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勝手にしやがれ!密偵計画。 ベルモンド×メルヴィルの「いぬ」。

1963年制作のフランスフィルム・ノワール、監督はジャン=ピエール・メルヴィル、主演はジャン=ポール・ベルモンドが起用された『いぬ』(原題:Le Doulos)より。
ベルモンドは、「勝手にしやがれ」で演じた、ハンフリー・ボガートを崇めつつも彼になることはできないミシェルはみ出した感じを、本作では「得体のしれない本物のギャング」シリアンとして、全編に漂わせる。


鉄橋とトンネルの下に延々と続く一本道を、トレンチコートの男が闊歩するオープニングロール、ゴツい太文字でキャストが次々に流れていくカットだけで、もう酔わされること間違いなし。
でも、この男は、ベルモンドではないのさ。

この男:モーリスは、出所したばかりのギャングで、友人のシリアンとともに新たな犯罪計画を進める。しかし、事件は予期せぬ方向に進展し、モーリスは再度獄につながれる。怒ったモーリスは、シリアンが裏切ったものとばかり思いこみ、同房の男にシリアンの殺害を依頼する。他方で警察は計画に加わりつつも捕まらず飄々としているシリアンに疑いの目を向ける…というように、状況が複雑に絡み合う展開が続く。

「いぬ」とは警察への密告者を意味する隠語。といってもベルモンドが三下のゲスイスパイを演じるわけがなく、周囲を振り回す主体として思う存分躍動するのが、本作の魅力の一つだ。
ジャン・ドサイ演じる老刑事が、署内の一部屋にシリアンを閉じ込め、10分間のしつこい長回しで尋問するシーンは、本作のハイライトだろう。部下の刑事もシリアンに密着して離れない、にもかかわらず、本音を吐かせることができない、どことないおかしさ。

他方で、シリアンがギャングらしいダーティな側面を有しているのも、実に良いところだろう。女を殴る、縛る、また殴る、縛ったところにスコッチを頭からかけてやる、猛禽類のような目で睨みつけるのを、さも当然のように行うところ。拳銃を操ったり、「ジーッ、ジーッ」と音を立ててダイアルを回す手つきの怪しさ。
どこまで逃げても、吠えては追いかけてくる、猟犬の様ないやらしさ、ねちっこさ、タフさを漂わせる。
とかく、シリアンというキャラクターが持つ、ギャングたち・警察たち周りの老練の役者を圧倒して一人頭抜けてうまく立ち回るカッコよさに、予想もつかない行動を次々に行う挙動不審なある種の不気味さから、目が離せないのは、当然のことだ。

シリアンは終盤、バーで事の次第を全て説明する。この時だけ、形相が穏やかなものに変わる。
名探偵コナンばりの長台詞・丁寧な物語背景の解説があっても、テンポよく進行するストーリーを追うのに必死になっていた観客は、この種明かしを前に「ああ、そうですか」と首を傾げつつ納得するほかない。唯一、腑に落ちるのは、すべてはモーリスのための計らいだったということ、シリアンは警察のスパイなんかじゃなく、友情に熱いギャングそのものであったという、事実だけだ。

さて、モーリスと祝杯をあげよう、と意気揚々とシリアンは郊外の邸宅に帰る。のだが、ふとした行き違いから射殺されたモーリスの死体が転がっている事実の前には、何事か掴めない無表情を浮かべるほかない。しかしすぐに、死んだモーリスのゆび指す向きに気づき、その先に隠れている獲物を狙う鋭い目つきに変わるのは、さすが。

モーリスを殺した男たちを狙っての銃撃戦は…

シリアンの帽子がコロコロ転がって、映画は終わる。


本作、ヒッチコック作品の様な張り詰めた緊張感と「謎解き」に向けた洒脱なプロット、逃走中に射ち込まれた銃弾を獣医に取り出してもらったり街灯の真下の土の中に宝石や拳銃を埋めたりする様なノワールらしいディテールの細かさ、など、地に足ついた世界を演出する一方で、弾着なしに一瞬で終わる銃撃、全員コート姿という異様な(60年代前半ならぎりぎり成立し得る)世界観など、のちのメルヴィルの意匠もみられることが興味深い。
いま見ても全く古びない、生き生きと躍動する「勝手にしやがれ」そのものなベルモンドを拝むころができる作品といえるだろう。

本記事のサムネイルはCriterionから引用

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