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暮らしの実感はどうやって得るか 「生活」の手触りについて考える

12月だ。この時期特有の、年末に向かった加速感。クリスマスとお正月というゴールに向けて、ラストスパートを始めるような気持ちの高まり。それが反映されているような街の雰囲気が好きだ。

気分が浮かれつつある中で、「この数ヶ月、頭に膜が張ったような日が多かったな」とふと思った。クリスマスやお正月といえば家での思い出が多く、そういった暮らしの匂いを感じるのが、えらく久しぶりな気がしたのだ。

思い出すのは仕事のことばかりで、なんというか、脳が仕事に注目しすぎている、みたいな。(仕事のことを考えるのは、それはそれでよいことなのですが)

なんというか、生活というものの、手触りみたいなものが少ない。すごく曖昧としているけれど。暮らしの実感がなくて、なんかさみしい。

いやいや、時間が過ぎているということは、私は何かしらの生活を営んでいるわけなので、そこに「暮らし」はあるはずだ。

でも、なんか無機質で、つるっとしすぎてて、手から砂がさらさらと溢れるような感じがする。虚しさに近い寂しさがある。12月なのにクリスマスソングを一度も聞かなかったみたいな、そんな手応えのなさ。

とはいえ、楽しんではいる。でも何か足りてないのだ

足りないのは日常のほうでなく、わたしの感情の向け方にある。と直感している。

それは、今までのさまざまな暮らしの中で、さんざん生活というものを撫でくりまわしてきたから、わかる。たぶん、今の生活で、わたしは何かへのリスペクトを欠いている。

ははあ、片付けをしてないな。

今は実家に住んでいる。実家とはいうものの、母が住みたい場所に住む、一人暮らしの家だ。ちなみにうちの家族は父含むほかの家族も一人暮らしを「したいから」している。

そして、実家はこの春引越しした。かつての私の部屋も無くなった。部屋の内見は母と一緒にしたけれど、私が暮らすことは前提にない。今の私は、完全によその家に転がり込んでいる居候の図式だ。

なので、基本私のものは出っぱなしなのだ。収納スペースがなくて、はみ出るのが当たり前。いつか荷物をまとめる用の段ボールが組んだまま置かれていたり、居場所のない平積みの雑誌があったりする。

雑多な空間で、生活の実感はしにくい。

本棚をスタンディングデスクに使っている

私だけでなく、実家は物が多い。家族のものを一手に引き受けてるのだから、それはそうだ。そして清潔感こそあるものの、片付いてはない。理由は、引越したばかりなのと、私がいるのと、母はだいたい旅に出てほとんど家にいないのと。いろんな背景が混ざってる。

そこに甘えて、自分のものに居場所がない状態を許してもらい続けていた。

整理整頓というのは、生活の手触りに直結しているのかもしれない。じんわりと心に染み渡るような、暮らす楽しみを噛み締めるあの感じは、片付いた部屋にもたらされるのかもしれない。

時間がないわけではないけれど、なんとなく今の状態を許してしまっている。やれる片付けがあるのに放っている。その自覚がうっすらあるから、生活の何かが欠けているように感じるのかもなあ。

好きなようにデコレーションを楽しむ手帳。
石井ゆかりさんによる毎日の占いを書き込んでいる。

さて、気付いてしまったなら、片付けを始めよう。いつか消化するぞと避けておいた書類や、売るか迷っている本や、次の定住まで日の目を見ない小物たちが、帰る場所を探している。

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