血を望む者、志らく

M-1の話しよや。
去年のM-1放送直後の僕の口癖だった。
いつもあんまりちゃんとM-1を見てなくて、放送後にみんながその話をしたりTwitterで感想言ったりしてるお祭りムードに参加できず人知れず孤独を感じていたので、今年はみんなの輪に入ろうと思って途中からゲームを辞めてM-1を見ていた。
チャンネルを変えた時点で6.7組目くらいの点数発表だったので果たして本当の意味でM-1を観た人たちの輪に入れるのか心配だったが、一番盛り上がるのであろう決勝戦さえ抑えておけば話を振られたとき愛想笑いくらいはできるだろうと見続けていた。

そして今回優勝のウエストランド、毒舌をメインに据えている責めた漫才が終わってからの立川志らくのコメントが「今は誰も傷つけないお笑いだと言われてるけど、君たちが優勝したら時代が変わるかもしれないよ」
もう僕はこれを聞いて「よお言うた!」と、国会中継を見るおじさんのような感想を浮かべていた。

確かミルクボーイが優勝した年だったかな、僕はその時珍しくM-1を見ていた。
おばあちゃんの家で見た記憶がある。ぺこぱが登場してそこから“誰も傷つけないお笑い”というムーブメントが生まれたと記憶している。
M-1が終わった後もたびたび取り沙汰されるその言葉が大嫌いだった。
ぺこぱがどうというわけではなく、人々がそんなありもしないはずの幻想を賛美している様に虫唾が走った。

それから時は立ち、僕の考え方も変わっていった。正しさを追い求めても人を傷つけてしまうだけ。誰にも彼にも等しく価値があって、それを理解しようと努力する姿勢こそが尊いのだと。
誰も傷つけないお笑いなどという世迷言への嫌悪感は消えないものの、当時ほどの怒りは湧かず、日々を過ごしていた。

しかしこの日、志らくのこの一言で奥底に眠る本能が瞬く間に滾りを取り戻した。
確かに無闇に人を傷つけるものじゃない。けどお笑いは、お笑いだけは、両手にまとわりつく鮮血の上に成り立つものなんじゃないか。切り裂かれた肉の中から産まれるものなんじゃないか。そんな思いが脳裏を駆け巡った。

そして僕をこのコメントで熱狂させた志らくも、いやむしろ志らくこそ、血と闘争から生まれる真のお笑いを渇望しているんじゃなかろうか。現にそのコメントを紡ぐ最中の志らくの目は心なしか血走って見えた。
今すぐ他の審査員に飛び掛かりたい、観客席に火炎瓶を投げ込みたい、口にこそ出さないが目に映るその殺気から彼自身暴力に飢えていることは明白だ。

無理もないだろう。志らくほどネットで叩かれる審査員もいない。見出しから先に進まないとまるで志らくが不用意な発言をしているかのように見えるネットニュースも山ほど見てきた。
確かに多少キツい物言いをするきらいはあったのかも知れないが、傷つけないお笑いが賛美される世の風潮がそんな志らくをえぐり、そしてそれ以上に飢えさせた。

「おいマスコミども、ネットニュースのライターども、SNSに散らばる有象無象の視聴者ども、こんなものなのか?もっと俺をえぐってくれよ、切り裂いてくれよ、この狂った時代において暴力に渇いてしまった俺を、その刃で満たしてくれよ、それくらいじゃなきゃ笑えねぇんだよ」

僕には見出しに添えられた志らくの写真からそんな声が聞こえていた。
彼がこうも血に飢えるのは何も世の風潮のせいだけではないだろう。自身が鎮座する審査員席からも血を欲する人間は徐々に排除されてきた。

例えば島田紳助が審査員を辞めたのは世間で言われているそれが理由ではなく、予選も含めた2位以下の芸人を毎年皆殺しにしてしまうからというのが本当のところで、M-1が一時休止していたのは減りすぎた芸人の数を一定水準まで戻すためだったとの見方もある。

他にもかの有名な上沼恵美子の「和牛聞いてるか?」発言。当時唐突な呼びかけに困惑する人も多かったと聞くが、実際のところは世間が思っているような彼女の暴走などでは決してない。
事が起きたのはからし蓮根が漫才を終えた後、ベタ褒めする上沼恵美子は唐突に和牛の名前を出す。
しかしここまでの流れを把握した上で見てみると納得がいく。僕は当時強い言葉だなと思って印象に残っているのだが、からし蓮根の漫才では、確か1度だけだが「殺すぞ」というツッコミがあったのだ。そのツッコミに彼らの戦士としての猛りを見出した上沼恵美子は、終始落ち着いた様子で淡々と掛け合いを見せた和牛に対し怒りのあまり喝を入れたのだ。

「和牛(の雄としての本能)聞いてるか!?」

わかりやすく補足するとこんな感じだろう。彼女が呼んだのは和牛ではなく和牛の魂、血と闘争に飢えているはずの彼らの雄、武士(もののふ)、益荒男としての本能だったのだ。
なぜ漫才が終わったのにコンビ2人とも生きているんだ?死人は?血は?古き良き漫才を愛する上沼恵美子なら疑問に思って当然だろう。

そしてこれらのようなM-1の黄金期を知っている志らくなら、ウエストランドの攻撃的な漫才を受けて上述のある種革命への先導とも解釈できるコメントをかけたのも納得ができるだろう。

闘争への回帰、志らくが望むのはただそれだけだった。

M-1というのは元々、血が見たい、闘っていたい、屍の上でしか愛するものを抱き寄せられない。そういう奴らの集まりだったんじゃないか?
血にまみれ骨が剥き出しになるまで殴り合いやがて動かなくなった相方の首をスタンドマイクで切り落とし、生き残ったことへの悦び、そして勝利を、雄叫びと共に噛みしめる。俺たちが見たいのはそういう漫才なんじゃないか?

志らくの言葉にすらなっていないそんな訴えに、僕は一人熱狂していた。
いや僕だけではない。会場の審査員、観客、僕を含めた血に飢えた視聴者がそのコメントで一気にウエストランドの暴力が見たいという気持ちになったと思う。
実際決勝の雰囲気は異常だった。正直3組とも同じくらい面白かったが、ウエストランドの漫才、いや暴力に、既に日本中が飢えていた。
吹き出す血潮を、切り裂かれる肉を、苦痛に歪むその顔を見て、皆が笑っていた。

暴力が、賛美されていた。

そしてウエストランドの優勝が決まった瞬間、笑う男が一人。
志らくだ。遥か彼方、闘争の先にある新時代の到来を、その血走った眼に映し、密かに微笑んでいたのだ。

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