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私が植林をする理由

Wakuwaku villagEのアクティビティの一つに、【One Experience One Seedling】というのがある。

日本人が、Wwvのプログラムに参加し、新しい経験·体験をしてわくわくする。

あなたのわくわくが一本の木の苗に。

海外で現地の人が植林。

仲間や地球を守る。

私の自然愛、自然を想う気持ちは熱い。

どうして熱いのか。きっかけはいくつかある。

①父がとにかく自然を愛している。

だから、子どもの頃からキャンプに行ったり、父の日曜大工のお手伝いをしたり、公園や植物園にお出かけも多く、外や自然が身近だった。

②国際協力がしたいと思った時、まず農業を学んだ。

人間が生きるのに欠かせない”食”。どこの国の人だって、赤ちゃんだって、みんな食べる。生きるために。だけど、生まれた環境や場所によって日頃食べるものや、食べられる量に差が生じる。それが納得いかなかった。カラダにいいものを、最低限安定して食べらるようにならないものか…そんな思いで国際協力科で農業の勉強ができる専門学校に行き、勉強をした。

その2年間、農業だけではなく、生物、自然保護や環境問題の勉強もし、更に自然への想い、愛が強くなった。

③恩師の存在

19歳の時、フィリピンミンダナオ島に4か月行った。ミンダナオ島の森の中で生活をした。その経験は本当に私に大きな影響を与えている。

水道も電気もガスもない。

井戸一つで料理、農作業、洗濯、水浴び。日本から持って行った懐中電灯は満月の日を除いていつもポケットの中。薪集めから始まる料理。

そこで出会った恩師、池田広志先生。

池田先生は、1971年、イスラム教徒とキリスト教が混在し紛争が絶えないミンダナオ島に渡り、農村開発リーダーの育成や、植林活動に励み、ミンダナオの星とも呼ばれた方。

”はげ山が広がるディポログ市郊外の山地で植林に着手し、その呼びかけに山村の住民も共鳴して植林に取り組み始め、木々が成長すると、ふるさとの土地を見限って、街に下りた人たちが、一人、また一人と戻ってきたのです。さびれた村に家が立ち並び、人口が500人を超えると学校や教会が建てられ村に活気が戻りました。池田先生はいつも人々の生活が豊かになるように、知恵を搾りだし、自ら実践の先頭に立っていました”(オイスカ誌より)

"1984年、福岡県青年の船に参加した20代の青年たち300人を前に、「フィリピンの山は、はげ山ばかりタイ。」「木がないけん雨が降ると川に土砂が流れ込み農業も出来んし、川が氾濫して海のプランクトンも死んで魚も取れん事なっとるバイ。生態系が壊れとると。」と博多弁で熱く語った。環境問題が取上げられることなど皆無の30年以上前から「遠回りに見えても、植林こそが国際支援のカギ」と語った。"という記事も見ました。

そんな池田先生が所長のオイスカミンダナオエコテック研修センターで私は先生と出会い、ご指導をいただいた。

とにかく、人に、自然に熱く、愛のある方だった。

まだまだ学びたいことはたくさんあったけど、私が滞在中に体調を崩されそのまま帰らぬ人となってしまった。

その後、私は池田先生のことを想わない日はない。迷ったり悩んだときは先生に助けを求めるし、「あずさ、がんばれよ」という声が聞こえてくる日もある。

Wakuwaku villagEを立ち上げて数日後、「あずさ、植林はせんとね?」と、ちょっと「おい、あずさ忘れるなよな!?」というニュアンスをも感じる言葉が聞こえた。

ハッとした。

人の生活も、人の心も、そもそも私たちが生きる地球も豊かにしてくれるのは植林だった。

と、反省しつつ思い出した。

私は、同じ命を持ち、同じ人間であり、同じ地球住民仲間がたくさんいることに目を向け、みんな平等にわくわくした日々を過ごせる世界になってほしいという願い、夢があるから、Wakuwaku villagEを立ち上げた。

その夢を叶えるには、植林からだ。ともう恩師は教えてくれている。

だから、わくわく&植林の活動をする。

今、SDGsが制定されたこともあり、少し世界が環境問題や社会問題に意識がいくようになっている。改めて、私も身近なわくわくと地球の今からを大切にしていく活動をしていこうと思う。そして、池田先生のように周りにこの熱さが共有でき、仲間が増えていくように愛を持って日々を過ごしたい。

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