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【#Real Voice 2022】 「16年間のサッカー人生」 4年・大場琳平

平素は大変お世話になっております、早稲田大学ア式蹴球部4年の大場琳平と申します。
サッカー選手としての引退が差し迫っている今、この部員ブログでは自分のサッカー人生について振り返っていきたいと思います。


サッカーに出会ったのは6歳。
父の転勤により秋田県から東京に引っ越した自分は周りの友達に影響を受け、サッカーを始めた。
見知らぬ土地に来た自分は誰かから強制されたわけではなく、サッカーをする友達の輪に自然と溶け込んでいた。
そこから毎日のようにボールを蹴り、サッカーにのめり込んだ。
そして父に連れていってもらった川崎フロンターレの試合。
中村憲剛選手や我那覇選手、ジュニーニョ選手といった豪華タレント陣が繰り出す攻撃的なサッカーに釘付けになった。夢中になった。


「自分もいつかあのピッチに立ちたい」

プロサッカー選手が自分の夢になった。


小学1年生の秋に、父の転勤により再び秋田へ戻ることになったが、変わらずサッカーに明け暮れていた。
秋田ではエスポルチ秋田と仁井田レッドスターズという2つの素晴らしいクラブに出会い、一回りも二回りも成長することができた。
練習して上手くなっていく感覚、できなかったことができるようになることが楽しかった。


小学6年生の秋、プロサッカー選手という夢のためにJリーグの下部組織のセレクションに挑戦した。
学校を休み、父と車で秋田と東京を往復する日々。
父から電話でレイソル合格の知らせを聞いた時は心の底から嬉しかった。
夢への挑戦が本格的に始まった。


柏レイソルジュニアユースに入団。

プロを目指す環境の厳しさを知り、大きな挫折を味わった。
自分のプレーが全く通用しない。
練習に行くのが嫌だった。グラウンドに行くとトイレで吐いていた時期もあった。

「プロになれる」と信じてやってきたし、自信もあったのに、何もできない。
上には上がいることを痛感した。

それでも、諦めるわけにはいかなかった。
レイソルに来ることができたのも、自分の夢を尊重して応援してくれる家族がいて、引っ越しという決断をしてくれたから。
プロサッカー選手になるという夢は自分だけのものではないこと、家族の想いを背負っていること。自分にはその使命と責任があると感じていた。

だから、とにかく練習した。自分の武器を模索した。
学校の駅伝部の練習に参加して体力をつけたり、チームに内緒で明光サッカースクールに通って、技術を磨いたり。

すると、1年生の時1度も公式戦に出場できなかった自分が2年、3年と学年が上がるにつれて、試合に出られるようになり、全国大会では初戦除く5試合にフル出場し、全国大会ベスト8を経験することができた。

そして、ユースに昇格することができた。
22人中22番目から這い上がることができた。


柏レイソルユースへ。

少数精鋭のより厳しい環境。
ユースでも序列は1番下からスタート。
コーチからも昇格の話をされた時、13人いる同期の中で13番目の選手であることは告げられていた。
上級生や同期との実力差を突きつけられる毎日。
でも、やることは変わらない。

中学のようにまた這い上がる。
誰よりもグラウンドに残って、練習する。
そう覚悟して、取り組んだ。
でも、最後までその序列を覆すことができなかった。
プレミアリーグ出場3試合。
同期が活躍する姿をベンチで、スタンドで見ている自分。
ただただ悔しかった。


高校3年生の6月頃にトップ昇格ができないことをコーチから言われた。
6年間の努力が3分の面談で終わる世界。
でもその現実を受け入れ、納得している自分がいた。

大学進学へ向けて、AO受験と一般受験の勉強。
サッカーでは同期に勝てなかったけど、勉強では勝ってやろう。
その一心で机に向かった。
早稲田大学スポーツ科学部に合格。
サッカーでは何も得られなかったけど、頑張ったことで報われた。


早稲田大学ア式蹴球部に入った。

環境、価値観の違いに戸惑い、苦しんだ。
自分のサッカー選手としての価値に限界を感じてしまった。

そして、本気でサッカーに向き合えなくなった。
気持ちはどんどんサッカーから離れていった。
サッカーに対する向上心、熱量はどんどん消えていった。

いくら努力しても生まれ持った才能や身体能力には勝てない。
上に行ける未来が見えなかった。

周りを羨み、自分を憎み、限界を作った。
努力は必ず報われる。
そう思って、頑張れていた自分が頑張れなくなった。

色々なものを言い訳にして、頑張れない自分を正当化した。
そういう自分に気付いて、どんどんダメな人間になっている気がした。
サッカーが全てじゃない。そう気づいたのも確か。
でもそう思うことで頑張れない自分を保とうとしていたのかもしれない。

プロを目指すためにやっていたサッカー。
プロを目指さなくなったサッカーに意味はあるのか。

そうやって、サッカーを辞めたいと本気で思う時期もあった


それでも、そんな冷めきった自分の心に熱いものを届けてくれた上さん(元ア式蹴球部コーチ・上赤坂佳孝さん)や隆二さん(現鹿島アントラーズコーチ・鈴木隆二さん)のおかげで少しは頑張れた。

そして、今年の8月。
隆二さんの指導によって、サッカーの楽しさを感じ、前向きに取り組めていた時期。
サッカー人生史上で1番身体の感覚が良かった。
体が動いた。試合で抜かれる気がしなかった。
サッカー人生の最後にもうひとあがきできるかも。
そんなことを思った矢先、怪我をした。

当然、悔しかった。でも納得している自分もいた。
本気でサッカーに向き合っていなかった自分にとって、当然の報いだと。

結局頑張れない自分に負けた。


「プロサッカー選手を目指したサッカーに未練はないのか。サッカー人生はやり切れたのか。」

正直分からない。
プロになる為に、あの時こうしていればよかったと思うことは探せばたくさんある。
でも、途中でプロサッカー選手という夢を疑い、諦めてしまった。
そうやって、自分を信じてやり続けることができなかったことも、自分のサッカー人生。
そこまでの人間だった自分を受け入れている。

でも、サッカーをしていて良かったと心の底から思っている。

努力が報われたり、報われなかったり。喜んだり、悔んだり。泣いたり、笑ったり。頑張れたり、頑張れなかったり。

サッカーを通じて、色々な経験を積み、色々な自分に出会い、色々な景色を見ることができた。そして多くの出会いに恵まれた。

プロを目指したから見えたもの。
プロを目指していたからこそ、見えなかったもの。
プロを目指さなくなって見えたもの。

そんなものがある気がします。

1つのことにここまで夢中になり、多くの時間を費やしたサッカー。

サッカーは自分にとって、人生の財産であり、これからの人生の糧となるもの。

その糧を胸に社会人でも自分らしく頑張ります。


最後にサッカーを通じて出会った仲間、自分を指導してくださった方々、応援してくださった方々、本当にありがとうございました。

そして、家族。
家族の理解と支えがなければ、ここまでサッカーを続けることはできませんでした。
素敵な家族に恵まれて本当に良かった。
優しく、時には厳しい言葉で自分を支え、全力で応援してくれた両親、自分のわがままに付き合ってくれた兄弟のみんな、ありがとう。

丹羽匠とのツーショット

◇大場琳平◇
学年:4年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:柏レイソルU-18


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