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歌が下手になった。

5/31。日曜日。
福岡に引越して2ヶ月半が経過した。カーテンを未だに購入していないので、朝になると部屋が眩しい。ここのところ毎5:30に目が覚める。補足しておくと、洋室やリビングは外から丸見えだが、根城としている和室は障子が備え付けのため、何もかも丸見えな生活を送っている訳ではない。一応七階でもある。

この2ヶ月半は酷かった。隣室からの苦情が恐くてまともに歌も歌えず、シャワーの水圧が恐ろしく弱い為に風呂に入る度にくたびれていた。10分で済むものに1時間掛かっていた。風呂に入る事がとにかく苦痛だったので汗をかくようなこと(筋トレとか運動とか)は意識的に避けるようになった。清潔を保てない自分も嫌だった。この環境が憎くて仕方が無かった。嫌なことだらけで考えることも放棄して植物のように暮らした。時々身体に悪いものが食べたくなったりする事だけが人間的だった。

部屋は散らかっている。短絡的に解決しようとして購入する度にかさばっていくAmazonの包装が、捨てる為に、まとめる為に、先ずは開封する所で止まっているから、片付く筈もない。壁に遮音シートを貼り付けようとして失敗した養生テープが、リャンメンテープが、床に落ちたそれや吸音材が、時を止めたようにそのままになっている。精神衛生は最悪だった。何もしたく無かった。

自律神経が死んでいるな。と、ふと思い出した。何もかも憂鬱なのはそのせいだと。東京に住んで暮らして居た頃、身体を鍛えて、ボイストレーニングに通って、家で、スタジオで、ライブハウスで歌って居たのは紛れも無く自己実現だった。そのどれもが今の自分にはままならない、無力に堕落する過程の中で心が死んでいき、更にそれに慣れていく自分という存在に対する嫌悪感は止まない。曇天の空を眺めているようだった。歩き出せば今にも降り出しそうな、悪意に満ちた空だった。紛れもなくそれは俺自身の心だった。

幾ら悩んでも身体が不潔であっては意味が無いのだ。当然シャワーヘッドは変えたし、規格の合わないマイナスドライバーを二回東急ハンズに買いにいった。店員に事情を説明して、二回とも購入を止められた。買っても仕方がないから。不動産屋に管理会社の連絡先を要求するが、既読さえ付かない。このアパマンショップ西新店というのは早く潰れれば良いと思う。当たり前の様にレスポンスがない。だから強制的に対応を要求出来る電話ツールは無くならないのだ。そういう駆引きも含めてくだらない。

おかげですごく疲れた。何もできない。出掛けるのも、出掛ける為に準備するのにも疲れるから、出掛けることもなくなった。YouTubeの広告ばかり見ていた。虚しかったが、それが虚しい事だと気づくのにも時間が掛かった。誰かに聞いて欲しかった。でも、解決しなかった。家に帰れば、水圧の無い風呂場が俺を待っていた。悔しくて、浴槽を殴り付けたりもした。

およそ役に立たなくなった頭で、以前にも増して取れなくなった音程で、いまだに16ビートを刻めない右手で、馬鹿だなー。俺は。って思う事にも疲れて、もう何度目か分からないけど、解決しようって思った。東京にいた頃よく見ていた自己啓発の動画に触発されて、ノートに、今嫌なことを書き出していった。嫌な事の何が嫌で、何を何処まで改善したら許せるかを考えた。その為に何を何処まで犠牲に出来るのかを考えはじめた。自己実現の、入り口に立った。

問題は風呂場だった。もっと強くお湯が、もっと沢山のお湯が1度に出力されないと、汗をかく度に湯船を張る生活が永遠に続く事になる。身体を流したいと思う度に蛇口を捻り、Siriに20分をカウントしてもらう工程を永遠に繰り返すことになる。浴びたいと願う度、20分を、それから洗い終わるまでの40分を、捨て続けることになる。シャワーの水量が少なすぎてとにかく寒かった。浸かっていなけらば耐えられそうにない。頭にお湯を当てても、嘲笑する様にそこしか濡れない。全身を温めることは無理だった。濡らしている内に、そこ以外はすぐに冷めていく事をやめなかった。それが惨めで仕方なかった。泡を付ければそれを流しきるのには嫌になる程時間が必要だった。その間も冷めていった。襟足を流したと思ったらうなじと、肩と、背中へと泡は、薄く伸びる様にして広がった。いたちごっこの様に、一箇所ずつ洗い流しては、更にその下へ広範囲に伸びていった。頭皮の汚れさえ、洗い流せている気がしていないのに。そうしてまた頭皮を流す。時間を掛けて洗う内に疲弊する事が、際限ない暮らしの中で続く思うと心労は深刻だった。こんな日々が何時まで続くのだろうと不安は最早脳味噌にこびり付いていた。とても悲しかった。

こいつを何とかしたかった。シャワーヘッドはとっくに変えたが、もっと値段の高いものを買うべきか悩んだ。止水栓は最初から全開だった。不動産屋からレスポンスは無い。シャワーヘッドを変える事についての違和感は拭えなかった。要するにアレで水圧は上げられても、水量は上げられないのだ。そもそも問題は水圧じゃなくて流れてくる水の量だった。

我が家には巨大な給湯器(でくの坊)が付いている。そこで夜間に沸かされた湯を日中使う事になっている。一般的に、出力されるお湯の量は給湯器から出力されるお湯の量+温度調節の為の水の量である。おそらく、給湯器から出力される水量は部屋ごとに設置されたタンクに由来するので、温度調節用の水に絶対量が少ない。要するに、温度調節の水量を増やすことに可能性を感じた訳である。でくの坊の温度調節レバーを確認する。温度は低に設定されている。俺は最高の気持ちで温度を高まで引き上げる。引越して直ぐにこいつから出る熱湯で、やけどした事を思い出した。腹が立って、同じ事を繰り返させない様に温度を下げられるだけ下げたのだ。俺の推理が正しければ、これまでの水温でシャワーが温水を出力するにはこれまで以上の量の水を混ぜねばなるまい。俺の推論が正しければお湯がもっと出るようになる。シャワーで済ましたいものを毎回湯船をはらないで済む。風呂に入る度に悲しい思いをしないで済む。前向きに汗をかけるなら筋トレも運動もする。いくら汗をかいたって問題ない。衛生観念を引き下げてまで生き残るなんて出来ないのである。

強く、生きていきたいと思った。

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