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起業、鬱、30歳で収入0…どん底から這い上がった“情熱”社長の半生

 人生、長い目で見れば全部ドキュメンタリー

 今の僕はそう思っています。結局、全部ネタです。あとで振り返った時に「この選択をしてよかった」と思えれば、それでいいし、笑い話になればオールオッケーです。

 でも、決して最初からそんなふうに思えていたわけではありません。

 正直な話、僕の人生は全部失敗だと思っていました。なんでこんなに不器用で、うまくいかないんだろう。なんでこんなに人と違うんだろう。

「なんで、なんで、なんで、、、」そうやって周りを羨んでは、他人や環境のせいにばかりしてきました。

 当時も僕のことを信じてくれた人もいたはずだし、大切に思ってくれてる人もいたにもかかわらず、すでに持ってるものがあったことに気づかず、外にばかり答えを求め、自分のことをなかなか受け入れることができませんでした。

 でも、今僕は僕が大好きです。毎日本当に楽しんで生きています。

今の僕は株式会社ROXXというベンチャー企業で、会社員としての顔も持ちながら、それとは別に30歳から7年間、今も現在進行形で大学生を中心としたキャリア相談や就活支援を行っています。

 そんな彼らとの出会いを通じて、自分が生きている意味、存在する意味を見つけることができました。

 人より少しだけスパイスがきいた、クセのある人生を生きてきたせいか、人の痛みや気持ちが昔よりほんのちょっとだけわかるようになりました。

 当時意味がないと思えたことも、失敗だと思っていたことも、苦しんできたことも意味があったんだな、とそう思えるようになりました。

 「お前は人より遠回りして、苦しんで、でもそれを乗り越えて、これから先も人の痛みや気持ちがわかる、そして同じような状況にいる人たちに勇気や力を与えられるそんな人でいなさい」

 宗教や何か特別なものを信仰してるわけではありませんが、「大きな何かに導かれてるな」「きっとそう言われてるだな」とそんな風に考えながら日々生きています。

 正直、コロナの状況もまだまだ先が見えません。今まさに苦しい状況にいたり、これから先のことに不安を抱えていたり、自分の存在意義が分からなくなったりしてる人もきっといると思います。

 いきなりかもしれませんが、こんなタイミングだからこそ、そんなあなたに僕の半生をお話したいと思います。

 僕は、中学1年生の時に父親の会社の倒産から一家離散を経験しました。運命的な出会いがあり、大きい志を持って就職したものの、成績は最下位からのスタート。

 リスタートする機会をもらい、ひたすら行動した結果、トップ営業になって部署を任されるまでになり、そこから初めての起業をしますが、失敗に終わり、そこで鬱を経験します。

 もう一度転職活動を始め、強い想いを持って外資系保険会社に入ったものの、ひたすらサボり副業にばかり力を入れていました。 

 最終的には、自分の存在意義がわからなくなり、本業、副業、両方辞め、30歳で無職・無収入という人生のどん底を味わいました。

 30歳にして無職・無収入って、改めて文字にするとちょっとヤバいですよね。まさか自分もそんな30歳になってるとは想像してなかったのですが。

 でもこんなヤバい奴がいるなら、自分はそれよりはちょっとはマシか、と笑ってくれれば、そしてちょっとでも元気になってくれれば、こんなに嬉しいことはありません。

 『佐々木 英雄』という、一人の男の半生を赤裸々につづりたいと思います。

【13歳~20歳】父の会社の倒産、一家離散へ

 僕が小学生までは、順調な人生を送っていましたが、ある出来事が今後の人生に大きく影響を与えます。

 それは、父親の会社の倒産です。僕が中学1年生の頃です。それまでの生活が一瞬にして変わりました。正直な所、僕も当時のことをよく覚えていません。人間、本当に辛くて怖い経験は、忘れてしまうようにできているのだと思います。

 そこから父親を「家族をバラバラにした張本人で、親戚一同にも迷惑をかけた人」という認識で見ていました。一家離散してから父親と暮らしていましたが、当時父親は睡眠時間3~4時間くらいで、昼も夜も仕事をしていました。それは食べていくために…です。

 夢や理想はなく、食べるためだけに、生活するためだけに働く。そんな働き方です。そのころの僕はその様子を見て「こんな人間には絶対にならないぞ」という強い思いを抱いていました。それがどんなに大変なことだったのかも分からずに…。

 父親への認識が変わったのも30歳過ぎて、2回目の起業を経験し、ようやく落ち着いて話せるようになってからです。

 仕事も全て失い、家族もバラバラになってお金も失って、決して給与が高いと言えない仕事をするしかなく、夢なんて持てない、しかも1日3〜4時間というわずかな睡眠時間で自分たちを食わせるために働いてくれてた。これがどんなにすごいことだったのかというのを、今になってようやく理解しました。

■高校受験で失敗、大学ではなくフリーターへ

 高校受験では絶対に公立に行かなければなりませんでした。僕は3人兄弟の長男で、下に2人の妹弟がいたからです。しかも父親の会社が倒産し、家にお金はないのです。選択肢は1つしかありませんでした。

 しかし、現実は残酷でした。結果として公立には落ち、私立の進学校に行くことになり、親が汗水たらして稼いでくれたお金を、無駄に使わせてしまうことになります。

 大切なお金を無駄に使わせてしまっていると感じた理由はシンプルに「ここまでして学校に通う意味は何なのか?」「なぜ勉強をするのか?」というそもそもの目的が全くなかったからです。

 「周りが進学するから、進学しなきゃいけない。それだけのためにお金を使わせてしまっている。」と、そんなことばかりずっと考えていました。

 毎月たくさんのお金を使わせて、そこまでお金をかけてもらっていても、自分の中に勉強する意思は全くなく、当時はどれだけ考えてもその意味を見出せませんでした。

 進路選択も同様です。僕が通っていた高校は進学校だったので、みんな当たり前のように大学へ進学します。ただ、当時の僕は「もし大学に進んだとしても大学4年間で数百万円の学費を使わせる意味はないだろう」と考えていました。

 なぜなら、すでに高校生活が全く意味をなさないものになっていたからです。

 周りの友達に「なんで大学行くの?」と聞くと、「みんな行くから」「行ったら何かわかりそうだから」という返答が返ってきました。僕は言葉を失いました。

 「みんなは親のお金をなんだと思っているのだろう」「確かに僕の友達たちは、家にお金の余裕があるかもしれない」「でも本当にそれでいいのか?」僕はずっと疑問に思っていました。そうして、僕は大学に行かない決意を固めました。

 しかし、高校を卒業した後、就職して働いてるのかと思いきや、何をしていいか分からず、卒業してからはフリーターになっていました。親に対しても、周りの友達に対しても、偉そうに色んなことを思っていましたが、結局何もしていなかったのです。

 毎日夏休みのようなフリーター生活はそれはそれで楽しかったのですが、「本当にこのままでいいのかな…」と、心の中ではずっとそう思っていましたし、正直な話毎日不安でした。

 だからでしょうか。年々歳は重ねていますが、当時の自分と同じような思いをもったり、悩みを抱えている若い世代と会うと、気持ちが痛いくらいにわかります。

 それが結果として自分の武器になるとは当時1ミリも思っていないのに、です。人生って不思議だなって本当にそう思います。

 正直、人生に意味なんてありません。どういう意味づけをするかだけです。その意味づけや解釈が人の数だけある。そんな風に今の僕は考えています。

 長い目で見れば、人生全部ドキュメンタリー。結果、あとで振り返ると良かったと思えるようになるんです。僕がそうなってるくらいですから。

■人生を変える出会い 

 そのまま2年が経ち、その時も定職につくわけでもなく、バイトで食いつなぎ、バイトが終われば朝までフリーター仲間と遊びに行く、という生活を続けていました。

 しかし、20歳になったことをきっかけに、僕は仕事を探し始めます。20歳になった瞬間、周りからの見方が一変したのが一番の理由です。

 これはこのあとも続くのですが、僕はつくづく周りに行動するきっかけをもらえないと動けない人間なんだなと思いますし、世の中結構そういう人の方が多いのではないかとも思います。

 性善説、性悪説、様々ありますが、僕は性弱説こそが人間の本質であり、だからこそ、仲間や環境、そして繋がりが必要なんだとそう思っています。話が少しそれました。続けます。

 家族からは「ずっとフリーターを続ける気?」と言われ、当時付き合っていた彼女の親にも「将来はどうするの?」と心配されるようになりました。

 ただ、そんな状況から抜け出そうと決意しても、僕がしたことといえばコンビニの求人誌を立ち読みし、フリーペーパーを持って帰る、ただそれだけでした。

 その当時の自分はどんな会社を探していたかと言うと

⚫︎ お金が稼げる会社 ⚫︎ 定時で上がれる会社

 の2点です。要は、楽に稼げるかどうかってことばかり考えていたわけです。こんな条件の会社なんてそうあるわけないのですが、本気で探してました。今思うと甘々ですね。

 ただ、そんなある日のこと、いつもと同じようにコンビニで求人誌を立ち読みしていると、ある求人広告の年収例が目に止まります。

「19歳:月収45万円」

 僕は最初、意味が分かりませんでした。なぜなら、当時の僕のバイト代(※)の最高月収が15万円だったということ。それから自分より年下にもかかわらず、最高月収の3倍にあたる金額を稼いでいるという事実が信じられなかったからです。

※ 2000年初頭、福岡という地方都市で、高1の7月から初めてアルバイトを始め、当時の最低賃金645円からスタート。5年働いていたアルバイト先の時給は850円でした。

 僕は仕事内容も何も調べず、気付けば電話をしていました。そして面接をしてもらうことになります。

 この時、何も考えずに電話をした会社が、人生を変える出会いになるなんて、1ミリも考えませんでした。

 当時の僕はというと、「社会勉強になればいいな〜」「月収45万円の正体を知りたい!」という安易な考えだけを持って、面接に挑みました。正直今となると、その面接で何を話したかは全く覚えていませんが、今も一つだけ鮮明に覚えていることがあります。

 それは「目の前に現れた人が、めちゃめちゃかっこよかった」ということです。もう本当にカッコ良かった。

 後になって知ったことですが、その人は26歳にして九州支社長に任命され、月収300万円を稼ぐ優秀なビジネスマンでした。

 僕は会った瞬間、「この人だ!」と思いました。「この人のようになれたら人生が変わるかもしれない!」と、心の底からそう思いました。

 しかし、僕は「1社目でこんな良い会社に出会ったのだから、このままやっていれば、他にももっと良い会社に出会えるだろう」という理由で、そこで働くことを一回断りました。

 訳わからないですよね。でも、まさか一番最初からそんな運命的な出会いができるなんて思ってもいないので、他にまた答えを求め出した訳です。恋愛でもあるかもしれませんが、こういう人きっと多いと思っています。僕はまさにそうでした。

 そして、またコンビニで求人誌を立ち読みする日々を送りますが、1社目以上に心踊った会社は見つかることなく、1か月が経っていました。

 考えた結果、自分から断ったにもかかわらず、もう一度あの支社長に会うことを決め、なんとか面談をこぎつけ、改めて支社長に会いました。

 会って話を聞いてるうちに、やはり「目の前に座ってるこの人みたいになりたい!この人しかいない!」と確信し、その場でその会社に入社することを決断します。何をやってる会社か、どんな仕事か正直何もわかっていないのに、です。

 ですが、今振り返ると、この行動をとった自分を褒めてあげたいなとそう思います。確かに最終的な意思決定をするまでに1ヶ月以上かかりましたが、諦めずに食らいついて、そして自分の直感を大事にした選択をしたからこそ、今の僕があるからです。

 人から見たら「そんなことでよく決めたね」と思われるようなことだったかもしれません。そりゃそうです。何をやるのか、どんな会社かもよくわかってない訳ですから。

 でも自分が「これでいい」と思えば、僕はそれで良いと思います。なぜなら、世の中に僕は僕だけです。答えは外にあるのではなく、常に自分の中にあります。自分らしく生きるとは、そういうことだと思うんです。

【21歳~26歳】最下位からトップ営業へ、そして起業

■会社のお荷物の中のお荷物

 支社長に憧れて入社を決意し、入社して初めてこの会社が2年目のベンチャー企業で営業代行がメイン事業となっていると初めて知りました。

 また、その会社で働いている人もみんな若かったです。にもかかわらず、みんながみんな「起業したい」「社長になりたい」「絶対に年収1,000万稼ぐ」と言っていて、僕は本当に驚きました。

 なぜなら、僕自身も地元の仲間たちからもそんな言葉を聞いたことが一度もなかったからです。

 父親は起業して、社長だったにもかかわらず「自分で会社を作れるんだ」ということすら忘れていた当時の自分からすると、一気に世界が広がった瞬間でした。 

 さらに衝撃だったのは、月に一度行われる全社会議の光景です。というのも、僕が所属していたのは九州支社で、他にも大阪と金沢にもオフィスがあり、毎月本社のある大阪で全社会議が開かれるのですが、そこでは営業成績優秀者に直接、社長から給与が手渡しで渡されていたのです。

 ドラマの世界でしか見たことがない、机の上にお札が立つ、あの感じです。当時の自分は何も知らない20歳そこそこの若造なので、さらに衝撃を受けました。

「やっぱりここで間違いなかった」
「結果を出せば、本当に人生を変えられる」
「絶対に変えてみせる」

 しかし、その気持ちとは裏腹に入社して3ヶ月ほど経過しても、なかなか思うような結果がでず、どんどん居心地が悪くなり、自分と同じように結果を出せていない先輩たちとばかりつるみ始め、そして最終的にはその先輩たちと一緒にサボるようになっていきました。

 誰と一緒するか、どういう環境に身を置くかは、自ら選択できます。そしてそれが本当に大事なんです

 都合が悪くなると、楽な方を選択してばかりいた当時の僕は本当の意味で、それがわかっていませんでした。

 結果、僕らの空気が蔓延したのでしょう。九州支社は、業績が悪すぎて1年でつぶれることになります。そして、そういう状況でサボっていた僕は、その業績の悪い九州支社の中でも最下位でした。つまり、全社的に見ても最下位だった訳です。九州支社はつぶれました。

 ですが、会社としてはブレーキをかけるのではなく、さらにアクセルを踏むことになります。東京支社を立ち上げ、社長自ら東京に乗り込んで立ち上げるというのです。

 そして、そのメンバーを募集するという名目で、九州支社の社員一同は、社長と直接面談する機会をもらえました。その中に僕も含まれていたのですが、この面談も今思うと大きな転機になったな、と思います。

 当時21歳。今も忘れないですし、振り返ると感謝しかありません。

 社長と面談し、ひたすら説教され、ボロカスに言われて、その通り過ぎて何も言えず、ただただ涙しましたが、最後の最後に社長から「もう一度やり直す気があるなら、一緒に東京に行こう」と話をいただきます。

 自分のことを信じてくれる人がいる。諦めないでくれる人がいる。それがたった1人でもいいんです。それだけで人は強くなれます。

 僕は改めて入社時に抱いていた「人生を変えようと思って就職したんだ」という想いを再燃させ、会社のお荷物的状況から本気で這い上がりたいと思い直します。

 そしてそのためには、東京支社に行くしかないと思い、社長と一緒することを決断しました。

■東京支社に移り、トップ営業マンへ

 その東京支社で任された仕事は、飛び込み営業でした。その時の自分は「ここでやらなければ人生終わる」と本気で思ってましたので、ひたすら行動し続けました。

 具体的には、みんなが100件訪問するなら、自分は300件訪問する。周りがタバコ休憩で休んでいる時も、休まず走り続ける。

 全社最下位をひたすら死守してきた自分ができることは、とにかく量でカバーすること。それしかない。そんな当たり前とも言えることをただがむしゃらにやり続けました。

 その結果、当時扱っていた商材に関して、全国にある各代理店の部長クラスが1日5件取ったらすごいと言われていた中、1日20件という数字を出し続け、1ヶ月に354件の契約を取ることが出来ました。

 当時は朝8時に出社し、夜中の1時2時まで仕事をしていました。長時間労働を推奨するわけではありませんが、それだけ覚悟を持って行動しないと結果なんて変わりません。今はハッキリそうわかります。

 そうしてトップ営業マンへと上り詰めた僕なのですが、その頃から電話が鳴り響くことが多くなります。

 誰からかというと、お客様からではありません。東京含めた同僚や先輩社員からの電話です。

 「どうやったら件数を取れますか?」「数字を出すには何が必要ですか?」ということを、頻繁に聞かれるようになりました。

 この経験から、「結果を出せばすべてが変わる」ということを確信しました。

 結果を出せば、周囲の自分に対する評価も変わり扱いも変わる。何より一番の変化は、仕事そのものが本当に楽しくなったということです。

 そして、それまで自ら指揮をとっていた事業部から社長が離れるということで、誰が営業部を統括するかという話が持ち上がり、僕がその役割を任されることになりました。

 23歳で30名以上を束ねるマネージャーとなり、紆余曲折がありながらも、組織としても結果を出すことができました。(※この当時の経験と学びは別記事で共有したいと思います)

■初めての起業と待ち受けていたさらなる挫折

 こうして入社してから4年2か月が経つ頃、何と会社が黒字倒産します。僕の会社は営業代行を行っており、ずっと売上は挙げていました。

 しかし、自社の製品開発に経費をかけてすぎてしまった結果、商品を仕入れるお金が無くなってしまったのです。その結果、黒字倒産することになりました。

 僕は突然のことに動揺しましたが、当時の社長のご厚意もあり、キャリアカウンセラーや人材会社のエージェントから、とてもいい条件の会社を紹介してもらっていました。しかし、僕はこれを全て断ります。

 なぜなら、会社の尊敬する上司2人に、「一緒に会社やらないか?」と声をかけてもらったからです。

 会社に勤めて毎月安定した給料が入ってくるに越したことはないと思っていましたが、それとは逆に心の奥底では、「尊敬する上司2人と自分の力を試したい!」とも思っていたのです。

 結果、就職するのを断り、上司2人に乗っかる形で、25歳で会社を起こしました。これが初めての起業です。

 ただ、先に結果だけお伝えしておくと会社を立ち上げて半年も経たないうちに、自分1人だけ利益を出せなくなって、会社に居場所がなくなり、そして僕は鬱になりました

 当時僕らは、広告代理店として会社を起こしたのですが、世の中の社会情勢は、リーマンショックや金融危機が起きた頃で、それによって世の中の企業は広告予算をどんどん削り始めました。

 会社としては広告に金をかけている場合ではない、と考えだすようになり、今まで当たり前のように予算を落としてくれた取引先企業が徐々に減り始めます。コロナが発生した今の状況と近いかもしれません

 しかし、そういう状況でも上司の2人は、どこからか必ずお客様を確保し、予算を取ってきます。

 今となればわかるのですが、頭を使い、あらゆる手段を講じて、色んな企画や方法でお客様の心をつかんでいたのだと思います。

 ただ、残念ながら当時の自分にはそんな方法も提案力もありませんでした。

 当時の僕は、ただずっとがむしゃらに足や量で稼ぐ営業しかやってこなかったので、何もできなかったのです。

 しかも、当時は金融危機真っ只中です。無意識に市場のせい、環境のせい、サービスのせいにし、「何で自分だけこんなことになるんだ」とどこかでそう思っていました。

 結果が出ないのは仕方ない、自分は悪くない、と考えていたわけです。なぜそうなってしまったのでしょうか。

 今になって振り返ると、前の会社では、最下位からトップ営業になり、事業部を見る立場になり、組織としても結果を出すことができ、その実績が、心に油断や傲慢さを生み出していたのだと思います。

 完全に天狗になり、そして過去の成功体験に執着していた結果、変化することができなかったわけです。

 何より前職で取れたトップ営業という結果は、作られたものでした。僕は裸の王様だったのです。

 ただ、この経験は決して悪いことばかりではなかったと今は思います。

 自分が結果を出せて天狗になれたのは、社長や会社が環境や商品を用意してくれて、全てお膳立てがあったからこそ出せた結果なんだ、とこの時初めて気づくことができたからです。

 むしろ、もしこの機会がなく、ずっと勘違いしたままだったと考えるとゾッとします。 

 だからでしょうか。今のコロナの状況も、もしかしたら今までの自分ややり方や常識を見直すきっかけや新しい気づきを与えてもらう良い機会になるのではないかなとそう思います。

 皆さんきっと大変だと思います。本当の意味で、その苦しみや気持ちを理解することもできません。ですが、起きてしまったことは変えようがないんです。だったら、それを「どう捉えるか」しかないんだと思います

 残念ながら、当時の僕はただただ絶望し、何とかしようともせず、そしてさらに状況を悪化させてしまいましたが、皆さんにはまだ機会が残されてるんですから。

■社会から完全に存在が消える…

 こうして自分1人だけ利益が出せなくなります。その結果、元々はとても仲が良かった3人だったのですが、半年後まずは挨拶が完全に無くなりました。

 僕という存在が完全に透明になった瞬間です。そこから会話も無くなっていきます。結果、この社会から「僕」という存在が無くなりました。

 小学校低学年はいじめられていたこともありましたし、反対に高学年はいじめていました。今思うと、とてもひどいことをしていたと思います。

 しかし、この時、まだいじめられてる方がマシだ思いました。いじめられるということは、どんな形であれ「存在」が認められているからです。

 また、このような状況になると、体にも影響が出てきました。

 まず朝起きて体が動きません。目は開いていますし、全力で起きようと、体を動かすのですが、びくともしません。体がいうことをきかないのです。

 僕の心は「会社に行っても自分の居場所は無い。契約も取れないし、もうどうすればいいか分からない」と感じていたのだと思います。

 心が病んでしまうと、体にも影響するのだということをこの時始めて経験しました。そうして僕は、生きている意味を見いだせなくなっていました。

 ですが、こうなってしまった原因は、上司のせいでもお客さんのせいでも金融危機のせいでもなく、ただ自分に力や能力がなかっただけです。

 ここは本当に誤解しないでほしいと思います。当時は確かに勘違いしていました。本当に周りのせいだと思っていました。

 でも、この状況を生み出したのは、完全に自分のせいなのです。

 なぜなら、もし今の力や能力を持って、タイムスリップすることができるのであれば、きっと何とかするからです。

 そして、当時の上司2人のように、何とかすることができれば、僕の存在が消えてしまうということもなかったはずだからです。

 よく居場所が欲しい、認めて欲しい、と相談をもらうこともありますが、居場所は与えられるものではなく、自ら作るものだと思います。認めて欲しいというのも同様です。自ら動き、認めてもらえば良いだけです。

 もちろん時間がかかるでしょうし、それがいつどの段階で、というのは約束できません。

 ですが、このような相談や悩みを持ってるケースに共通するのは、当時の僕と同じく「やっていない」だけというのがあまりにも多いように思います。

 ちなみにですが、僕の場合、体に影響が出始めてからも「逃げちゃだめだ」と思い込ませ、なんとか通っていましたが、それからさらに半年ほど経っても状況を一向に改善させることができず、このままここにいたらもっとおかしくなると限界を感じ、最終的に会社を去りました。

 上司の2人からすると、逃げたように映ったのは間違いないと思います。しかし、当時の僕は精神的にだいぶ参っていました。

 ただ、今にして思うとそうなってしまってから「逃げちゃダメだ」と頑張るのではなく、その前にやることやっとけよ、と。そうしておけば同じ状況にはなってなかったよね、とそう思います。

 頑張っていない人はきっといないと思いますが、頑張り方を間違ってる人は結構多いように思います。それは当時の僕を含めて、です。だからこそ、皆さんには僕と同じようになって欲しくないとそう思います。

【27歳~29歳】僕は弱い人間

■ベンチャーしか知らない転職活動

 こうして僕は、3社目を探し、転職活動を始めました。学歴もコネも、お金すらない自分は、当時27歳。ここで頑張らないと本当にお先真っ暗だと思い、もう一度自分を奮い立たせました。

 人生で初めてまともに転職活動を行うことになるのですが、その際、僕は下記の3つの軸を持って活動を進めていました。

 ⚫︎ 与えられるのではなく、自分で取り組んで成長する環境がある
 ⚫︎ 経済の流れを知り、お金の仕組みが学べる環境である
 ⚫︎ 未経験の大手企業に行き、回っている会社の仕組みを知る

 そんな中、人材紹介会社のエージェントに紹介されたのが、某大手外資系保険会社の支社長でした。

 当時、保険には全く興味がありませんでしたし、何なら絶対に扱いたくないなくらい思っていたのですが、その支社長から話を聞けば聞くほど、3つの軸は一致していると感じるようになります。

 しかもその支社長は年収3千万円稼いでいるそうで、なおかつ、かっこよかったので興味を持ちます。

 ですが、当時は少し迷っていました。理由は「完全成果報酬型の給与形態」だったからです。

 これがずっとひっかかっていて、僕自身とても怖く感じました。

 外資系保険会社の給与形態をご存知の方も多いと思いますが、最初の月は25万円のお給料ですが、この固定給は月々下がっていき、半年後には0円になり、そこから先は完全に成果報酬という給与形態になるんですね。これが怖かったわけです。

 しかも当時の僕は、起業失敗直後ということもあったので、即答することはできませんでした。

 ですが、それでも自分の本来の目的である3つの転職軸は唯一揃っていて、踏み込めなかったのは給与のみだったので、「ここで腹をくくらなくてはどうする。人生変えるんだろ?あとはないんだろ?」と自分に言い聞かせ、その某大手外資系保険会社に入社することを決断しました。

 ちなみにですが、ここでお気づきになった人もいると思います。そうなんです。実はこれ、1社目の決断動機とほぼ同じなんです。

 結局、人の本質や根本なんてそうそう変わらないですし、最終的に僕は今、後悔ない人生を歩めているので、何かを選択する上で、そういう直感や自分の中で大事にしたいと思ったことを大事にするということが重要なんだとそう思います。

■ひたすらサボってた保険営業マン時代

 こうして、27歳から29歳まで某大手外資系保険会社でお世話になりますが、結果として、この間全く働かなかったのを覚えています。情けない話、人生で一番働いていなかったと思います。

 その理由はシンプルに放任主義だったことです。誰もお尻をたたいてくれないので、ひたすら自分に甘えていました。

 ちなみにですが、外資系の組織が全てそうではないので、ここも誤解しないでください。

 ただ、当時の僕の会社は、完全成果報酬の給与形態で、報酬に関していうと、やらなければ下げられるし、やったら天井なしで上げる、というものでした。

 そのためマネジメントについては、完全放置プレイで放任主義というスタンス。とりあえず、毎日朝の朝礼だけあって、そこからフリーの時間になり、各々自由に営業活動を行うというやり方でした。

 1社目のベンチャー企業では、上司とのロープレや研修も頻繁にあり、業績結果についても、日々細かい(今の言葉でいう)1on1が頻繁に行われていたため、大きな違いを感じていました。

 そんな中、当時僕がどのように働いていたかというと、入社して3ヶ月を過ぎたころには、朝礼が終わったらすぐに家に帰るか、もしくは漫画喫茶に行ってばかりいました。

 「人間は性弱説である」と述べたばかりですが、この時の僕はまた同じことを繰り返していたのです。情けない話、成長してるようで一切成長していなかったのです。

 そんな僕は、放任主義の組織で、全く行動しませんでした。

 もし当時の僕のまま、今のコロナ禍でリモートワークに切り替わっていたとすると、これまたゾッとします。

 最初は「人生変えてやる!」と燃えていたにもかかわらず、保険の営業マンは嫌われやすいということも重なり、徐々に熱意もなくなっていきました。

 熱意がそうそうに失われた理由はシンプルです。結果を出せなかったこと。そうです。2社目の起業した際と同じです。この点においても僕は、同じことを繰り返していました。

 当然そんな状態ですから、数件は契約を取っていましたが、固定給は減額されていくばかりで、全く食べていけません。

 それでどうしたのかというと、仕事に力を入れて、商談件数を増やしたのではなく、プライベートで飲み会やコンパを開きまくりました。

 本業には全く力を入れず、他で小遣い稼ぎをしていたのです。昼間はさぼりにさぼり、夜の副業に力を入れる、という生活がここから始まります。

 結果として、当時やっていた副業で今のビジネスパートナーとも出会えたので、無駄なことはなかったのですが、ここまできたら相当ヤバいですね。「何をやってるんだ」と今でも言ってやりたいです。

 ただなぜ、どちらか一方に完全に振り切ることもなく、ずっと中途半端な日々を過ごしていたのかというと、たとえわずかでも、本業からの収入が無くなったら、いよいよ生きていけなくなるんじゃないか、という恐怖があり、辞めるに辞めれなかったからです。

 最初こそ、何とかギリギリ二足のわらじを履いていましたが、本業はサボり続けていたため、当然稼げなくなっていきました。

 結果、夜の時間や深夜帯にバイトを掛け持ちするようになり、体力的にもキツくなっていきます。

 そして、そのうち、なぜ自分が今ここにいるのかが分からなくなっていきました。

 結果、掛け持ちしていた夜の時間帯のバイトも辞め、保険の仕事についても、首を言い渡される前に、自分から辞めました。

【30歳】そして人生最大のどん底へ

■無職・無収入のリアル

 その結果、僕は30歳にして、無職かつ無収入になりました。

 当時の僕は、移動するにも電車にも乗れず、100円のコーヒーすら買えない状況になり、借金をしなければ生活すらままならない状況でしたが、すぐに仕事を探し始めることはありませんでした。

 なぜなら、家で一人だったからです。仕事をしていなければ、出社義務はありません。しかも家の中は誘惑だらけです。

 ひたすら自分に甘い人間だった僕は、仕事しなければならない、稼がなければならないと、頭では分かっているのですが、一切行動を起こすことはありませんでした。

 「明日でいいっしょ、何とかなるっしょ」

 まさに「人間は性弱説である」というのを、30歳になってもなお、地で行っていたわけです。

 そうして無職の僕はクレジットカードを使いまくり、友人、知人、家族にも、お金借りまくって、周囲に多大なる迷惑をかけてしまいました。

 父親の会社の倒産から始まり、ここに至るまで、結構な失敗をしているのにも関わらず、最終的に30歳で一番のどん底に落ちてしまいました。

 ただこれらは全て自分で引き起こしてしまったものです。1人だったから、何も行動できず、ひたすらに無駄な時間を過ごしていました。

 ただ、周りはそれほど甘くありません。いろんなところでお尻に火がついたどころではなく、燃え盛っており、もういよいよなんとかするしかない状況になっていきました。

 これによってようやく行動を起こすことになるのですが、つくづく僕は、強制的に機会を与えてもらえないと行動できない人間だなと思います。

 20歳を迎えたこと。九州支社がなくなり、東京で再挑戦する機会をもらえたこと。1社目の会社が潰れたこと。鬱になったこと。夜勤が続き、身体がもたなくなったこと。そして、借金を繰り返し、多くの人に迷惑かけてしまったこと。

 本当に遅い気づきだったのですが、30歳にしてようやく、たくさんの人たちに迷惑をかけ、その結果として、改めてどん底の状況から、もう一度這い上がろうと真剣に思い直すことが出来ました。(※これらの経験を踏まえ、思うことがあります。それは目標設定についての話なのですが、これもまた別記事で投稿したいと思います。)

 そして、そこからこのどん底の状況を抜け出すために、自分には何が残っているか、真剣に考えました。

 僕には学歴はありません。お金も持っていなければ、守るべき家族もいません。よく切れる頭もなければ、新しいビジネスを生み出すこともできません。みんなが驚くような実績も持ってありません。

 そうして考えた結果、僕には、営業しか残っていないことに気づきました。

「営業の経験を使って、もう一度立ち直るしかない」そう確信し、覚悟を決め、重い腰を上げました。

 かろうじて某大手外資系保険会社時代に副業で行っていたイベントやパーティーで、個人事業主や社長さんのつながりも持っていたため、その人脈をフル活用し、「何か僕に売らせてくれる商材があれば売らせてほしい」と、いろんな人に相談して回りました。 

 その結果、大学生向けのビジネススクールを展開している方をつなげていただき、その方から「営業学びたい学生がいるから、そこで営業を教えれば?」と提案されます。

 ここでの大学生たちの出会いが正真正銘、僕の人生を決定づけた出会いになりました。

【37歳】現在の僕

 その後、僕は「株式会社しるべ」という会社を起こしました。

 「カッコいい大人を増やして世の中を変える」

 そのために「自らの力で道を切り拓く」、そんな力を身に付けてほしい、少しでもその手助けができれば…と思い、「道しるべ」という言葉から、ヒントを得て社名を付けました。

 …と、全て過去形になってしまっているのは自ら立ち上げた会社なのですが、創業者である僕自身がすでにこの会社から身を引いているためです。

 自ら立ち上げた会社で、代表である創業者がいなくなったにもかかわらず、今も会社はしっかり残っており、年間800名近い新規の学生が関わるコミュニティーに育ち、2022年を目処に年間3000名を超える日本最大の学生コミュニティーの実現も視野に入っているという、これまた通常では理解し難いことが起きているわけなのですが、ここでの話はまったお伝えできればと思います。

 あいも変わらず、僕は「お前は人より遠回りして、苦しんで、でもそれを乗り越えて、これから先も人の痛みや気持ちがわかる、そして同じような状況にいる人たちに勇気や力を与えられるそんな人でいなさい」を地でいく生き方は変わらないようです。

 またそれとは別で、冒頭述べたとおり会社員としての顔も持ち合わせているのですが、会社としては副業に対して全くNOがなく、柔軟な働き方ができるため、いったん個人になりましたが、今も変わらず学生のキャリア相談や就活支援は継続的に行っております。

 どう対応しているかというと、現在の僕は法人格をもたないため(今まさに3回目の起業に向けて準備を進めています。懲りてませんw)、学生と社会人のOB訪問アプリ「Matcher」というサービスを使って、今も学生と会い続けています。

 結果、2万人を超えるOB訪問先の社会人登録があるサービス内で(2020年6月時点)5つ星評価かつレビュー数3位という圧倒的な支持をいただいています。

 ここでお伝えしきれなかったことはまた追ってお伝えできればと思いますが、最後に1つだけよく聞かれる質問についてお答えしておこうと思います。

 それは「なんでヒデさんはそこまで本気になれるんですか?」という質問です。(ちなみに、僕は普段佐々木さんと呼ぶことを禁止しています。距離感が近い方が僕にとっては居心地がいいためです)

 これについて、別に大した意味はないんです。

 ただ、年代や学歴に関係なくとにかく出会う子ほぼ全て、と言っていいくらい共通しているのは「やりたいことがわからない」という悩みを抱えているんですね。だからでしょうか。他人事にできないだけなんです。

 想像してみてください。

 目の前に、明らかに親御さんとはぐれてしまって泣きじゃくってる小さな子がいるとします。

 同じようなシチュエーションで、目の前に明らかになんらかの持病を持っていて、苦しんでいるご年配の方がうずくまっているという場合でも良いです。

 さて、この時皆さんならどうしますか?声かけませんか?そこに何か根拠とか、動機とかいるのでしょうか?

 はっきり言って、僕はそんなのいらないと思ってます。困ってる人がいたら助ける。それでいいでしょとそう思います

 何が言いたいかというと、他人ですら、目の前で困っていたら、声をかけて助けるわけです。

 じゃあ、僕にとってほぼ毎日出会う悩みを持った学生やこれから社会に出る若い世代の子たちってなんなのかというとシンプルに「昔の僕」なんです。つまり、他人ですらないわけです。

 いよいよほっとけますかって話です。僕はほっとけませんでした。

 何より、彼らとの出会いがあったからこそ、今までの僕の人生に意味があったんだと思えるようになりました。

 僕の苦しみや痛みや失敗には意味があり、それは彼らの気持ちを誰よりも理解するためにあったんだと今ははっきり理解できるようになりました。

 つまり、僕にとっては、生きる意味であり、使命なわけです。だからやってる。別に難しくもなんともありません。

 何より、こんな僕でも必要としてくれる人がいるんだというのが毎日に彩りを与えてくれるようになりました。おかげで本当に毎日楽しく生きています。ありがたいです。

 確かに世の中には、自らの意思で、真っ先に行動を起こせる人も存在します。僕の憧れでした。

 ただ、残念ながら僕は全く違いました。

 僕は、ずっと強制的にやらされないと動けない人間で、常に誰かから機会をもらって、それでも動けないくらい、自分に甘い人間です。

 でも、だからこそ、今僕に関わってくれている学生には「まず行動しよう」というメッセージをずっと送り続けてます。それは、自分と同じようになってほしくないからです。

 そして、その言葉は今もなお、昔の僕に言い続けているんだと思います。

 今思えば、過去の経験は今の自分にとって大切なギフトであるように思います。(両親には本当に感謝しています。僕を産んでくれてありがとう)

 なぜなら様々なことを経験した僕だからこそ、人々に伝えられることがたくさんあると感じているからです。

 僕自身の人生をこうやって振り返ってみて、改めて、自分の力だけで切り開いてきたものは何もない、と確信しています。

 だからこそ、僕が受け取ったバトンをしっかり繋いでいきたいとそう思っています。

 ということで、これで終わります。長文ながら、ここまで読み進めていただき、ありがとうございました。お伝えしたとおりですが、こんな僕でも、今は毎日楽しく生きています。

 コロナの状況の中、まだまだ先が見えないトンネルにいて、光があるのかもわからない人ももしかしたらいるかもしれません。

 でも、そんなあなたに対して、もしここまでお伝えしてきた僕の経験が、あなたの行動を後押ししたり、勇気付けることができたのであれば、こんなに嬉しいことはありません。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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最後まで読んでいただきありがとうございます。



皆さんが最後まで読んでいただき、その反応があるからこそ、自分にとことん甘い人間でも継続することが出来ています。



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だからこそ、投資してくれた以上、それ以上の価値を還元できるよう、これからも本気で取り組んでいきます。僕と同じ失敗をしないでいいよう、これまでの経験をみなさんに必ず還元していきます。

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