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映画『ピンクとグレー』覚え書き(※ネタバレ)



※思いついたら書き足していく予定のネタバレ独り言メモです

※本当にネタバレなんで未見の方は読まないでほしい

※未見の人が読んだからと言って観たくなるような文章ではないし

※ネタバレですしほとんど自分用の備忘録ですしすっごい勝手な事言ってるから的外れ甚だしいかもしれないので怒らない人だけ読んで忘れてほしいし、重ねて観たり寝たり起きたりする内に考えが変わるかもしんない

※そこも含めてメモとして残すかもしんないし、すぐ消すかもしんない












1/9 20:50~ 初見

この映画は、厳密には『ピンクとグレー:著/加藤シゲアキ』の映像化作品ではない。りばちゃんが選んだ遺書のうちの一通から派生したIf orの世界だ。

『ごっち』曰く「あの遺書を選んだから」こうなった世界、『続・ピンクとグレー』なのだ。

この「映画」は、劇中作品「白木蓮吾の生涯を追った映画(原作ではタイトル特に明記されず・映画では「ピンクとグレー:原作/河鳥大」)」を撮影するカメラの目を通して始まる。

ここで思い出して頂きたいのは、行定監督が仰っていた「待望の映画化と言われるのは監督としてはつらい。待望の、という事はつまり待っていた人達の中に既に『理想の映画化』が存在するから」といった内容の言葉。

映画『ピンクとグレー』は、この『待ち望んだ人々の中にある各々の理想の映画化』の上に建てられた城なのではないかと思う。

つまり、未見の段階で62分後の仕掛けに気付いていようがいまいが、この作品を『完全なピンクとグレーの世界』として楽しむためには、我々は「原作・ピンクとグレーの『理想の映画化のみずみずしいヴィジョン』」を抱えた状態でこの作品に望むべきなのだ。だって続編なんだから。前後編の後編だけ見るなんてこと普通しないもの。

ごっちが千鳥格子のスーツを「既に着て」首を吊っていたのも、木本が存在しないのも、なんの説明もないシャンパンを抱えて戻ってくるりばちゃんも、消えるメダカも、オニアンコウのメスは君なのか僕なのか?或いは男?それとも彼女?も、全部既に「前編」で我々は観ているのだ、生ログとも言うべきその過程を。

ゲームの界隈では、たとえば続編に登場した前作の主人公が弱かったりすることを「コントローラーが外れた」などと言いますが、「小説家加藤シゲアキの視点というコントローラーが外れた」りばちゃんは、からっぽの器だ。そして「白木蓮吾の器になる」遺書を選んだ。白木蓮吾の人生をなぞり、彼を理解しようとした。だが出来るはずもなかった。彼もまた、「姉・鈴木唯の器になろうとした」人間だったからだ。

冒頭、団地のシーン。

「しょーもな!」と叫びながら壁打ちするりばちゃんのボールを拾い、同じように「しょーもな!」と叫び壁にボールを投げつけるごっちもまた、中身のないただの器だった。そして中身と器が合わないものはいずれ壊れる。

そして壊れた器を『白木蓮吾』の形に繕え、と言われたのがりばちゃん。繕った形から中身のごっちを探そうとしても、何を考えているのかわからない。当然だ。だって中身は別物だったんだから。

それは前編(原作)のコピーである「絶望的に美しいこの世界に、僕は君と共にある。」に対するエクスキューズで、「理解は出来ないしする必要はない。俺とお前は違うんだから。」

それによって白木蓮吾の器であることを諦めたりばちゃんはデュポンを壁に投げることで、やりようのない憤りを壁にぶつけることしか出来なかった、あの頃の「しょーもないただの河田大貴」にやっと戻ることができたのだ。


あの、誤解があると嫌なんで先に言うけど作品のクオリティ云々の話じゃない、ないが敢えて例えさせて頂くと、「普通の原作と実写映画の関係」が「原作小説とコミカライズ」の関係だとすると、「原作ピンクとグレーと映画ピンクとグレー」は「原作小説と考察系の同人誌」の関係性なんだよなって。

うん、『続』っていうか『異説』なんだな。『異説・ピンクとグレー』。

現状結論としては「観るなら絶対に原作読んでから観ろ」のひとことに尽きる。眠い。