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與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 〈一挙配信〉 第6回 身体への鬱転:1998-2000(後編)

「PLANETS note」創刊記念として、(ほぼ)毎週月・金曜に、與那覇潤さんによる連載「平成史──ぼくらの昨日の世界」を一挙配信中です。今回は、「第6回 身体への鬱転:1998-2000(後編)」をお届けします。
90年代後半、機能不全に陥った「父殺し」の原理を乗り越えるべく、新しい世代の批評家たちが次々と登場します。思想や批評の「情報化」が進む一方、政治の世界では公明党と共産党が、00年代の権力基盤を着々と準備していました。

届かない郵便

 政治を構成する表現から言語が退潮し、フロイト的な精神分析すらも無効になって、すべてが身体感覚を通じた同一化に埋没してゆく。最初にそうした転回を見抜いて危機意識をもったのは、おそらく『批評空間』を主宰していた柄谷行人氏でしょう。そもそも柄谷さんは1969年、選考委員の江藤淳に読ませたくて漱石論を投稿し、群像新人賞を受賞してデビュー。しかし『成熟と喪失』には「一つの図式に強引に推し込もうという意図」を感じ、「わりとシンプルに精神分析学を応用したと見られてしまう」として批判的に読むようになっていたと、江藤没後の福田和也氏(文藝批評家)との対談で語っています[25]。

 そうした柄谷さんの観点からすると、ベタなアイデンティティ論に寄りすぎてむしろダメになった「負の江藤淳」の後継者が、1995年に評論「敗戦後論」で護憲/改憲、戦前否定/肯定に引き裂かれた日本国民の自我の再統一をとなえた加藤典洋(連載第4回)でした。成熟を拒否するスキゾ・キッズだった浅田彰氏も同調して『批評空間』は大バッシングを展開し、個人のものである人格概念を「日本人」へと拡張して使う加藤の主張は、フロイトとは無縁で評論家の岸田秀をコピーしただけの「インチキ精神分析」だと罵倒します[26]。──ちなみに小林よしのり氏のほうは、「『戦争せずにすんでいる自分たちは汚れていないし、今後も絶対汚れやしない』という高所から『〔兵士だった〕祖父たちの死は汚れている』と評価する」「尊大な物言いだな」と苦言を呈しつつも、加藤さんの議論に一目置いていた節がありました[27]。

 しかし、それではいかにして身体化する政治に抗し、言語による批評が機能する場所を回復するのか。そうした問いを背景に『批評空間』グループからデビューしたのが、1998年に最初の著書『存在論的、郵便的』を刊行した東浩紀さんでした。東さんは当時27歳で、東大駒場の大学院に在学中。「私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めた」という浅田氏の帯もあり、東さんは一躍時の人となります。個人的には翌99年に駒場(学部)である授業を聴講したとき、教員のほうが得意げに「このまえ東浩紀に聞いたんだけど……」として『耳をすませば』の解説をしていたのが、当時の東さんの「権威」に接した最初でした。

 東さんの本の副題は「ジャック・デリダについて」。デリダは(浅田さんが依拠してきた)ドゥルーズと並んで難解なフランス現代哲学の頂点として知られ、それを鮮やかに読み解く手つきが注目を集めたのですが、いまふり返るとむしろ、真に注目すべきは同書が「精神分析の刷新」を志向していたことのように思われます。デリダの頻繁なフロイトへの言及を指摘した上で、東さんは以下のようにその意義を説明しています。

「まず最初に幼年期体験という『原版』がある。転移はそのうえで展開される『新版』『再印刷』である。欲動の痕跡がつぎつぎと重ね書きされるこのイメージにおいては、転移の出現は、その版下の単一性、つまり各人の固有性に規定され続ける。しかしいま検討した無意識の郵便空間への接続は、このイメージの維持を決定的に不可能にするように思われる。デリダ的転移=中継においてはむしろ、無意識は他者のエクリチュールに貫通されその固有性を脱臼される」[28]

 転移とは一般には「ファザコンの女性患者が男性の精神科医を好きになる」といった現象、つまり本人自身の幼少期のトラウマゆえに、本当に欲するものとは違うところに欲求をむけてしまう営為として捉えられます。しかしデリダ―東の理論では、それは違うというわけですね。無意識を書籍の原版のような、「大昔に一度だけ作られて更新されない、その人に固有のもの」として捉えるのは、じつは間違いではないか。むしろ周囲からの影響を受けて絶えず新しく書き込まれ、ユーザー相互のやりとりを通じてアップデートされてゆくデータベースのようなものとして、無意識はあるのではないか。

 他には還元しえない「固有なもの」に迫ろうとする思考の形態を、東さんは存在論的と呼びます。ちょっとわかりにくい命名ですが「『存在』とはそもそもなにか?」を問い続けることで、「この概念こそが人間の本質を決定的に表している、哲学の究極のキーワードだ」というものを発見しようと試みたハイデガーと、その影響下に文藝評論を展開した柄谷さんの立場を指すといってよいでしょう[29]。逆に郵便的とは、そうした「これ以上は疑いえない絶対的なもの」を突きつめずに、あらゆるメッセージがつねに想定外の読まれ方をする(=誤読・誤配される)状況を前提に思考する態度であり、「第二期デリダは後期ハイデガーより読みにくい〔のは〕……そこにキーワードがないからである」[30]。

 同書の刊行を記念した東さんの講演には、そうした視座の転換の意義がヴィヴィッドに語られています。たとえば1998年の当時、前年の酒鬼薔薇事件をモチーフにした文学と称して柳美里氏の『ゴールドラッシュ』がヒットしていましたが、「あそこに描かれている環境は酒鬼薔薇少年の環境とは何の関係もありません……主人公が、典型的なオイディプス・コンプレックスから父親を殴り殺す。これは、あらゆる状況が〔普通の郊外家庭の従順な子供が起こした〕酒鬼薔薇事件とは正反対です」[31]。ベタなフロイト型の精神分析ではもう説明できない時代が生まれているのに、既成の文壇や思想界の想像力が追いついていないというわけですね。

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