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自分がなかなか成長できていない?上司の「期待」を無視できるようになったら一人前。

キャリア・働き方について悩んでいるひとへ。同じく悩んでいる私より。

社会人4年目の私は社内ではかろうじてまだ若手のポジションだが、こんな私でも後輩ができはじめたこと、年齢の近い仲いい先輩も社内でどんどんと昇進していき始めたことをきっかけに、将来の不安だとか目標だとか色々なことに不安を抱くようになってしまった。

その一つは、自分がなかなか成長できていないのではないかという不安だ。

悩んでしまった経緯

社会人1年目~2年目の間は、周りの同僚・上司は「まだきっとできないことばかりだ、サポートが必要だ」と思い込んでくれていたし(今思えばそれだけでも大変優しい職場環境…)、私も同程度の自己評価だったので、ただ1つ1つ目の前の仕事と対峙してスキルや経験を蓄積することに一生懸命になっていればそれでよかった。当時は、自分のスキルセットが0→1にならずとも、0→0.1になるだけで大きな成長を感じており、毎日多少のしんどさはあっても、モチベーションにつながっていた。

ただ社会人3年目~4年目になってからは違う。私は「そろそろベースのスキルはできたな」と思うようになり、手を広げて、一人で大きな仕事を成し遂げることを目指すようになった。周りの同僚・上司は、(私の能力についてどう思っていたかはわからないけれど)私の志や思いを歓迎し、仕事を任せてくれるようになった。このように、私の仕事への向き合い方や視座が大きく変化したことについては、社会人としての成長ではあるかもしれない。そしてその反面、この私の高い志や思いによって、私は苦しめられる。

任せられている仕事の中で、「できないこと」にぶちあたることが増えたように思われた。それまでも同様にできていなかったはずなのに、なぜ突然そのように感じ始めたのか。それは、そもそも「わからなかったこと」が、明らかに自分の目の前で、「できないこと」として具現化し始めたからだった。私は視力があまりよくないけれど、眼鏡やコンタクトを装着すると、色々なものがはっきり見えてしまう、そういう感覚に似ている。現実をしっかり把握できるようになってしまったのだ。

なんとなくもやのかかっていた「できないこと」がはっきり見えてたとき、魔物の本当の恐ろしさを知る。「できないこと」について、なぜできないのか、いつできるようになるのか、できないことがそもそもだめではないか、と自分への攻めと追及が始まってしまう。

「悩む」ことと「考える」こと

悩むことと、考えることは違うとなんかの本で読んだことがあるけれど、これについてはわかるようなわからないような。いや、正直難しくてよくわかっていない。

だけれど、もし「悩む」ことが自分を責めることとイコールだとしたら、「悩んだ結果自分が幸せにならないならば、その必要はない」といいたい。責めるというのは、直接的なものだけでなく、間接的なものもあると思う。間接的に、というのは、たとえば「なぜできないのか」という原因を考えることそもそもがつらいだとか、自分自身気が付かない形で、自分を責めたり傷つけてしまっている状態のことだと私は考えている。どんな形であっても、結果もしくはその過程がつらいなら、そこまでする必要があろうか?

人生の時間に限りがある以上は、自分が幸せになるために時間を最大限有効活用したほうが絶対にいい。「悩む」ことの対義語が、「考えること」だとしたら、「考えること」は幸せになるための手段を探すことだと思う。その手段は、現状からの逃げ道でもいいし、なんだっていい。

幸せになるために自分が自分自身の選択をすること。それが考えるということであり、すべきことなんだろう。言葉でいうと簡単に聞こえるし、もっともらしいけれど、実際にできるだろうか?実は、「優しい」人ほど難しいんじゃないかと思う。

自分のために他人を捨てる、それが仕事でできるのか?

自分が幸せになるために自分本位の行動や選択をすることが難しいのは、私たちが「社会人」として、社会の一員として毎日を生きることを強いられている、その環境に原因がある。

仕事という文脈で考えると、上司や同僚に囲まれる中で、自分の行動は人に影響を与えてしまう。さらには、上司と自分という上下関係と、同僚と自分というライバル関係のようなものが存在する中では、他人を完全に避けることはかなり難しくなっている。

しかして、自分が望まないならば、上司や同僚に執着したり、仲良くしたり、ゴマをすったりする必要は全くない。なぜか。それらをしたところで自分は幸せになっていないなら、本末転倒だから。一時的に仕事がうまくいったとしても、心に小さな傷ができて、少しずつ痛んでくるかもしれない。

まずは上司の「期待」を無視する

まず社会人で最も面倒なのは、「上司」との関係である。仕事上では自分を管理する人であり、当然ながら、友人や家族のような存在ではない。そして日々、上司からの指示や上司への報告を中心に仕事が回っていく仕組みになっているので、上司から逃げられる日はこない。

4年前に、上司から、振られた仕事について「これ依頼じゃなくて指示だからね」と言われた。少々大げさだが、この時に、新入社員だった私は上下関係を体感したように思う。上司と部下の間では、仕事は「依頼」するものではなくて、「指示」で与えられるものだと。上司にはそう言う意図はなかったかもしれないけれど。(険悪なムードだったわけではない。法務部の上司は一つ一つの言葉遣いに細かく、私がメールで「ご依頼いただきありがとうございます」と返事したことについて笑いながら言ってきたのである。)

すでに外資系企業(というか外資系風の企業)に転職した現在も、ふとこの上司の言葉を思い出すことがある。今でも仕事を手渡される時、嬉しい反面、上司の顔色をうかがって、失敗したくないと強く思うのは、「指示」に応えなければならない部下としての責任感だろうか。

しかし、指示に応えられると思うなんて、幻想だ。能力の高低の問題ではなく、現実的に上司が描いている結果の理想像が上司も描けないのだから、達成は不可能である。どんな人でも。もし、上司の本当の「期待」を正確に、現実に捉えることができたならば、それは「期待」ではなく、上司と一緒に描く目標といった方が近い気がするけれど、目標も期待も、破っても自分は死なないのだから,たいした違いはない。

そして仮に、色々な言葉で「期待」を押しつけてくる上司がいたとしても、その上司が語る「期待」は全て老人の妄想でしかないので、無視して良い。本当の「期待」というものは、押し付けや強制ではなく、相手の行為などに対する嬉しさや思いやりの一つであるはずなのだから。

当然そんな誰も成し遂げられないはずのことを根拠に自分をせめるのは時間の無駄である。目標も期待も破って、自分らしく幸せでいればいいのである。どうせそのうち上司もいなくなるだろう。1人で楽しくやっていけばいい。

他人と自分を比較しない

次に厄介なのが同僚だ。経験や考え方や人生が違うはずなのに、なぜ仕事となると、能力やスキルといったところで比較したくなってしまうのだろう。

会社の人事評価というものは雑な制度であって、「いい」「わるい」をなぜか押し付けてくる。成長、昇進、栄転、明るい言葉で誤魔化して、「人より努力して、一生懸命な働くことはいいことだ」という価値観をひとにねづけている。

ただし、人生という大きい絵で考えてみると、仕事なんて自分の生き方の1ピースにすぎない。社内の昇進レースで時間を使うくらいなら、人生自分らしく楽しめてるかで競った方がよっぽどよさそうだ。

死なない限り幸せになれる

もちろん仕事で頑張るという選択をする人もいるだろう。だけど別に仕事だけじゃないんだから、走って逃げてもいいんじゃないだろうか。どんなに毎日上司に怒られても、大きなミスを起こしても、毎日やる気がなくてゴロゴロしたくても、あなたの人生が不幸になるわけではない。

自分を不幸にしてしまうのは、逃げたいのに逃げることを諦めてしまったり、我慢したり、自分に嘘をつくことである。人に嘘はついてもいいけど、自分にだけは嘘をつかないでほしい。

別に綺麗に生きる必要はないんです。

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