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「旅」を「観光」から解放する ――『マタギドライヴ』の旅 #5

角館から秋田内陸鉄道に乗って、僕たちは阿仁へと向かった。夏休みのせいか車内は観光客で混み合っていて、その熱気の中でガイドのおばちゃんが慣れた調子で車窓の風景を解説していった。右手に見える山はこのように呼ばれていて、次の駅を過ぎると見えてくる田んぼアートは今年のコラボレーションしている『クレヨンしんちゃん』の野原しんのすけが描かれているとか、その類のことだ。おそらくは定番の、下手をすれば何十年も続けられたある意味「伝統芸能」的な解説だっと思うのだけれど、正直言って僕にとってはないほうがよかった。いや、暑い中一生懸命やってくれているオバちゃんには本当にご苦労さまだと思うし、その一字一句間違えず、そして淀みなくとうとうと喋る職人芸に感服もするのだけれど、まずそこで語られている「情報」ほぼウィキペディアのほうが詳しく、そしてこちらのほうが問題だと思うのだけれど、そういった既に構築された文脈を確認すること(観光)に、僕はまったく関心を抱くことができなかった(おばちゃん、ごめんなさい……)。

秋田内陸線に乗って、阿仁へ!
角館駅のホーム
車窓から


文句言いながら、しっかり撮りました。笑


しかしこれは実のところ大事な論点だと思う。僕たちは土地についての知識を求めている。それは間違いない。しかしそれは車窓から風景を眼にしながら得るべきものだと、僕にはどうしても思えないのだ。それは旅が終わり、家に戻ってから(もしくは出発前に)確認すれば十分だ。この瞬間でなければ成立しない体験は、その土地に触れること以上のものではないはずなのだ。いつでもそれを検索できる時代に生きているからこそ、現場では情報を付与されない体験に集中するほうが贅沢な体験になるのではないか……と僕は思うのだ。ただ、このオバちゃんの「伝統芸能」含めてこの土地の自然と歴史の一部だと考えるならばーー実際に愛すべき昭和の遺産としてこの解説を楽しむ乗客もいるはずだと考えるならばーーこの解説は全肯定することができるだろう。

そして僕たちは長いトンネルを超えて、阿仁の土地に近づいていった。トンネルを抜けると別世界が広がっている……というのは、ちょっと違う。むしろ大事なのは、そこが山を超えて入らなければいけない土地であることを体感することだったのではないかと僕は思った。「マタギ」という言葉の由来の一つが、山を「またぐ」という動詞にあるという。僕たちがこれから訪れるのは、山を「またぐ」ことでしか外界と繋がらない土地/「またぐ」ことでつながってきた歴史を持つ土地なのだ。

20世紀を席巻した、そして21世紀初頭のグローバリゼーションの波の中で大爆発している「観光」という制度は、おそらくいまターニング・ポイントを迎えている。史跡名勝の前で、通り一遍の解説を耳にして絵葉書と同じアングルで写真を撮ることに、しっかりものを考える力をもった現役世代は徐々に背を向けつつある。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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