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鬱で眠れないときは眠れないことを受け入れればいいし、好き勝手生きればいい話。

鬱病って自立神経失調症と同じような症状、もしくは併発していることがあり、とてつもなく眠いときととてつもなく眠れないときの差が激しくなる。リズムを取り戻そうにも、朝方早く目覚めてしまうことで昼頃にものすごく眠なってしまい寝てしまう。もしくは昼をどうにか乗り切っても、夜早くに眠くなってしまいうたた寝のように寝てしまって不十分な眠りでまた朝早く目覚めてしまい、悶々としてしまう。眠るタイミングと起きているタイミングがバラバラで疲れが蓄積し、またバランスが乱れる。これのループで、身体のバイオリズムが乱れてしまう。これが精神のバイオリズムとは別のところの鬱病の一部だとも思えるし、結局のところ精神的にも影響をきたしてくるから、心身ともに影響があるから、鬱病の症状なんだろうなとも思える。

自殺しそうな自分を見つけてからというもの、本当にあらゆることがどうでもよくなった。鬱病の自分が自分なんだ、と思うことに抵抗を持っていた自分もどうでもよくなって、いままで隠していた人たちに長く鬱病を患わっていることも話せるようになった。そうしてくると、この眠れないということも「また眠れないか。まぁそうだよな。」と受け入れることができるようになってきた。もちろん、一日のリズムをどうにか修正しようとしてはいる。だが、しようと思ってもうまく行かないのが病気だ。武田鉄矢のような輩が

" 鬱病は体を動かせば治る "

というような無責任な発言をするが、これに関しても別段抵抗しようとは思わない。なったことがない、もしくは自分はそれで治ったと言うような人に何をいってもそれを信じているのだから、どうしようもないのだ。それを鬱病で苦しんでいた吉田拓郎の前で言えるのか?……いえそうだな、なんか。何がいいたいかというと、そういう意見すらも受け入れることが一番自分を楽にする方法なのだと思える。反発しても疲れるだけだ。「まーたそんなこと言っている。まぁそうだろう。」くらいに受け入れられる、そんな発言をしている人たちを受け入れてしまうのだ。そうするとどうなるか。

みんな、好き勝手生きていることがわかるようになる。じゃあ自分も好き勝手生きよう、と思える。好き勝手生きられない苦しさから鬱病になってしまうのであって、世の中の大半が自分がいいと思うことを語り、自分がいいと思うものを主張しい、自分がいいと思う服を着て、自分がいいと思う音楽を聞き、自分がいいと思うものを食べて生きている。そうするべきなのだ。鬱はどうしてもそれらとの逆境に苦しんでしまうことからなるように思えてならない。少なくても自分はそうだった。だから、あいつはこう言ってるけど自分は今眠れないんだ。眠れないからといってなにかする気も起きない。だからただ時間がすぎるのを待つしか無いんだ。そのうちちょっとお腹が空くだろう。そうしたら食べればいい。トイレに行きたくなるだろう。そうしたらトイレに行けばいい。何かを望んだら、それをただただ実行していくのだ。そうしていったら、良くなることもあるだろう。良くならなかったら「あーあ、良くならないな。まぁ、そんなもんか。」と思ってしまおう。誰かに頼りたければ頼ってしまえばいいし、頼りたくないなら自分でなにかができるようになるまで待つ。ただただ、それだけなんだ。

自分だけ不遇だと思ってもいい。自分は恵まれているのにこんな状況になってしまっていると思ってもいい。自殺したいと思ってもいい。学校という束縛が自分を苦しめていると思ってもいい。どのように思ってもいいんだ。こう思ってはいけないなんて誰もいえないんだ。そう思うことで何かが解決するなんてことはほとんどない。でもそういう風に「人それぞれなにか思っているんだから、自分が買う思っていもいいんだ」って思えるだけで、なにか胸に突っ抱えていることがとれるかもしれない。もし自分の考えではない考えを許容できたら「自分は人の意見を許容できる人間なんだ」と思おう。惑わされることとは違う。受け入れるだけだ。そうすることで、ちょっと自分に自信が持てるはずだ。

同じ文章の繰り返しだ。何度も言われると、そんな気になってくるんじゃないかと思って、言葉を変えて繰り返し言ってみた。もしこの考えを許容できたなら、一個自分に自信が持てるようになっているはずだ。


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