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[特別無料公開]窓ぎわにトットちゃんはもういない(『水曜日は働かない』第2部第1話)|宇野常寛

本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の新著『水曜日は働かない』(ホーム社)から一部を特別無料公開してお届けします。
本書の第2部「2020年代の想像力」第1話で綴られた「窓際にトットちゃんはもういない」。黒柳徹子のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』を読んだ宇野常寛が、「規格外の個性」を排除しがちな今日の情報環境と、その居場所について思いを馳せます。

窓ぎわにトットちゃんはもういない(『水曜日は働かない』第2部第1話)|宇野常寛

 黒柳徹子がその少女時代を綴った『窓ぎわのトットちゃん』は、1981年に発売と同時に大きな反響を呼び、戦後最大のベストセラーのひとつに数えられている。その発行部数は累計800万部、世界35ヶ国以上で翻訳出版され、日本発の児童書の代表的な存在になっている。
 僕がこの本を知ったのは小学生の頃で、このうちの「畠の先生」というエピソードが切り出されて国語の教科書に載っていたことがきっかけだった。物語は、小学生のヒロイン(トットちゃん=黒柳徹子)が、小学校の授業の一環で近所の農夫から畑のメンテナンスを教わる、というもので、そこで披露されているエピソード自体にとくに心惹かれるものはなかった。もっと言えばちょっとひねくれた子供だった僕は、この本が教師に好かれるタイプの優等生がよく読書感想文の題材に選ぶ本であることを知っていて、なんだかしゃらくさいなと感じていたこともあった。だから僕はそれから30年と少しの間、この本を通して読まなかった。

 そんな僕がトットちゃんと再会したのは、もう2年半ほど参加し続けている勉強会に、リモート参加していたときのことだった。会を主宰する人物がこのコロナ禍における自宅待機とリモートワークの生活は、都会における疎開生活のようなものだと述べた。そのとき僕は、疎開というものについて一度ちゃんと考えてみたいなと思った。それは日常と非日常の中間にある、とても奇妙な時間のように思えた。普段の日常の生活とは確実に異なっている。しかし、旅のような一過性のものではない。それはいわば、終わりの見えない仮住まいのようなもので、その点においてこのパンデミック下の日常と似通っていた。そして、僕が疎開という言葉を聞いたとき、まっさきに思い浮かんだのがなぜかこの『窓ぎわのトットちゃん』だったのだ。担任の、僕のことが露骨に好きではなかった女性教師が、トットちゃんはこのあと戦争が激しくなって疎開するのだと述べていたのを、僕はずっと覚えていてそのことがふと頭に浮かんだのだ。
 そして僕はその夜にこの本を、スマートフォンでKindle版を購入して、一気に読んだ。

 未読の読者のために、かんたんにあらすじを紹介しよう。舞台は戦時中の東京、物語は高名なバイオリン奏者の長女として、裕福で文化的な家庭に生まれたトットちゃん(黒柳徹子)が尋常小学校を追われるところからはじまる。この尋常小学校でトットちゃんは問題児童として扱われていた。授業中に学校のそばを通りかかったチンドン屋を窓から身を乗り出して呼び込む。教室の机の、天板が蓋になっているつくりに感動して授業中何度も何度も開け閉めする。図画の授業で、画用紙からはみ出す部分を天板に直接クレヨンで描く。黒柳本人によれば、本書の出版後にこうしたトットちゃんの言動は学習障害の一種であるのではないかという指摘が相次いだという。今日においてはこの種の児童の言動を個性の一つととらえ、その個性に見合った指導方法が開発され、実践されている学校も少なくないはずだが当時の尋常小学校は対応不能と見做してトットちゃんを退学にしたのだ。もちろん、トットちゃんはその状況を理解できない。ただ、母親に新しい学校に移るのだと言われて、連れて行かれることになる。そして出会ったトットちゃんの新しい学校が、この物語の舞台となるトモエ学園だ。これは、今日で言うところのフリースクール的な側面を持つ私立の小学校だ。作中に「校長先生」として登場する小林宗作が、いまの自由ヶ丘学園の附属幼稚園と初等部を引き継ぐかたちで創設した学校で、彼がヨーロッパから日本に紹介したリトミックを基盤においた教育を実践することをコンセプトに掲げていた。しかし、トットちゃんにとって大事だったのは研究者としての小林の理論の実践として行われた音楽と体操へのアプローチではなく、むしろその児童ひとりひとりの個性を尊重し、多様性を愛する「校長先生」としての姿勢と、その結果生まれた今日の基準で考えても寛容で自由な校風にこそあった。
 この物語はトットちゃんのその自由で、ユニークな言動が読者を驚かせる物語であるかのようにはじまる。しかし、それはこの物語の半面にすぎない。この物語の残り半分は、そんなトットちゃんが小林のつくり上げたトモエ学園という楽園の魅力に次々と出会い、そしてそのことで少しずつ自分の世界を広げていく物語として綴られている。
 そう、いま通して読んで痛感するのは『窓ぎわのトットちゃん』とは、尋常小学校に居場所を見つけられず小学校低学年にしてその自由さ(近代社会においては「障害」と見做される)ゆえに世間の「窓ぎわ」に追いやられたトットちゃんが、トモエ学園にはじめて家庭以外の居場所を見つけていく物語であり、そして大人になった黒柳があの頃に「校長先生」が何を考えていたかを想像しながら振り返ることで小林宗作という教育者の横顔を描いた物語であるということだ。

 トットちゃんの通ったトモエ学園は、大正自由教育と呼ばれた欧米の自由性を重視するオルタナティブな教育運動の潮流を引き継いだ学校だ。実際に、21世紀の今日に改めて読むと、トモエ学園の先進性と、そのユニークなアプローチには驚かされる。
 まず校舎は払い下げられた鉄道の車両を運んできて、並べて使用している。この車両は教室、この車両は図書室とそれぞれ用途が決まっていて、児童はそこで授業を受ける。新しい校舎、つまり車両がやって来るときは、児童の有志が講堂に泊まり込んで、そしてトラクターが車両を運び込むダイナミックな光景を目撃することになる。
 授業もユニークで、担任の教師は朝に児童が教室に集まると、その日1日にやることを黒板に書き出す。そして、児童たちはそのうちの好きなものから、勝手に手を付けてよいと言われる。その結果、ある児童は本を読み、ある児童は絵を描き始める。基本的に自習が中心で、教師はその自習に手を貸していく形式が取られていく。
 昼食シーンも印象的だ。小林校長は、児童の家庭に対して「海のものと、山のものを持たせてください」とだけ通達する。そして講堂に全校の児童を集めた昼食時には、小林校長とその夫人がそれぞれの弁当を覗き込んで回り、「海のもの」と「山のもの」のどちらかが欠けていれば、それをその場で追加していく(小林夫人が作ったおかずが振る舞われる)のだ。
 そしてフリースクール的な側面の強いトモエ学園は、全校生徒が五十人前後と少ないにもかかわらず実に多様な個性を持った児童を受け入れている。小林校長の三女のミヨちゃん、おしゃれなサッコちゃん、わんぱくな大栄くん、東郷平八郎を大叔父にもつ「お嬢様」の税所さん、など個性的な児童が次々と物語に登場する。ちなみにトットちゃんの初恋の相手となる「泰ちゃん」とは後に世界的な物理学者として知られるようになる山内泰二のことだ。
 そして「どんな体も美しいのだ」と考える小林宗作は当時何人もハンディキャップを背負った児童を受け入れている。トットちゃんの学年にも小児麻痺を患う泰明ちゃんや身長が伸びない体質の高橋君といったハンディキャップを背負った児童たちが所属していて、物語に登場する。そして黒柳はトモエ学園では、その身体の条件が徹底して個性のひとつとして扱われていたことが強調する。もちろん、彼らはその身体に不便さを覚えている。しかし、トモエ学園にいる限り、彼らはそのことで引け目を感じることはない。たとえば、運動会は近代スポーツとはまるで異なる発想でつくられたユニークな競技ばかりで構成され、必ずしも身体が大きく、「健常」であることが有利に働かないように設計されている(その結果、運動会でいちばん活躍するのは前述の「高橋君」なのだ)。

 太平洋戦争の最中に、このような学校が存在し得たことに、いまさらながら驚きを禁じえない。それは、黒柳自身も後に強く感じたことのようだ。同書の後書きによれば、小林宗作は、自分の教育方針と「時局」との相性の悪さに十二分に自覚的であり、そのため極力新聞や雑誌などの取材を拒否していたのだという。トモエ学園は、戦時下の日本の中に例外的に存在した、隠されたユートピアだったのだ。実際に、大正自由教育の衰退は、昭和前期の戦争へと向かう「時局」の影響が大きかったという。

 そして『窓ぎわのトットちゃん』の結末はトモエ学園の焼失だ。1945年春──東京大空襲でトモエ学園は焼失する。そのとき、トットちゃんは家族と東北地方に疎開に向かう最中で、トモエ学園の焼失には立ち会っていない。代わりに、もうひとりの主人公である小林宗作が燃え上がるトモエ学園の校舎(講堂と車両たち)を前に、再起を誓うシーンで物語は幕を閉じる。「おい、今度は、どんな学校、作ろうか?」と、学校と同じ「巴」という名を持つ息子に語りかける。黒柳は『窓ぎわのトットちゃん』の末尾をこう結んでいる。〈小林先生の子供に対する愛情、教育に対する情熱は、学校を、いま包んでいる炎より、ずーっと大きかった。先生は、元気だった。〉──そして、後書きでは戦後に小林宗作が、併設されていた幼稚園を再建し、国立音大の保育科の創設や、同学のリトミック教育にかかわったこと、そして念願の小学校の再建はついに叶わず69歳で没したことが語られる。

 黒柳徹子にはもうひとつの自叙伝がある。『トットチャンネル』と題されたそれは、大人になったトットちゃんこと黒柳徹子が、黎明期のテレビの世界に飛び込む青春記だ。そして、そこで描かれるまだ産声を上げたばかりのテレビの世界がトットちゃんにとって、第二のトモエ学園になる。黒柳はN‌H‌Kがテレビ放送開始に合わせて募集した専属俳優(当時はそのような制度があったのだ)のひとりだ。このとき、それまでラジオを舞台に活躍していたN‌H‌K放送劇団は、翌年のテレビ放送の開始に合わせてテレビの生放送を念頭に置いた5期生の募集を行った。

 音楽学校の声楽科の、少なくともプロの声楽家になるレベルには達することのできなかった学生だったトットちゃんは、偶然見かけた新聞の募集広告をきっかけに両親に隠れてN‌H‌Kを受験する。黒柳にとって幸福だったのは、そのテレビという産声を上げたばかりの世界が、その未熟さゆえに彼女の個性を包摂し得たことだ。
 黎明期のテレビは、今日のような権威あるものではなかった。そこにテレビのプロといえる人々は基本的に存在せず、ラジオや、演劇、映画など周辺の分野の、それもどちらかといえばそれぞれの世界からいろいろな理由ではみ出して来た人たちが手探りで、見よう見まねでなんとか放送をしている……それが当時のテレビだった。テレビの受像機自体が高級品で一般家庭には手が出る類のものではなく、大きな喫茶店や街頭テレビに人々が群がるというよく知られた昭和の光景すら、まだ出現していなかった頃に、ほんとうにこの国のテレビが産声を上げるその瞬間に黒柳はテレビの世界に飛び込んだのだ。

 放送劇団の選抜試験で、黒柳はいわゆる優秀な受験生ではなかったという。筆記試験はぼろぼろで、ほとんど正解できない。音楽学校の声楽科の学生として、歌は並以上に歌えるがそれ以上のものではない。履歴書持参を郵送可と勘違いして送付して送り返される。実技試験では、指定されたセリフを普通に読んでいるだけなのに、面接官たちが大爆笑する(黒柳は自分の声と話し方が変わっていることに、当時全く自覚がなかった)。面接では、父親がテレビのような業界を志望すると嫌がるから受験していること自体を秘密にしているとバカ正直に喋ってしまい、すぐにまずいことを言ったと気がついてしどろもどろになりながら謝る。しかし黒柳は採用される。恐るべきことに今日にいたっても彼女にその自覚があるのか怪しいのだが、これらのエピソードから伝わってくることはひとつだ。当時のN‌H‌Kに集まった黎明期のテレビマンたちは黒柳の、自身では劣性であると感じている部分を個性として愛した、いや、「面白がった」のだ。黎明期のテレビの世界はトットちゃんの、「基準」から外れた個性を、社会のネジや歯車には絶対になれない規格外の部分を明らかに素材として「面白がった」のだ。

 こうして、トットちゃんは再び自分の居場所を手に入れたのだ。実際に当時の黒柳徹子という女優には巧みな技術はなく、その磨かれていないがゆえにナマのまま露出する個性で愛されていく。彼女の出世作はラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』という子猿の三兄弟の冒険を描いた児童向けのドラマだ。黒柳は同作でかわいいチビ助の三男のトン坊を演じた。同作は、今日では当たり前のことになっているが子役ではなく成人女性が男の子を「演じる」という試みがはじめて行われたことで知られている。そして、その試みの中核にいたのが特徴的な声質(黒柳は入局後に自分の声をはじめて録音して自分で聴き、その声質の特異さに「自分はこんな変な声だったのか」と絶望したという)と、無自覚に独特の抑揚で話す黒柳徹子という天然の個性だったのだ。
 同作に抜擢されるまでの黒柳は明らかに劇団の劣等生だったと思われる。実際に、当時の黒柳はいわゆるモブを演じては、目立ちすぎない演技と発話がどうしてもできずに降ろされることを繰り返していたという。基本的にすべての番組が生放送である黎明期のテレビ放送において、黒柳の常にそわそわと落ち着かない挙動は放送事故の温床以外の何物でもなかったのだ。しかし、生まれたばかりのテレビの世界は徐々にそんな彼女の天然の個性を発見していく。当時のテレビにとって、未完成も放送事故も日常茶飯事で、黒柳の規格外の個性がもたらすトラブルは問題……ではあったのだろうが、「大したこと」ではなかった。むしろこの時期のテレビという未成熟な世界で求められたのは、洗練されたものでなくとも人を惹き付けるもの、未成熟なままでもただカメラを向けるだけで人を惹き付けるものだった。そしてそれがトットちゃんの天然の個性だった。実際に黒柳は当時同僚や先輩から、変な話し方をするだけでいい仕事が回ってくると陰口を叩かれていたらしい。しかし、このエピソードはテレビというものの本質を表している。
 映画からテレビへ、テレビからインターネットへ──情報の自己完結性は下がり、代わりに双方向性が増大する。映画は完成された情報を観客が受け取るものであるのに対して、生放送中心のテレビの情報の完成度は低く、現場で起こっていることに常に影響を受ける。雨が降れば屋外のスポーツ中継は中断し、黒柳のようなそそっかしい役者がいれば物語の辻褄が合わないまま強引に生放送ドラマが終わることも珍しくない。また映画が一度劇場に足を踏み入れて、席に着いた途端に観客は孤独になり、ひとりスクリーンに向き合うことになるのに対し、テレビは街頭で、家庭で、多くの場合複数で同時にガヤガヤと談笑しながら視聴される。これはつまり、テレビは本質的におしゃべりの素材であることが求められることを意味する。映像技術は放送技術と結託することで、情報の自己完結性を低下させられる代わりに双方向性を獲得した(現代風に述べればシェアされるようになった)のだ。そして、このとき街頭の、お茶の間の談笑の素材として求められるのは、必ずしもプロフェッショナルの完成された演技ではなかった。むしろただカメラをそこに向けるだけで、食事や手仕事の合間に眺めていても、チラ見のひと目で分かる個性だったのだ。

 そして、当時のテレビは黒柳自身がそうであったように、こうした未成熟の、あるいは規格外の個性が集まる場所だった。『トットチャンネル』の事実上の続編である『トットひとり』には、森繁久彌、渥美清など黎明期のテレビを支えた「怪人」たちのエピソードが次々と紹介されることになる。彼らもまた、少なくとも黒柳と出会ったあの頃は彼女とその方向性こそ違えど十分に規格外の個性を持っていた。

 黎明期のテレビの世界は、トットちゃんにとってふたつ目の居場所だった。戦災で焼失したトモエ学園は、意外な場所に、意外なかたちで再生していたのだ。しかし、トモエ学園が戦争という巨大な暴力に蹂躙され、失われていったように第二のトモエ学園であるテレビの世界もまた、失われていく。
『窓ぎわのトットちゃん』の結末がトモエ学園の焼失であるように、『トットチャンネル』もまた楽園の消失で幕を閉じる。いや、それは正確には消失ではない。トットちゃんはそこが──テレビの世界が──実はトモエ学園とは違う場所であることに気づいてしまうのだ。物語の結末、黒柳は過労で倒れる。週何本ものレギュラー番組に加えて、イベント出演に雑誌の取材──若さの勢いに任せて片っ端からオファーをこなしていた黒柳はある日倒れる。病床で彼女は考える。このままでは、たくさんの番組に穴を開けてしまう。自分の至らなさで取り返しのつかないことになり、たくさんの人に迷惑をかけてしまった、と。しかしそれは黒柳の杞憂にすぎなかった。渥美清との夫婦役が人気のドラマでは、妻役の黒柳は所用で実家に帰っている設定が一言、渥美の口から語られるだけで物語はつつがなく進行した。司会をしていたレギュラー番組は、別の女性が何事もなかったかのように進行を務めていった。黒柳はその現実を、病院のテレビで目にする。そしてこのときはじめて、トモエ学園とテレビの世界との違いを知る。たしかに黎明期のテレビの世界はトットちゃんの規格外の個性を受け入れた。それを面白がり、愛してくれた人もいた。しかしテレビの世界そのものは、トットちゃんの個性を利用することはあっても、その存在を尊重することはなかった。トモエ学園の小林宗作校長がそうしたように、ひとりの人間として尊重することはなかったのだ。たしかにそこではネジや歯車のような規格にのっとった人間よりも、そこからはずれた個性が重宝されていたことはまちがいない。しかし、それはあくまで使い捨ての素材としての重宝だった。カメラを向けて、街頭やお茶の間のおもちゃになりやすい言動があればよい、としか考えられなかったのだ。それは規格外の個性が求められる部品にすぎなかったのだ。トットちゃんは、あれば重宝されるけれど、壊れてしまえばすぐ捨てられ、取り替えられるだけの部品にすぎなかったのだ。

 そして現在──テレビはどちらかといえば、個を抑圧するための装置になっている。僕は何年か前まで、あるワイドショーのコメンテーターを務めていた。そこは意見を述べると視聴者から必ず誹謗中傷を受ける、陰険な空間だった。もちろん、ワイドショーを見て出演者のS‌N‌Sに罵詈雑言を送りつける程度の人間にまともな見識があるはずがない。この種の人たちの能力で出演者の多くに「反論」することは不可能だ。では、どのような類の罵詈雑言が飛んでくるのかと言うと、まずは「死ね」とか「消えろ」とかいう類の人格否定であり、そして次に多いのが「(司会の)加藤さんがまとめようとしているのに、なんでお前は余計なことを言うんだ」という類のものだった。僕は毎週出演が終わるたびにこの類の罵詈雑言を無数に浴びていたが、後者については少し考えさせられるものがあった。要するにここで彼/彼女らはそもそもワイドショーとは、マジョリティの感性を先取りしてコメンテーターが発言し、視聴者が「共感」する快楽を味わうものでなければならないと述べているのだ。もちろん、番組の制作陣もそのことに自覚的だった。僕がとても苦手だったあるディレクターは「視聴者に寄り添う」が口癖だった。たとえばあるシングルマザーがネグレクトで子供を死なせてしまったような事件があったとき、僕はいつも具体的に再発防止のために何が必要なのかを議論すべきだと主張していた。ひとり親への経済的支援は十分だったのか、ネグレクトされた子供のサポートとして行政に必要なものはなにか。こういう議論にしか意味がないと僕は考えていた。しかし、いくら僕が抗議してもテレビマンたちはそのシングルマザーの交友歴や生活のさまなど、プライバシーを暴きたて、ネガティブに演出し、さあ、こんなひどい親が子供を殺した、いっせいにみんなで石を投げよう、そうすると自分は「マジョリティ」の「まとも」な側だと安心できるぞ、と号令をかける番組を放送し、それを視聴率という形で換金していった。そしてそんな番組の姿勢に僕が生放送中に疑問を示すと、視聴者たちが「お前はテレビに出るな」「空気を読め」と罵詈雑言を浴びせてくるのだ。「お前の意見は間違っている」というのはいくら言っても構わない。それは民主主義の基本となる行為だからだ。しかし「お前は意見を言うな」というのは民主主義を支持するなら絶対に言ってはならない、民主主義を根底から否定することだ。この程度の区別もつかない人々の卑しさに支えられて、個性も、多様性も、言論と表現の自由も抑圧する装置で積極的にあり続けるのがいまの「テレビ」なのだ。

 その後のトットちゃんは、黒柳はこの変質していくテレビの世界をどう生きていったのだろうか。『トットひとり』は既にこの世界から退場していった、彼女の仲間たちの物語だ。それは既に失われた豊かさを回顧するものとして記されている。少なくともそこがトモエ学園の再来ではないことを、いまの黒柳はおそらく正しく理解している。そして、黎明期の一瞬だけ成立したかに見えたユートピアが偽物であったことも、そしてその偽物のユートピアですら大きく変質してしまったことも、彼女は理解しているはずだ。

 そして僕は思う。いま、トットちゃんの居場所はどこにあるのだろうか、と。正確にはこうしているいまも日本中にいるはずの、トットちゃんのような子供たちの居場所はどこにあるのだろうか、と。
 小林宗作がトモエ学園を再興することなく亡くなってから約半世紀、その志を継いだフリースクールも学習塾も活動しているが、この国の公教育は根本的には変わっていない。ネジや歯車のような子供を養成するために、軍隊式の規律訓練を施し、与えられた箱(学級)の中の空気を読むことに長けた子供が「コミュニケーション力の高い」「協調性に富んだ」人間として褒め称えられる。そして、規格外の子供を周辺に追いやり、自分で自分に合った箱を探す能力の価値を教えもしない。
 ではその黎明期にトットちゃんの個性を、「素材」として受け止めたテレビの世界はどうか。そこもまた、前述したようにいまやもっとも積極的に規格外のものを排除するための装置に変質している。たとえば当時僕とワイドショーで共演していたあるコメディアンは、自分の容姿を小馬鹿にする視聴者たちに向けて積極的にその役割を演じることしか番組から求められていなかった。そして彼女も、そうすることで視聴者からの「好感度」を買っていた。そして、何が起こっても「そうですね、大変ですね」「由々しき問題ですね」「なんとかしてほしいですね」と事実上無内容なことしか述べられなくなっていた。そして、番組が毎朝提示する「生け贄」に対して石を投げるように、視聴者をソフトに促す役割を結果的に、しかし忠実に果たしていった。このような場が小林宗作の掲げた理想からもっとも遠い場所にあることはもはや説明の必要はないだろう。そしてトットちゃんは、黒柳自身はこのテレビの世界をどう生き抜いてきたのか。自分の個性を面白がり、居場所を与え、ときに使い捨てにされるテレビの世界をどう生き抜いてきたのか。
 70年代末からの黒柳は『ザ・ベストテン』『世界ふしぎ発見!』などの長寿番組へのレギュラー出演によって、その存在感を維持してきた(している)。彼女の個性は、半世紀以上に亘ってテレビの世界で「面白がられ」続けているのだ。しかし特筆すべきは、やはり彼女の活動の基盤となる長寿番組『徹子の部屋』だろう。同一司会者による最多放送回数のギネス世界記録をもつ同番組は2020年現在、放送45年目、放送回数11000回を超えている。僕が生まれる前から続いているこの番組を、僕は大人になってからはほとんど見たことがない。しかし、こうして黒柳の軌跡を追ってみて、ひとつだけ感じることがある。それは、この番組でトットちゃんは、黒柳は、彼女なりのやり方で小林宗作の遺志を継いだのではないかということだ。『徹子の部屋』に台本はない。黒柳の強い意向で、生放送ではなく収録番組であるにもかかわらずほぼ編集もされていないという。その結果、黒柳とゲストの会話が(大抵の場合は黒柳が無意識に行う独特の進入角度からのコミュニケーションによって)噛み合わないことも多い。そしてこの放送事故に限りなく近いコミュニケーションがこの長寿番組に程よい緊張感を与えていることは間違いない。そう、テレビが面白がった黒柳の規格外の個性が今日にもっとも活かされている番組が、この『徹子の部屋』なのだ。この番組には、噛み合わなさ(を許容する自由)がある。それは、「加藤さんがまとめようとしているのに、余計なこと言うな」と僕に予定調和のコメントを求めるテレビ視聴者のニーズとは真逆にあるものだ。僕はその息苦しさに耐えきれずに局との衝突を繰り返して、最後は決裂してしまったのだけれど、黒柳は他の誰よりも長くテレビに居場所を確保し続けている。それは、彼女の悪意のない噛み合わなさのもたらすもののはずだ。僕はあの頃最大限の悪意を持って、こんなもの(ワイドショー)を見ているとバカになるぞというメタメッセージを届けるために、内側からあの場を破壊することに執心していた。対して、黒柳の無意識のもたらすアプローチはむしろテレビの送り手と受け手を誰ひとり否定しないかたちで、予定調和を破壊する効果がある。そのため、黎明期から今日に至るまで、黒柳の悪意のない噛み合わなさは誰も傷つけない「事故」の供給源として、愛され続けてきたのではないか。
 もちろん、黒柳のアプローチにも限界がある。広く知られるように、黒柳徹子は報道番組への意欲を再三見せながら、今日に至っても実現していない。報道番組は極めて意図的に予定調和を破壊することでしか、有効な問題提起が難しい場所だ。報道番組では黒柳の悪意のない噛み合わなさは、偶然に問題の本質に議論を導くことはあっても大抵の場合は単に空回るだろうし(それはそれで見てみたい、と僕は思うが)、バラエティ番組やワイドショーとは異なり空回ることを面白がる視聴者もいないからだ。黒柳は多くの仲間たちと別れ、いくつかの自分にはできなかったこと──オペラの舞台から、報道番組まで──を諦めながらも、自分なりのアプローチでテレビという箱の中に自分の居場所を見出してきたのだ。そして黒柳の、ときにまったく噛み合わない、予定調和を排したコミュニケーションは結果的に今日のテレビにおいては貴重な、多様な個性を包摂する場であり続けているように思えるのだ。もちろん、実態はそう美しいものではないだろう。近年のゲストをざっと見渡しただけでも、放送局(テレビ朝日)の他番組の宣伝としてゲストが配される傾向は見て取れるし、黒柳の予定調和のないコミュニケーションのもつ、放送事故的な要素自体がもはや長寿番組化することで一種の予定調和として機能してしまっているのも間違いない。しかしおそらく黒柳自身は、いかなる個性も排除しない場としてあの「部屋」を維持しているはずなのだ。かつて、小林宗作がつくり上げ、そしていまは失われたユートピアがそうであったように、そして黎明期のテレビが彼女を(使い捨ての素材としてではあるが)面白がり、受け入れたように。それはもはや機能していないのかもしれないがあの部屋は、テレビという巨大な教室のかなり中心に近い位置に何十年も座り続けるトットちゃんが、窓ぎわに座っている子供たちを排除しない場として続けているもののように僕には思えるのだ。
 そんなトットちゃんの、黒柳の半世紀以上に及ぶ試みはテレビから離れた僕に問いかけてくる。かつてのテレビがそうであったように、インターネットの世界もいま、変質しつつある。そこで誰もが自由に、自分の意見を発信することができた時代は遠い過去のものになり、いまインターネットこそが、第二のテレビとして、いや、テレビの受け皿としてもっとも息苦しい場所になりつつある。閉じた相互評価のゲームの中で誰もがそのときどきのタイムラインの潮目を読み、問題そのものの解決方法の提示やより有効な問題設定ではなく、この問題にどう発言すると他のユーザーからの好感度が上がるか、だけを考えるようになっている。黒柳は結果的にかもしれないけれど、ひとつの部屋を設けて、小林宗作から受け継いだものをテレビの世界の、それも真ん中に近い場所で維持することを選んだ。僕は黒柳と同じ選択はしない。テレビとインターネットは本質的に異なるし、黒柳ができなかったことにむしろ僕の成し遂げたいことがあるのも間違いないからだ。けれど、僕は黒柳がそうしたように自分なりのやり方で、小林宗作が目指したものを引き継いでいこうと思う。

 トットちゃんは結果的にだけれども窓ぎわから離れて、教室の真ん中に座ることを選んだ。真ん中に、あらゆる人(ゲスト)を、窓ぎわの子供たちをも排除しない部屋(『徹子の部屋』)をつくることを選んだ。そして同時にその限界にも突き当たっているように僕は思う。だから僕はいま、どうすれば窓ぎわから外に飛び出すことができるかを考えて、ゆっくりと試し始めている。閉じた相互評価のゲームの中に部屋をつくるのではなくて、その網の目にどうほつれをつくるのか、外側に広がっていけるのかを考えて、試行錯誤しながら実践している。その試みが何かについては、「遅いインターネット」という僕の造語で検索してみてくれればいい。トットちゃんと僕とは方法は異なるけれど、たぶん実現したい価値はそれほど遠くない。そしてこうして、そのときどきの生まれ落ちた時代の条件にそれぞれの方法で粘り強く取り組んでいく姿勢こそ、小林宗作が子供たちに伝えたかったことなのではないかと思うのだ。
 あの日、焼け落ちる校舎を目の前にしながら、小林宗作は再起を誓った。そして「おい、今度は、どんな学校、作ろうか?」とその場にいた長男に語りかけた。この問いかけに、トットちゃんはこの半世紀、ずっと答え続けてきたのではないかと思う。戦災で学校が焼け落ちたなら、またつくればいい。テレビの世界が変質したなら、その中に自由な部屋をつくればいい。そして僕も黒柳がそうしたように、変質するインターネットの片隅に、いや窓ぎわに僕なりの「部屋」を、僕なりの方法で維持していこうと思うのだ。

[了]

▼プロフィール
宇野常寛(うの・つねひろ)

1978年生まれ。評論家として活動する傍ら、文化批評誌『PLANETS』を発行。主な著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)ほか多数。


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