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映画「真田風雲録」_日本一カッコ悪い真田幸村、がんばる!

気魄、勇気、機知に溢れた名将。

真田は、五月七日の合戦にも、家康卿の御旗本さして一文字に討ち込む。家康卿のおん馬印臥(じるしふ)さすること、異国は知らず日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり。真田備えおる侍を一人も残さず討死させるなり。合戦終りて後に、真田下知を守りたる者、天下にこれなし、いっしょに討死させるなり。

山下秘録より引用

と家康の陣を震撼させた快挙、講談で謳われたのはもとより、後世の二次創作でも真田幸村はカッコいいものと、相場は決まってる。

実写ならドラマ「真田丸」の堺雅人か映画「真田十勇士」における加藤雅也
ゲームなら「戦国無双」における草尾毅の凛々しいヒーローボイス。
野望に燃える男 であるのが筋、というものだ。

さて、1963年に製作されたこの東映時代劇では、どんな役者が幸村役に起用されただろうか?
威厳ある丹波哲郎? アクの強い南原宏治? 腕の立つ大友柳太朗?

本作は一捻りして見せる、幸村を演じるのは黒澤映画の常連:千秋実、
「隠し砦の三悪人」の太八=C3POの元ネタだ。 デクノボーだ。
勇猛さ・勇敢さから程遠いキャスティングなのは、間違いない。この記事のトップに掲げいてる「真田幸村公像」とそっくりではあるのだが。
従来の幸村像を覆す役者を配置した意図とは? 見ればわかる。

大阪冬の陣、夏の陣に活躍した真田十勇士の物語を、加藤泰監督が奇想天外な楽しさと面白さを盛り込み描いた型破りの時代活劇!!
宇宙から降ってきた隕石の放射能の影響を受け、不思議な能力を身につけた戦国浮浪児の佐助。彼は成長して猿飛佐助と名乗り、むささびのお霧らとともに、カッコいい大将・真田幸村の部下となって、八百長だらけの大阪冬の陣、夏の陣を暴れまわる!
中村錦之助扮する猿飛佐助をはじめ、ジェリー・藤尾の海野六郎、ミッキー・カーチスの由利鎌之助、渡辺美佐子のむささびのお霧という楽しい真田十勇士が、史上最大の八百長合戦に大阪城で躍り上がる!!
キャスト
中村錦之助、ジェリー・藤尾、ミッキー・カーチス、渡辺美佐子
スタッフ
原作:福田善之
企画:小川貴也、翁長孝雄
脚本:福田善之、小野竜之助、神波史男
撮影:古谷伸
音楽:林光
監督:加藤泰

東映ビデオ公式サイト から引用

真田幸村はカッコよく死にたいおじさん、だがカッコ悪く死ぬ。

何も真田幸村が愚かに描かれている訳ではない。声の通りは良いし、総髪の鎧姿も違和感がない。頭の回転も速い。 致命的にオーラがないだけだ。

たしかに、彼は聡い人間だ。
大阪城で豊臣家の重鎮たちに混じって幸村が戦略会議に参加する場面がある。
前景に幸村がいて、後景では重鎮たちが白熱した議論を展開させる。
幸村は、白熱した議論といっても、それはうわべだけのものであるのを見抜く。
幸村は画面手前で、そうした重鎮たちの体裁だけを意識したような議論にあきれ果てる。「どう勝つべきか」明日の戦の勝利のために悩む幸村の表情は、後景で小さく映る重鎮たちの発言、進歩のない議論をより軽薄なものとして、観る者に印象づける。

また、十勇士たちに対し豊臣方に従く分を説くシーンがある。
秀頼はまだ若く、彼を支持する大大名も少ない。自然、この戦いに勝利し、徳川一派を排除すれば、若い勇士たちにも政治に参画するチャンスが与えられる、と。
なるほど、理がある。浪士たちの行列を見下ろし、幸村は猛者受付に並ぶ浪人たちの超大行列を眼下に望む高台で、この様に演説を打つのだ。とどめに、おにぎりとたくあんの入ったお弁当を、腹を空かせた十勇士たちに食べさせてやる。
効果は絶大。 十勇士たち、みな呼応して、立ち上がる。

賢いからこそ、幸村は歴史に名を残したがっている。ことあるごとに、十勇士に演説を打つ。浪士たちに演説を打つ。言論によって力を行使しようとする。知恵によって大軍を率いようとする。 ここまでは実に英傑らしいのだ。

だがもう一度、前述の高台での演説のシーンを見直してほしい。
彼が演説を打っている間、カメラは幸村にピントを合わせていないのだ。(むしろその他十勇士に焦点を合わせている。)

実は誰も幸村の話を聞いていない:そういう印象を不思議に感じさせる。それは、幸村のタテマエとホンネが分離していることを、意味しているのだろう。

そして幸村の本心は、あっさり佐助に見透かされる。

戦はどうせ負けると思っている、あの大将。
「どうせ死ぬならカッコよく死にたい。」

十勇士たちは、彼の演説に心を打たれたというよりは、「しょうがないおじさん、一人死なせるわけにもいかないし、ついて行くか」という感じで立ち上がるのだ。

じっさい、他人より一枚秀でてるだけでは、歴史を変えられずに終わるのだ。
真田丸こそ描写されても、権現様が劇中に登場することはない:
幸村は、三度はおろか、一度も家康本陣を蹂躙すること、望むべくもない。

とどめは、彼の死に様だろう。
次々他の勇士が慌ただしく死んでいく中、十勇士とはぐれた幸村は、負け戦の中でウロウロするのみ。
「かっこよく死にたい」と願った幸村は、徳川の兵士から「これが真田幸村か」と嘲笑され、あげくのはてには、死体の足につまづいて、その死体が握っていた刀に刺さって死ぬという、あまりに惨めな死に方をする。
今際の言葉は

カッコわるい・・・。

幸村は、何者にもなれないのである。

そして、何者にもなれないのは、幸村だけではない。
登場人物誰もが「自分はどう生きるのか?」と悩み、こうありたいと願う理想と状況・立場に押しつぶされる現実との間で苦しむ。諦念に囚われ、感情を閉ざしている者すらいる。

原作同様、60年安保の全学連などに代表される「抵抗勢力の戦いと挫折」という政治的色彩が、背景に色濃く投影されていることに、予め触れておく。

本作の主役は、後の世に名を残した実在の勇者=幸村ではなく、猿飛佐助、その他十勇士、および服部半蔵、そして大野治長ら、名も無く歴史の影に消えていく草木たちだ。
彼らは戦いの中に、僕が僕として僕であるための理由を求める。
それは、幸村たちが見下ろしていた行列:大坂城を目指す大行列に十勇士たちが次々に合流する際、彼らが口々にするモノローグに現れている。
それが、ワラジを履き潰した脚、脚、脚。地面すれすれのローアングルに被さるのだ。美しい。

余は考えた、これが最後の機会なんじゃないのかと。誰もが、例えば太閤にだってなれるようなあたふたした時代は、これで終わりなんじゃないかと。
(到底人を殺すことが出来なそうな顔をしている三好清海入道の心の声。)

私は生まれて十九年、関ヶ原が来るまでは武士であった。
しかしあれから十四年、私は何者でもなかった。生きていながら死んでいたようなものだ。
私はね、せめて自分が何かでありたい!はっきりした何かとして死にたい!
(びっこを引いた筧一三の心の声。)

私はね、この大阪の戦いの記録を執筆しようかと思ってるんですよ。これは当たるねェ!当たりますよ! 
(南蛮風のカッコをしたギター侍由利鎌之助、カメラに向かって語る。

何者でもない奴らが一ヶ所に集っていく様。勇壮なマーチと合わせ、本作で一番心躍る瞬間だ。


猿飛佐助は地球に落ちてきた男、死ねずにひとり生きる。

さて、何者にもなれない人間たちを、猿飛佐助(演:中村錦之助)の視点から見ていこう。

彼は宇宙から隕石と共に落ちてきた男。「他人の心を読む能力を持って」生まれたばっかりに、物心ついた頃には生まれ育った村から嫉まれた存在だった。
生きるということ、愛するということを、まるで分からない人物だ。
それは、おおよそ年相応らしくない、諦念じみた台詞に現れている。

おいら、ひとりでも平気さ。

その彼が、気まぐれに幸村配下に加わる。そして十勇士ら愉快な仲間たちと心通わせることとなる。彼らが敵陣に奇襲をかける時、騒ぐ時、映画は躍動する。

奇襲をどうかけるかといえば、佐助の超能力を授けた笛の音、ギターの音、合唱で敵の行動を操り、惑わせ、最後は入水させる。
これに対して、真田十勇士をはばむ服部忍軍は、「ウエスト・サイド物語」風の均整取れたステップを踏んでみせる。

十勇士はいつも楽しく騒いでいるようなものだが、中でも騒ぎが最高潮に達するのは、もうすぐ講和が結ばれるという噂が流れ、城内悔しさあまってヤケクソの祭りとなる瞬間だろう。
すなわち、大坂に集ったチャランポランたちはそこがダンスホールであるかのごとく歌い踊り、由莉鎌之助(演:ミッキー・カーチス)はギターをかき鳴らし、対して白塗りの淀君率いる大坂城の腰元たちは清く正しい賛美歌を歌うという楽しい構成。佐助も、恋仲となった才蔵(演:渡辺美佐子)と共に、この祭りを心ゆくまで楽しむ

そう、この映画は「音」がキーになっている。声を揃えて歌うことで、ひとりひとりの心が通じ合う、ミュージカル映画なのだ。


ともあれ、佐助は、彼らと一緒になって、半分真面目半分遊び半分に、徳川勢に戦争を挑む。
劇中、幸村そして佐助と敵対する人物もいる。だが、大阪城に集う奴ら、彼らも同じムジナ、戦争の中でしかいきていけない人間たちなのだ。
浪人たちの足をとことん引っ張る権謀術数に携わり、感情全てをシャットダウンしたような重臣大野治長(演:佐藤慶)は、どこかで「浪士たちと共に死ぬことに憧れる」人間であることが、佐助の読心術で明らかになる。
一応の敵である服部半蔵も、佐助同様に「人より優れた力を持ちながら、人に使われる」人間であることが、半蔵自身の口から明らかになる。
好きな奴も好かん奴もも、ひとつくらいは、共感しあえる点を持ちうる。
十勇士たちも、浪士たちも、大坂城上層部も、服部半蔵も敵ではない、出会う者すべてが素晴らしい「仲間」である、またはそうなりうることに、佐助は気づいていく。
ひとりものが、一期一会の素晴らしさに、気づいていく。

佐助がようやく出会いに目覚めた所で、幸村(と、この戦のからくりを知っていた半蔵)が懸念していた通り、政治によって、十勇士の、浪士たちの運命は悪戯にされる。
幸村は豊臣方の作戦を差し置いて奇襲攻撃をかけたとして、逆に豊臣方に銃を向けられる羽目となる。雪の中を敗走する十勇士たちは挽歌を歌う。
幸村不在を良いことに、日和った豊臣方上層部は徳川方と和睦、史実通り外堀(と内堀)が埋め立てられることになる。
佐助たちは、工事の手伝いをさせられる。勝ったのか?負けたのか?平和になった?講和が結ばれた?果たしてそれでいいのだろうか。
どうにも、いやな感じを引きずりつつ、工事に勤しむ佐助たち。

果たして、狸爺は再度の戦争を起こす。 裸にされた大阪城は無力。
最後に功なり遂げることも叶わないまま、なし崩しに、十勇士と幸村は、大阪城最後の日を迎えることとなる。

「骨までしゃぶる」「男の顔は履歴書」「緋牡丹博徒お命戴きます」「日本侠花伝」ほか、権力に運命を左右される/それでも抗う人間というものを、加藤泰はプログラム・ピクチャーの中に塗り込み続けた。本作も、同じだ。


「また、素晴らしい仲間に逢えたら良いな。」

十勇士はばたばたと倒れていく。 大阪五人衆もばたばた倒れていく。
幸村は前述の通り、あっけなく死ぬ。
他方、大野治長は燃え盛る天守閣に一人残って殉死の覚悟、冷静に努めようとするも

熱くなってきたな、あ、熱い、アツイ!

と大マヌケに飛び上がる。
死ぬ間際になって初めて生きていることを実感して、しかし、死んでしまう。

結局、ヒーローとして描かれてもおかしくない佐助や幸村、
いや、それだけじゃない、「何者」かになろうとして大坂城に集った全員が「何者」にもなれず敗北を迎える。


十勇士のうち、辛うじて才蔵と佐助は生き残る。才蔵の恋心が読めてしまうが故に悩む佐助。彼女は「史実に基づいて」脱出した千姫に遭遇し、そのまま連れられて行ってしまう。
「自分と二人では幸せになれない」とお霧の将来を思って、会いたい気持ちをぐっと抑え、見過ごす佐助。

乱が終わった後、忍び一筋:服部半蔵は「平和な世の中になったところでさ、俺に狩衣なんて似合うと思う?だから、戦うんだよ」といって、佐助に一騎討ちを挑み、一瞬にして敗れる。
地面に転がり荒い呼吸をして横に顔をやる佐助、半蔵の首から地面に吸い込まれていく血、地を這う蟻。忍びの運命を象徴するシャープなワンカット。

ひとり生き残った佐助は、それでも死なない。
それは、人は出会うことをやめられないから。 死ぬということ、孤独の中に落ちていくことが、よっぽど辛いことを知ってしまったから。
ひょっとしたら十勇士の誰かが生き残っているかもしれない:

また会うんじゃねえかな、ふらと歩いてりゃいつか。 
…会いそうな気がしてきた。

そう信じて。いつかどこかで誰かと繋がれることへの、わずかな願いを込めて。
カメラは、一面野原を歩き続ける彼を空撮で捉え続ける。
おおよそ時代劇らしくなく、とても不思議に、映画は終わる。

半蔵や治長は死ぬことによって、初めて何者かたり得る。
幸村は何者もなれず死に絶える。
それでも佐助は、死なない、ひとり立つ。 地面と同じ目線に立っている。
何者になれなくても、つながることを求めることはできる。

(叶うにせよ、叶わぬにせよ)どこかで誰かと繋がれることを願い続ける人間というものを、やはり加藤泰はプログラム・ピクチャーの中に塗り込み続けた。本作も、同じだ。


春日太一の力作「あかんやつら」にこのような一節がある。
1963年の東映京都撮影所、ちょうど本作と同じ時期に、同一のスタジオ内に製作された時代劇『関の彌太っぺ』(監督・山下耕作、主演・中村錦之助)にまつわる小話だ。

『関の彌太っぺ』は、錦之助扮する主人公がただ一人で大勢の敵が待ち受ける決闘の地へと向かう場面で終わる。撮影の準備をしている時、助監督の鈴木則文がふと近くの畑を見ると、そこには何本もの彼岸花が咲き乱れていた。
「これを道ばたに挿そう」
鈴木の発案を受けて、スタッフ総出で道に彼岸花を挿していった。
彼岸花の咲き乱れる夕暮れの田舎道を、錦之助は遠くに半鐘の音を聞きながら死地へと歩いていく。その物悲しい寂し廖感の漂う錦之助の背中を見ながら、鈴木は思った。
「これで時代劇は終わるのかもしれない……」

「あかんやつら」203−204ページ から引用

同撮影所内を走り回ったスタッフたちの気分も、同じことだっただろう。
時代の裂け目に転がり込んだ、東映撮影所のスタッフたち。家が崩れ落ちていく中で、一つの時代の終わりをひしひしと感じる中で、それでも明日を探し続けた。互いにつながることで、激流に逆らおうとした。

本作の製作に参画したスタッフの言葉を引用して、本記事を締め括る。

大阪冬の陣、夏の陣を背景とした時代劇であると同時に、私には、この映画がまるで、映画づくりについての映画に思えて仕方がありません。ひとりひとり、生まれも育ちも性格も違うものたちが、ある目的のために集まり、やがて散り散りに散っていく。得意技、分野の違う真田十勇士のみんなの姿が、どうしても映画スタッフの姿に重なって見えてしまうんです。その象徴ともいえる台詞が「列を組もうぜ」です。一緒にやろう、ということに、ヒエラルキーがない。誰が上で誰が下ということはなく、横一線なんです。列を組むってそういうことですよね。列を組もうぜっていうのは、必ずしも思想信条が似ているとか、そういうことでもない。とにかく人間として惚れ込む相手と出会ったと思ったら、「列を組もうぜ!」と。 加藤さんは、キャメラの古谷伸さや美術の井川徳道さんはじめ同じスタッフや、汐路章さんはじめ同じキャストと何度も組まれることもありましたが、それでも全員同じメンバーが揃うということはありません。その意味で映画の撮影はまさに「一期一会」です。一人一人に惚れ込んで作品を仕上げていく加藤組だからこそできた作品です。

京都ヒストリカ国際映画祭 公式サイトから引用

一期一会の縁によって、人は人たり得る。
この不可思議な時代劇に、熱い拍手を送るのは、ごくわずかだと思うし、しかしそのごくわずかこそ、重要だと思う。



なお、「猿飛佐助が宇宙人」という設定は、「真田幸村の謀略」に受け継がれている。(こちらでは中村錦之助が佐助役に代わって、大御所様を演じている。)


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