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優しい毒

この5月、雨の日が多かった。

人の気分は天気に左右されやすいというけれど、
ずっと緊急事態とされている日常は、
鬱々とした雨の日が続いているかのようである。

実際の天気の方は、一雨あがるごとに初夏の香りが運ばれてきている。

夏の日差しが照るころには、あちこちを覆っている鬱々とした雰囲気も少しは晴れるだろうか。

緊急事態なのは、感染症そのものよりも、その価値観を押し付けてくる空気感なのだと、コロナ禍の長期化に感じている。

気がつくと、公園には沢山の張り紙がされるようになっていて(マスク着用、密を避けよう、など。)仕事で時折、子どもたちを連れて公園に行くと、親切な自主的見回りのおじさんが、色々と注意を促してくれる。

色んな人が、色んなことを心配している。

心配するな、とは思わないが、不安を周囲に押し付けてくるのは、どうなのだろう、とは思う。

心配を自分だけでは支えきれなくて、他人に優しさとして振りまく。

優しさは押し付けるようなことができるものだったのか、と、今更ながら気づく。

「人に優しく」と私たちは教育されてきたが、一体優しさって何なのだろう。

「優しい」と言われたいがために、相手が望んでいるものをやみくもに与えたり。

もしくは、望まれてもいないのに、どんどん与えたり。

「私は本当はこんな風にしたくないけど、あなたのためにしてあげているの」という、ねじれた優しさの箱に入っている毒は、徐々に染みわたって、それを受けた相手を動けなくする。

「拾って育てられないのなら、エサをあげたりしちゃダメ。」

野良猫、野良犬に出会った時に、そんな言葉を言われた経験のある人もいるのではないか。

それが、本当の優しさ、だと。

「もっと、人に優しくしなさい。」と言う人ほど、びっくりするような冷淡さを見せることがある。

価値観の違い、と言ってしまえばそれまでだが、価値観の違いというには、あまりにも酷い、と驚くこともある。

優しさの謎は深まるばかりだ。

この1年、大切な人を守るために、と、街に流れてくる言葉に、配られるチラシに、ポスターに、全く優しさを感じない。

ああ、これは優しいと書いた箱に入った毒なのだ、と。

誰かを、何かを吊るしあげるニュースが現れる度に、鬱々した印象を受けるのが何となく腑に落ちた。

今回のコロナ禍は、テーマが分かりやすいせいか、他人を責めたりしやすい。『命』の大切さを全面に出されたら、それが善で他は悪、とできる。

優しい箱に入れるのにも、ちょうどいいテーマだ。

そして、そこら中に溢れた優しい仮面をつけた毒は、それこそウイルスのように蔓延していく。

命も、人生も、誰かが、どうにかして左右できるような物ではないだろう。

人間はとてつもなく、無力だな、と思う時があるが、無力だからこそ丁寧に生きていくしかないのだと思っている。

いつまでも、続くような騒動に思えても、必ず道の先が見えてくる。

雨はあがる。

そして太陽がここを照らす。

そうやって、繰り返していく。

だから、投げ出さずにまた明日を迎えよう。

疲れたら、もう休もう。

それでいい。大丈夫。

良い週末を








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