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いつか、空気を読まないために――吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』 (PLANETSアーカイブス)

今朝のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(吉田尚記)論をお届けします。「空気を読めない」といつも怒られている僕たち(?)に対して、その対処法を解説しベストセラーとなった、よっぴーさんの『なぜ楽』。そこに隠された「一番大きなメッセージ」を読み解いていきます(初出:『ダ・ヴィンチ』2015年4月号) 
※この記事は2015年4月22日に配信した記事の再配信です。

▲吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか

 ニッポン放送のアナウンサー・吉田尚記と知り合ったのは、一昨年のことだ。僕がニッポン放送の深夜番組(『オールナイトニッポン0』)を担当していたとき同社の偉い人が、僕と気が合いそうな男がいると紹介してくれたのだ。それまで僕と吉田はお互い相手のTwitterのアカウントはフォローしていたが、これといって交流はなかった。向こうがどう思っていたかは知らないが、僕のほうはどこからともなく流れて来た彼のtweetの内容、たしか彼のメディア論というか、ラジオ論のようなものが気になってフォローしたのだと思う。
 その後、僕と吉田はニッポン放送で顔を合わせるたびに雑談を交わすようになった。しかし決定的に仲良くなったのは、彼が僕を彼の主宰する対談イベント「#jz2」に呼んでくれたことだと思う。ここで僕と吉田はメディア論、特にラジオ論とソーシャルメディア論で白熱し、有り体に言って意気投合した。そして気がつけば吉田は僕のメールマガジンやインターネット放送の常連出演者(もちろんアナウンサーとしてではなく、いち「論客」としての登場だ)になり、いまでは月に一度は何らかのかたちで議論している。
 だからほとんど当たり前のように、吉田が二冊目の本を出版することになったとき僕のところにLINEでゲラが送られて来て、そして当たり前のように販促のコメントを僕が書いて、当たり前のように出版記念イベントに出演することになっていた。
 しかし、今回僕が同書『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』について取り上げようと思ったのはそれが吉田の本だからではない。この本は同時代の物書きとして、しっかりアンサーしなければならない本だと感じたからだ。
 
 本書の概要を簡易に説明しよう。吉田は同書をどちらかといえばコミュニケーションが苦手な「コミュ障」のための本だと位置づける。吉田はいう。自分は本来まさにその「コミュ障」の典型例であると。しかし自分はうっかりアナウンサーという職業に就いてしまった。そしてその結果、コミュニケーション力を「学習」することになったのだ、と。吉田曰く、同書はコミュニケーションという「ゲーム」の攻略本である。ここでいう「コミュニケーション」とは要するに個人的な会話を通じた社交術のようなものだと思えばいい。
 幼少期から「もっと空気を読め」と言われ続けて、そしていまも何かのきっかけで場違いな食事会に呼ばれてしまうたびに気まずい思いをしながら早く帰りたいなと考え続けている僕にとって、同書は仕事を忘れてページをめくることのできる実践本でもあった。
 たとえば同書で吉田はコミュニケーション力を、「空気を読む」力を、雑談という視点から説明する。いわゆる「コミュニケーション力の低い」「空気の読めない」(僕のような)人間は「雑談」ができない、いや雑談に興味が持てないのだという。僕らのような人間はつい、日常の何気ない会話にまで目的を求めてしまう。自分の知的関心を満たしてくれる視点や、未知の情報を期待してしまう。もしくはそれらを相手に与える達成感を期待してしまう。しかし、それは、間違いだと吉田は言う。吉田は同書で「コミュニケーションの目的はコミュニケーションである」と断言する。そう、いま僕が挙げたようなコミュニケーションの「目的」は実は人間対人間のコミュニケーションではなくとも得られるものだ(人間対モノ、人間対情報、など)。人間同士のコミュニケーションでなければ得られないもの、それは会話が盛り上がることによって得られる高揚感でしかないのだ。
 コミュニケーションは原理的に自己目的化する──この理解は、古くは携帯電話のメール交換、現在においてはLINEなどのアプリケーション上での1対1のコミュニケーションを想定したショートメール交換を想定すれば分かりやすいだろう。こうしたサービス上で繰り広げられるやりとりの何割かは、確実に自己目的化している。「いまから行く」「○○をもってきて」といった目的のあるコミュニケーションと同じくらい、ここでは単に返信してほしい、「既読」をつけてほしいだけのやり取りが交わされているはずだ。ここで人間が求めているのはおそらく「承認」だ。決して積極的な尊敬や愛情ではないだろう。自分の存在をゆるく肯定してくれることの安心感を、ここで人間は求めているのではないか。だからこそ、こうしたコミュニケーションは家族や恋人ではない友人間で行われやすいのではないか。こちらが膨大なコストをかけずとも、小さな承認を返してくれる関係、ローコスト・ローリターンの承認を求める性質を人間は持っているのではないか。
 電子メールはこうしたやりとりとその過程を可視化してくれるわけなのだが、考えてみれば日常会話も同様だ。僕たちは会話のきっかけにほぼ無意識のうちに「今日は暑いね」とか、「こんな朝早くにお疲れさま」とか、他愛もない話題を用いている。もちろん、ここで本当に気温の高さを話題にしたい人間はまずいないだろう。ここで人間は、目の前の相手とこれからささやかな承認を交換して、ローコストに小さく気分よくなりたいというサインを送っているのだ。
 そして、僕のような「コミュ障」の人間にはこれができない。いや、正確にはこれが不快なのだ。特に関心が強いわけでもない人間と、特に関心が強いわけでもない話題をしてまで、小さく気分よくなんかなりたくない。そんな時間があるなら、家に帰って本を読みたい。ずっとそう思って30年以上生きて来たわけだ。(だから僕はいわゆる「飲みの席」というやつが大嫌いで、そのせいでお酒を飲まなくなったようなものだ。)
 しかしそのことで、随分と世の中が生きにくいのもたしかだ。僕が5年しか会社員を続けられず、目処がついた時点でフリーランスに転向してしまったのも、要は自分で能力的な適性がないことを分かっていたからだ。そして僕より3つ年上で、そして会社員をまだ続けている吉田はそんな僕らに、なるべくストレスなく「空気を読む」方法を解説している、というわけだ。
 吉田はいう。「コミュニケーションとは目の前の相手と一緒にゴールを目指す協力型のゲームだ」と。そう、コミュニケーションの目的がコミュニケーションでしかないのなら、そのゴールは「楽しく会話すること」それ自体でしかあり得ない。吉田はコミュニケーションが自己目的化する理由を、そしてコミュニケーションが協力型のゲームであることを解説した上で、「空気を読む」方法を伝授する。たとえば「聞き上手であること」がそれだ。コミュニケーションに「目的」が必要だと思っている僕たちはつい、中身のある会話をしなければと考えて、まずは自分から情報を発信してしまう。しかし、これは協力ゲームとしての会話としては悪手でしかない。特定の目的を強力に設定された情報発信ほど、相手に取って打ち返しにくいものはない。もちろん、相手がその話題をしたくて仕方がないと分かっている場合は違う。しかし、ここで問題となっている社交的な「雑談」では逆だ。ここで一番アンパイな配球は、聞き役に回ることだ。「今日は暑いね」といった類いの発言には、これといった中身はない。しかし、この一手が有効なのはこの種の発言が「これからあなたと楽しく、小さくお互い負担にならない程度に時間を共有したい」というメタメッセージを伴っているからだ。従って吉田はタモリのトーク番組におけるゲストへの定番の質問「髪切った?」こそ「神の一手」だと断言する。相手に(ゆるくポジティブな)関心をもっていることを伝えつつ、決して負担にならない程度のゆるいアンサーを、それもかなりの自由度で求める。これこそが、協力型ゲームとしての会話(コミュニケーション)における定石中の「定石」なのだそうだ。
 僕はこうした吉田の展開するコミュニケーション論に、基本的に同意する。そして実際にこうやって社交的な「会話」のメカニズムを解説されることによって、コミュ障がこの種の中身のない会話を楽しむことができるようになるケースも多いのではないかと思う。ゲームとして捉えることで、本来楽しめない無目的な会話をテクニカルに攻略する=盛り上げることで(別の意味で)楽しめるようになる。そして、そのことが結果的に「コミュ障」の解消につながる。実際、同書で告白されているように吉田自身がそうだったに違いないのだから。僕自身、ああ、高校生か大学生のころにこの本に出会いたかった、という感想をもったことも、ここに告白しておこう。
 
 その上で、僕は思った。この本は、最後の最後で一番大きなメッセージを意図的に書かなかった本だ、と。もちろん、それは否定的な意味ではない。それはむしろ、吉田が書かないことで読者に伝えようとしたメッセージが、この本を強烈に支えていることを意味するのだ。
 
 同書は徹頭徹尾この社会は「空気を読む」という行為で成り立っていて、そしてその社会の成員である僕たちはこの「空気を読む」ことから逃れられないという前提で書いてある。たしかに僕もそう思う。コミュニケーションは原理的に自己目的化するものでしかないと僕も考える。もっと言ってしまえば、自己目的化したコミュニケーション、つまり関係性それ自体にも価値が宿ると僕も考えている。もしかしたら僕のほうが吉田よりも積極的に、美しい存在があるのではなく美しい関係性があるだけだ、と考えている側の人間であるとすら思う。たぶん、僕と吉田の世界に対する理解はほとんど離れていない。しかし、そこから先のアプローチはまったく違う。
 この本で吉田はいわば「どんな箱に行っても空気が読めるようになる」テクニックについて考えている。しかし僕は違う。僕は個人が選べる箱のバリエーションを可能な限り増やすことを考えている。
 たとえば僕は「いじめ」問題に対する処方箋はひとつしかないと思っている。それは「クラス」という箱をなくすこと、「クラス」という箱から逃げやすくすることだ。小学校低学年から授業選択制を導入し、児童には今より早い段階で「与えられた箱の空気を読む」訓練ではなく、「自分に合った箱」を探す訓練を積ませる。もちろん、ここには「自分に合わない箱とは距離を取る」訓練も含まれる。オールドタイプの日本人には、そんなことでは忍耐力のない子どもが増えるだけだと思われるかもしれない。しかし、それは考えが浅い。自分に合った箱を探すため、複数のコミュニティに接続しながら試行錯誤していくためには与えられた箱の空気を読むためのものとはまったく異なる忍耐と柔軟で強靭な知性が必要だ。
 吉田の分析と主張に、僕は完全に同意する。しかし、いやだからこそ僕はできることならば最初から空気なんか読みたくないと思うのだ。コミュニケーションのためのコミュニケーションに時間とエネルギーを使いたくないと思ってしまう。

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