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『いだてん』と「あり得たかもしれない」2020年

 僕は毎平日にメールマガジンを出している。今年で5年目になるのだけど、自分でもよく続けたものだと思う。僕の文章が載ることもあるけれど、どちらかといえば僕の仲間たちの連載が載ることが多い。手応えのある連載は、僕の会社(PLANETS)から単行本にまとめることもある。有名なところだと、落合陽一の『魔法の世紀』や『デジタルネイチャー』はもともとこのメルマガの連載で、それを本にしたものだ。そのメルマガで昨日、PLANETS創刊メンバーのひとりである成馬零一が連載で大河ドラマ『いだてん』を取り上げていた

 成馬はいう。〈宮藤は、異性ではなく、男同士で承認し支え合う“男の子たちの世界”を描いた。国や会社組織から放置された少年たちが自分たちだけの世界を作り、そこで自給自足することでポジティブな形で男の子を描いたのだ。(略)国にも会社にも女にも承認を求めず、男としての自分を男同士で祝福する物語を描ききったクドカンにとって、国家、政治、宗教といった自分たちを律する巨大な価値観は本来不要なものだ。しかし、『いだてん』ではそんなクドカンがオリンピックとスポーツという題材を通して国家や戦争といった巨大な物語と改めて対峙させようとしている。〉

 クドカンこと宮藤官九郎が1964年の東京オリンピックを取り上げた同作は、視聴率の苦戦が報じられているのだけど、僕は毎週楽しみに見ている。見ているのだけれど、ちょっと苦しいなと思うところもある。要するに、クドカンたちこのドラマの作り手は「国策」としてのオリンピックに、いまもこの国にはびこっている全体主義的な体育教育に対して(題材が題材だけに)距離を置こうとしている。明治45年、日本にとってのはじめてのオリンピックになるストックホルム大会への参加に反対する人々は「お国のための」「体育」教育を是とする。対して嘉納治五郎を中心とした賛成する人々は競技を「楽しむ」ことを目的とした「スポーツ」の素晴らしさを説く。こうしてクドカンは「体育」と「スポーツ」を切り離し、ナショナリズムとオリンピックを切り離そうとする。気持ちはとてもよく、わかる。わかるのだけれど実際にこの国の現代史は、現代のオリンピック受容は、そして進行中の2020年をめぐる状況は、オリンピックが国民的な英雄の活躍をテレビで見て視聴者が「感動」することで成立するものだということを証明してしまっている。残念だけれど、オリンピックは基本的にはそういうものなのだ。だからこそ、『いだてん』の偉大な挑戦を僕は応援しようと思う。

 かくいう僕も、オリンピックという題材に挑戦したことがある。
 僕の雑誌「PLANETS」vol.9(2015年2月発売)のテーマは2020年の東京オリンピックだった。
 僕ははっきりいってしまえばこの五輪招致には反対で、そして反対しているからこそ単に批判するのではなく僕らなりの「対案」を残そうとした。少しでも未来に残すものが多いオリンピックにするべきだと考えて、仲間たちと僕たちの理想の「2020年東京オリンピック」の企画案を発表した。開会式は過去の栄光を自慢するものではなく、こんな未来を手にしたいという理想を込めるものにしたい。近代スポーツにつきまとう、ナチス的な五体満足主義的な身体観をもっと多様なものにアップデートしたい。いろいろなアイデアを詰め込んだ一冊になった。

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 たとえばチームラボの猪子寿之が開会式や競技中継のプランを考え、乙武洋匡のオリンピック/パラリンピックの融合案を実現するために新しい競技の開発を試みた。それが僕らの「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」だった。

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 個人的にはとても手応えのある一冊になったと思う。反響もそれなりにあった。けれど、皆さんご存知のようにその後の東京オリンピックは、そのグダグダっぷりをとにかくあげつらって、スッキリするためのサンドバックになっていった。国立競技場しかり、エムブレムのデザイン然り。
 このオリンピックは1964年のそれとは明らかに違う。1964年の東京五輪は、高度成長を支えるインフラ整備と国土開発のための錦の御旗だった。瓦礫の中から立ち上がった敗戦国が、欧米列強と肩を並べる経済大国に成長するために物語のレベル(国威発揚)でもモノのレベル(インフラ整備)でも必要とされたオリンピックだった。しかし今回の2020年は違う。消去法で選ばれてしまったこの2020年の五輪に対して、この国の人々はまったくビジョンをもっていない。せいぜい「オリンピックが来れば景気が良くなるような気がする」程度のことしかない。「うっかり呼んでしまったオリンピックのダメージコントロール」が、来るべき2020年の実態だ。だからこそ、僕はただ文句をつけるだけではなく、ポジティブな「対案」を示すことにこだわったのだ。

 当時僕が考えていたのは、言ってみればオリンピックというテレビの中の他人の物語を「見る」だけではなく、自分も「参加する」ものにすることだった。画面の中のアスリートに感動し、みんなでひとつの同じ夢を見るのではなく、ひとりひとりが参加し、それぞれの、ばらばらの自分の物語を見つけるものにできないか。そうすることで、この国の社会に決定的に欠けている多様性をインストールする。そんな社会提案になっていればよいと考えた。

 ただ、今の僕の考えはちょっと変わっている。と、いうか他の方面から攻めてみようと思っている。『いだてん』の主人公たちはあくまで自分が「楽しむ」ためにスポーツをするのだという。しかし、オリンピックという題材は否応なく彼らに「同じ日本人として」という他人の物語を背負わせてしまう。『いだてん』を見ていると、彼らがぶつかっている困難がどうしても4年前の自分がオリンピックという題材に対して考えていたことと重なってしまう。そして、いまの僕はちょっと考え方を変えている。
 オリンピックをアップデートすることももちろん必要だけれど、その一方で僕はまずは自分が勝手に走ろうと思っている。と、いうかこの3年、僕は毎朝のように5キロから10キロ、走っている。単純に趣味として。タイムも消費カロリーも一切気にしていない。ただ走るのが楽しくて、3年以上続けている。そしてこの話は次回に続く。というか、むしろこっちが本題だったのだけど、長くなったのでここで終わる。そして次回は「走る」ことについて書こうと思っている。(続く)

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