えた。結論としては、これまでの人生で積み上げてきた経験や実績を過信し、自己肯定感と自己有能感を混同していたからだと解釈した。
これまでの私は他者や社会という自分の外部に基準を置き、それによって自分の価値を認識していた。大学までは上手くいく機会が多かった為、自己肯定感と自己有能感が混同しても問題なかった。しかし大学に入り、サッカーや学業というこれまで自分の価値を証明してくれた両分野において上には上がいることを痛感した。
これでは何かと自分が上手くいかなかった時に、自分を見失い、自己否定に繋がりかねないと感じた私は、自己肯定感と自己有能感のバランスを意識するようになった。
また、こうして自分を整理する中でこれまでの恵まれた環境の尊さについても再認識した。

親の偉大さはもとより重々承知していたが、最近より強く実感する機会があった。先日、父をゴルフに母を料理教室へ車で送ってしてほしいと頼まれ、朝早くに車で両親を目的地まで送った。正直、朝だったので眠かったしパシリみたいで面倒だなと思ったが、昔の自分がサッカーの試合や塾や遊びなどによく両親に送ってもらっていたことを思い出した。当たり前のように朝起きて車で送ってほしいと言えば送ってくれる、身の回りのこと全てにおいて見返りを求めずサポートしてくれた。実際に自分がいざ両親にそういったことをしてみると、それがいかに当たり前じゃないことか、恵まれていたかを身をもって実感した。
これまでの恵まれた人生は、両親をはじめとした多くの人の支えがあってのおかげだ。決して負い目を感じるものではなく、これまで支えてくれた・応援してくれた人への感謝を忘れずに誇りを持つべきものだ。

「咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ」

何かの分野に特別秀でることが出来なかった人間なりにがむしゃらに努力し続けてきたからこそ歩むことが出来た人生。今なら他人との比較でも過信でもなく、自分は人にも環境にも恵まれた素晴らしい人生を歩んでいると胸を張って言える。
別に他者との比較を通じて手に入れた自己肯定を完全な悪だと捉えているのではない。ただ現状や自分を認識できずに、盲目的に他人と比較し続ける人生は間違いなくつらいし、面白みに欠ける。何事もバランスが重要だ。こんな気付きを得ることが出来たのは間違いなくア式蹴球部での4年間のおかげだ。
私はこれからも私なりに最高の人生を歩んでいく。


◇北本達拓◇
学年:4年
学部:文化構想学部
前所属チーム:暁星高校


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