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櫂【揺蕩うテナガエビ】:0024



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埃が3㎝も積もる納屋を片付けていると、古い杉板を見つけた。
歴戦の埃だと、ねばっこく貼り付いて水をかけるくらいじゃ落ちない。

ゴシゴシこすって磨くと、驚いたことにそれは古い櫂だった。父がまだ幼いころ、田んぼの水路を舟で渡っていたという。その頃に使われたものだろう。
一枚板から切り出されていて、杉のまっすぐな木目が美しかった。
ふと思いついて、熱い湯が張られた浴槽にアヒルさんよろしく浮かべてみると、はっとするほど杉の香りが沸き立った。埃まみれで50年もしまい込まれていたのが嘘のようだった。




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ぼくはその櫂に、青い波と地元の湖で獲れるテナガエビを描いてみた。
名前の通りの長い手だ。気取らず物おじせず、欲しいものを掴みとる。折れたり取れてしまったとしても、また生えてくる。
そうしたテナガエビの生態には、どことなく憧れを持っていた。

それか、溺れまいと必死に手を伸ばしていた気持ちが絵に浮かびだされたかもしれない。



その頃、夜になると溺れる夢を見ていた。幼いころ喘息を患っていたものだから、呼吸できない事と恐怖はお隣さんほど近しくやって来る。不安と過呼吸はぐるぐる渦を巻いて、ぼくを暗い水底に沈めてくる。
水面がどこにあるかも分からない苦しい夢だ。


描きあがった櫂を、お守りのつもりで枕元に置くことにした。鼻を近づけると、湯に浸かった時ほどでないものの、甘い木の香りがした。



その日見た夢は、水中に溺れるのではなく小さな舟に乗っていた。テナガエビの櫂を胸に抱えている。
嵐の只中でごうごうと波に揺れていたが、舟はかろうじて転覆しない。
水面よりは、自分がどこにいるかが分かる。


墨を垂れ流したように濃い雲の中で雷が轟いているのも、水面が泡立って銀色の波がばしゃんばしゃんと散っているのも見える。
それらは恐ろしいものだったけど、何もわからない不安よりは心が澱まないで済んでくれるらしい。


このままやり過ごそう。そう思ったら、波が少しずつ、すこしずつ落ち着いてきた。黒と銀色の世界が、少しずつ色を取り戻していく。波と雲の鋭い輪郭がゆるんでほどけて、モネの『印象・日の出』のような淡い紫と青に落ち着いた。日はまだ昇らない。日の出の前、薄明の時間。


ぼくは櫂を水面に差し込み、水をひとかきして、
そこで目が覚めた。


舟をこいで、一体どこに向かおうとしたかは今でもわからない。
溺れる夢は、それから見なくなった。


※半分小説、半分メイキング記録です。やや誇張もありますが、今でもお風呂でぷかぷかやってたり、いい相棒です。



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