見出し画像

人はケダモノ?

自分にとっての常識が他の人には、全くもって違う場合は多々あるだろう。

この「違い」という物は、どうにかしてお互いが歩みより、ぶつかったり、話し合ったりすれば、理解し合える物だと、おそらくそんな風に思って大人になった。

ところが、どうだろう。

まるで同じ言葉を介して生きているとは思えないような人に出会い、理解し難い出来事に繰り返し出会ううち、「ひょっとして、良心、というものが存在しない人もいるのではないか。」

という意見に辿り着いた。

良心の呵責、罪悪感、などは、「こういうことをするのは良くないのではないだろうか?」という思いを抱かなければ、出てこない感覚である。

自分を責める、のも良心があればこそである。

時折、世間に現れる残酷なニュースに、「なぜ、そんなことを・・・」と、思う人は多いに違いない。

しかし、人の痛みがわからない、というより、わかろうとする回路が存在していない人もいるのである。いじめがなくならない、というのは、そういうことだろう。

人を痛めつけることが心地好い人がいる、というのを受け入れるのはなかなか大変であるが、この現実は、今テレビをつけても、ネットを開いても、わかる人はわかるのではないだろうか。


きっと、そういう人は昔もいたのだろうけど、あまりにも手軽にそれを実現することが出来る世の中になってしまい、昔なら一線を超えなかった人も軽々と何かを超えてしまうのだろう。


あちこちに、人を痛めつけることで人生を謳歌している人もいる。


その事実をただただ眺めながら、それでも人間として生きていく日々は一体何のためにあるのだろう、と。


秋の月を眺めながら、そんなことを思う。


人の営みはわからないことばかりだが、わからないものをわからないままに生きていくのも、生きる力なのかも。


良い週末を


愛実








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?