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目の前の全て

目の前の全てが受け入れられなくて、顔を手で覆う癖がついた。ベッドに横たわる自分が、死ぬ時と同じ足をぶらつかせてるのが面倒くさくて、ペットボトルの中に埋もれてるのが楽しいっていう感覚を誰かに非難されるのがうざくて、音楽活動が上手く行かなくて。

少し前、1人で山の展望台に上がった。その山の頂上から見える景色は、僕の家はもちろん行きつけのスーパーとか、もう引っ越したけど、かつて好きだった女の子が住んでた家とか全てを僕に見せつけてくれた。嫌だった。この見えてる範囲にいる多分ほぼ全ての人が、他の人に言えない苦しみを抱えてて、景色として動かされているのが耐えられなかった。(自分もその一員であるという事実も嫌だった。)とっさに顔を手で覆った。家だったらじたばたしてれば落ち着くけど、背後には山。僕が踏みつけている地面は綺麗とは言えないコンクリだ。ここでは生と死が毎秒繰り返されて、たまたま僕がそこにいないだけ。逃げ場所は無かった。直ぐに展望台から飛び降りるっていう選択肢もあったけど、柵の上り方さえ考えていられなかった。少しの間寝っ転がって、友人に電話を掛けてなんとか生気を取り戻した。

今思い返してみると、こういう感情に苛まれるのは、絶対一人の時だった。小2の時の祖母の葬式も、知らない大人がいっぱい居たからそいつら一人一人に偏見の鉄槌を下していれば時間が勝手に過ぎた。

他の人の、生活してますよ、みたいな、人生楽しんでますよ、みたいなのが大嫌いで、そういう曲は聞かないし、頼まれても、辛いから聞けない。僕は生活をするのが一番苦手で、人の2倍ぐらい寝る日もあるし、僕の時間の使い方に気が狂ってるって言ってくる奴もいる。でも、それは仕方ないよ絶対に。僕と同じ景色を見て、同じ感想を抱く人はこの世に絶対いない。僕の考えが異端ぶってるとかじゃなくて、育った環境なり趣味もそいつとは違ってるから。じゃなきゃ、僕は小学校で上履きが無いことなんてなかったはずだ。周りと悪い方向に違うって思うことは、最近だから多いけど気づけなかった当時はそれが周りの"普通"との架け橋じゃなくて壁になってしまった。というか、小学生の時の事なんて顔を覆いたくなる事ばかりだ。一挙手一投足、全て着実に自分を嫌いにさせてくる。それが今の僕のいい部分も形成してるし、悪い部分も形成してる。薄汚れた、程度のリアルな事を代弁してくれる人が居ないから、当時から生きづらさ笑を感じていたし、僕1人が死ぬことよりも、太陽が爆発して、地球も滅亡する、とかの方が想像しやすいのが怖かった。小学生の頃TikTokとかでよく流れた曲を聞き返してみて、フラッシュバックする。ちょっとしたパニックになって、また顔を覆ってしまう。結局、僕に逃げ場はないし、僕という存在から離脱する方法は見つけようがない。死ぬ時も、多分その事実に直面したくなくて、顔を覆うのだろう。

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