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ルームシェアは危険でいっぱい。キャリーとシャイニングの悪魔合体、「3人の女」。

ルームシェア。
いっしょに暮らして、いっしょにご飯を食べて、いっしょに日を暮らす。
心通じた親友か、見知らぬ誰かか、どちらを選ぶとしても、心ときめくものがある。 (偶には恋に発展することもあるだろう。同性または異性で。)

だが、たった一つのことを忘れると、それは修羅場となる。
同居人を事前にキッチリ審査することだ。軽々しく引き入れてはイケナイ。 人によって価値観もライフスタイルも異なるのは当たり前。 この「違い」を許容できないと、後で痛い目を見るというのが、ルームシェアの怖いところ。 
果たして、ルームシェアを題材にした1976年のアメリカ映画「三人の女」(Three Women)の主人公ふたりは、それで酷い目をみる。


舞台はアメリカ郊外の町。 老人向けフィットネスクラブに勤務する20代後半の女性、ミリーは、アパート二階の部屋の同居人を募集する。 同じく勤務する20代前半の女性、ピンキーがこれに手をあげる。 念入りな意思のすり合わせを欠いたまま、ふたりはルームシェアを始めてしまう。

悲しいかな、キャスティングだけで、我々は悲劇を予感できてしまうのである。ピンキー:演じるは「キャリー」において念動力を暴走させる不安定な少女、シシー・スペイセク。
ミリー:演じるは「シャイニング」においてジャック・ニコルソンより怖い不安定な妻、シェリー・デュヴァル。

どう考えても、幸せにはなれない組み合わせ。互いに負のオーラをぶつけ合って、互いに消耗していく。

カリフォルニアにある老人患者専門のリハビリ・センターにやってきた娘ピンキーは、看護婦ミリーに付き添い、見習いとして働き始める。やがてふたりは不思議な絵を描いている女性ウィリーの夫が経営するアパートで生活し始める。そんな折、ミリーから邪魔者扱いされ、部屋を追い出されたピンキーが自殺を図るという事件が。彼女は一命を取りとめるが、その後、性格が一変して……。3人の女たちの姿をミステリアスな映像美で綴る。
【スタッフ】
監督・製作・脚本 ロバート・アルトマン
【キャスト】
シェリー・デュバル、シシー・スペイセク、ジャニス・ルール

引用元:映画.com 作品情報

ルームシェアが始まる。 ストレスが溜まっていく。


上の画像、ピンキーがミリーに向ける怪しい視線で、察しかと思うが、ピンキーはミリーに一目惚れしている。 ルームシェアに手を挙げれば、ミリーだけ見つめていられるという魂胆なのだ。

他のものが視界に入らなくなるくらい、彼女はミリーに惚れている。扉の隙間から、背後から、鏡越しから、ミリーの働く様子、ミリーの食べる様子、ミリーの話す様子を絶えず伺うくらい。ピンキーは徹底的にミリーの後を付け回す。ピンキーにとって、ミリーがいない世界は、とてつもなく不安なのだ。 

われわれは、カメラを通して、このストーキングを伺うことができる。
ピンキーの釘付けになった視線が、グロテスクなカメラで強調される。

同居を始めてから、ピンキーのミリー熱はさらに暴走する。 ピンキーは、ミリーに自分だけを見て欲しい。 だから、ピンキーは道化になって、ミリーの気を惹こうとする。 飲めないビールを飲んでみたり、 ミリーのお気に入りの服を身につけてみたり。
しかしこの試みはうまくいかない。 なぜなら、ミリーは、もっと多くの色んな人に注目して欲しいから。同僚を遊びに誘い、往年の西部劇を模した行きつけの酒場の主人と付き合い、アパートの住人たちとホームパーティを開く。 彼女は周囲の気を引こうとのべつ間も無く喋り続ける。自分のことを。仕事の愚痴を。映画の話を。時事問題を。

もっとも、周囲からは完全に浮き上がっているのだが。しゃべれどもしゃべれども、まるで周りは話を聴いてない、という形で。

内気なピンキーと、勝気なミリー。 このふたりの関係は当然、ぎこちなくなる。 当初な和やかだった部屋の中の雰囲気もどんどんギスギスしていく。

そしてミリーがホームパーティを主催したとき、決定的な事態が起きる。招待客が「今日は行けなくなった」と断りに来たのを、たまたま玄関口に立ったピンキーが独断で応対したのだ。 ミリーは客が来ないのを知らされて、「ピンキーが客を断ったものと」驚き、怒り、ピンキーに負の感情の矛先を向ける。 腹たちまぎれに「勝手にしろ、でてけ」と冷たい言葉を放つのだ。
緊張の最後の糸がプツンと切れたピンキーは魂消て、モーテル中央のプールに投身自殺を図ってしまう。

これでようやく尺の半分。もうすでに、お腹いっぱいだ。 しかし、悲劇とも喜劇ともつかぬ修羅場はまだまだ続くのだ。


ピンキーは壊れる。 ミリーは崩れていく。


幸い、ピンキーはアパートの住人たちの即時対応のおかげで、意識を取り戻す。 しかし、身元を引き取りに来た両親のことを「知らない人」とヒステリックに怖がる。一時的な記憶喪失に陥ってしまったのだ。 「ふたりの関係はそろそろ終わらせた方が無難だ」が、ミリーは引き続き「記憶が元に戻るまで」ピンキーを同居人として受け入れざるを得ない。

この恐怖の演技が、体育館で大量の血を頭から被った「キャリー」を彷彿とさせ、圧巻。

自殺をきっかけに吹っ切れたのか? 昏睡状態から復活したピンキーは「寝てる間に医者に××された」という妄想に取り憑かれ、自由闊達な女となる。
ピンキーは性格が陰気なだけで外見はカワイイ。たちまち酒場の亭主やアパートの住人たちの心を虜にし、周囲とのつながりをミリーから奪い取ってしまう。

この廻達さ、「キャリー」におけるパーティでのドレス姿&明るい表情を思い出していただければ腑に落ちるだろう。

ピンキーの生活の面倒見、ピンキーとの主導権争い、自身の整理解雇、とミリーのストレスは積もり溜まっていく。 そして「シャイニング」よろしく不安定な内面が現れてくる。

もともと真逆な内面をうわべだけで取り繕おうとする「矛盾」は、車に乗るときに必ずドアにドレスが挟まり 、切れはしがドアの下から覗く「ジンクス」に伏線として表現されていたことだ。

壊れているピンキーと、壊れていくミリー。
最後の事件で、ついにミリーの心はバラバラになる。 (そして治らない。)


とどめの一発。


酒場の主人にはウィリーと言う名の妻がいる(演:ジャニス・ルール)。彼女は一言もしゃべることなく、黙々と、爬虫類化のような、女性のような、不気味ななにかを絵を描き続けている。 キャンバスを、ある時はミリーのアパートのプールに、またある時は酒場裏手にある射撃場にと、屋外ところとわず求めて。
アーティストなのだ。

彼女は出産を控えていた。
ある夜、ギスギスなふたりのアパートに、酒場の主人が血まみれの姿で現れる。 彼は伝える、自分の銃が暴発したこと、そのショックで妻が産気づいたこと。
ウィリーと親しいふたりは、この時ばかりは意気投合し、救急車も忘れて酒場へと急行する。
放置された主人はそのまま衰弱死する。…死んだ男のことはどうだっていい。

現地に到着すれば、苦しんでいるウィリーが床に横たわっている。 ここぞとばかりに、ミリーは手腕を発揮し、自身はウィリーの介抱を行い、ピンキーには救急車を呼ぶことを指示する。
緊張からか、ピンキーは動けない。
ミリーはウィリーを励ます、赤ん坊の頭がそろそろ見えてきている。
ピンキーは動かない。
ミリーは苦しむウィリーを激励する、なかなか赤ん坊が顔を出さない。
ピンキーは微動だにしない。
ミリーは最後の一息だと励ます、赤ん坊がついに生まれる。
ピンキーは、動いていない。
ミリーは生まれたての赤ん坊を抱きしめる、しかし赤ん坊の声は弱く、かすれ、やがて、消える。
ピンキーは遠巻きに見るだけで終わった。 なにも、しなかった。

赤ん坊は死んでしまった。 絶望するミリーは、心落ち着かせようと外の空気を吸いに出る。 目の前には、突っ立ったままのピンキーがいる。
ミリーは「なぜ医者を呼ばなかった?」とピンキーを平手打ち。
ピンキーは弁解しない、涙を流しつつミリーを睨み返すだけ。
ミリーはその態度を、許さない。

かくて、2人の間は、仲の悪い母娘仲のような、憎み合う関係となる。
ミリーはピンキーを引き取る義務があるから受け入れる。それだけだ。


最後、ミリー、ピンキー、ウィリーの三人は死んだ男の酒場経営をそのまま引き継ぎ、その裏手に建ててあるコテージに一緒に住むこととなる。
三人の関係はまるで家族のようだ。 一番年長のウィリーを祖母とすれば、ミリーは母、ピンキーは娘。
娘:ピンキーは祖母:ウィリーを慕う。 祖母も娘には甘い。
しかし祖母と母、母と娘には、宿命以上のつながりは、存在しない。 ご飯ができたから呼び寄せる、その程度の薄っぺらいつながりだ。

かくして、ほんの好奇心から始まったルームシェアは、乾ききった奇妙な家族関係という形に脱皮して、映画は終わる。


イヤな映画を撮ったアルトマンは、どんなヒト?


ルームシェアという夢を覚めた視線で撮った監督はロバート・アルトマン。
けして、女性が主役の「こんな」イヤな映画ばかりを撮った訳ではなく(まして同性愛を嫌悪していた訳でもなく)戦争、西部劇、フィルム・ノワール、スーパーヒーロー、ハリウッドの内幕、ジャンルを問わず、なんでも撮った男だ。

その中でも、彼の映画づくりに一貫していたのは、つくりごとの世界を排除し,あるがままの情景や現実を写し取っていくという確固たる(そしてグロテスクな)意志。
だから、本作でもプロットは淡々と悪い方向へ向かっていく。 ルームシェアに夢などない、これが現実だ、という強い調子で。

一方で、オーバーラッピング・ダイアローグと呼ばれる音声の重複や、ズームやパンなどのカメラワークは妙に凝っている。 「これが現実だよ」そうグロテスクに強調するかのように。


終わってみれば、口の中がざらつくような妙な後口だけが残る。
最後に残るのは完全に関係が破綻した中で共棲する「三人の女」のみ。
残された本作の教訓は
ルームメイトは事前の審査を入念に行った上で決めること。 
スティーブン・キング作品に出てくる様な人間は勘弁。ミザリーは論外。 
…それだけだ。

本作の画像はCriterion公式サイトから引用しました

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