【読んでみましたアジア本】骨太でマッチョ、そして近未来の「公権力」と「私情」を描く:王力雄『セレモニー』

もし、中国を揺るがした感染症騒ぎがでっち上げだったとしたら?――という、今ならなかなかどきっとするようなシチュエーションから始まる政治SF小説。

これがなんと2015年末から中国人作家の手で書き始められた小説で、さらにその時代はどうも2021年を想定していた…という事実に驚くと同時に、すでに昨年4月末に出版されていた本書をこれまで、日本の中国事情関係者が誰一人、話題にしていないというのはなぜなのか。それは深刻な事態への遠慮なのか、それとも…?

版元も刊行時にはきっとそれなりの人たちに献本しただろうに、アマゾンの書評もわずか一つだけ。中国の著名作家、王力雄氏の著作だというのにいったいどうしたことだろう。

王力雄氏のことを知らない中国事情関係者はいないはずだ。漢人ながら、新疆ウイグル自治区を中心とした少数民族問題にも非常に詳しい作家であり、また政府の漢族至上主義に対して厳しい批判を向けている人物だ。夫人はチベット族でやはりチベット文化の保護や人権問題について発言を続ける作家のツェリン・オーセル(唯色)さん。この最強カップルは今も中国北京在住だが、その著作や記事、声は中国国内では完全に封鎖されており、主にツイッターなどの外国のSNSや香港、台湾、海外の出版社を通じて発表されている。

わたしがこの本を手に取るきっかけになったのは、中国で新型コロナウイルス感染事情が予断を許さなかった2月中旬に、いつもSNSで流れる中国ニュースのフィルタリングの参考にしているあるジャーナリストのつぶやきだった。

ますます王力雄氏に対する敬服の念を禁じえない。彼の政治SFは、想像力の宏大さ、描写の正確さ、ロジックの緻密さにおいて、中国語世界において右に出るものはいない!

そして、そこでその比較として上げられていたある作家の名前を見て、ウイルスか細菌感染に関する話だとピンときた。そしてこの本にたどり着いた。

中国ではもちろん、前述したとおり王氏の作品は出版できないので、件のジャーナリストはきっと台湾からの持ち込み書籍(だが、昨今それもかなり厳しくチェックされている)か、直接あるいは王氏に近い人物から原稿を手に入れたのだろう。

中国では出版が難しい原稿があまりに多いので、著者が自ら親しい人たちに生原稿コピーを個人的に渡して読んでもらうことはよくある。著作権意識がゆるい…と言ってしまえばそうだが、どうせ国内では出版できないし、たとえ海外で出版できても国内では多くが手にすることができない。そこで、昔気質の人たちの間で知り合いに読んでもらおうとコピーが配られるのだ。もちろん、それがさらなる第三者の手に渡ることもあるが、クローズドなサークルの深刻性を知る人たちも慎重になるし、もしそれをやったことが公になれば作家はもちろん、昨今では配布した人自身も罪に問われるので、おいそれとぽんぽん外に流すこともない。

文学だけではない。映画、それもインディペンデント映画やドキュメンタリー映画の世界でも同じようなことが昔から行われてきた。近年オープンになってきた商業ベースの文化、知的サークルとは別に、独特の文化、知的情報を交換するためのグループがあちこちに存在する。それらの多くは、形はあるものの組織化はされておらず、顔見知り同士の信頼に立ったものであることが多い。

こうやって書くと、きっと秘密結社ってこんなふうに作られていくんだろうな、と思ったりする。

●公権力と私情の確執

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