見出し画像

「オーストリア的」な知はいかに立ち現れたか〜ドイツ近代哲学との対峙の中で | 小山虎

「フランス哲学」「東洋哲学」と、国や地域の名前を冠した分類がある中で、「オーストリア哲学」もそのひとつ。現在は中欧の一小国ながら、かつての神聖ローマ帝国の後裔として、哲学や論理学の歴史上でも重要な位置を占めています。なぜ、オーストリアがそのような地位を得るに至ったのでしょうか。
19世紀のドイツ統一運動以降の中欧諸邦の大学制度と学派形成の流れを遡りながら、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人に通底する「オーストリア的」な思想のルーツを探ります。

知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第2回
「オーストリア的」な知はいかに立ち現れたか〜ドイツ近代哲学との対峙の中で | 小山虎

「オーストリア哲学」とは何か

 「オーストリア哲学」という言葉をご存知だろうか? 哲学では、「フランス哲学」や「東洋哲学」のように、国や民族、地域の名称を冠した分類がよく用いられる。「オーストリア哲学」もその一つである。とはいえ、この言葉を聞いたことのある人は専門家の中ですら、かなり少ないはずだ。ドイツやフランスといったヨーロッパの大国ならまだしも、オーストリアは人口一千万にも満たない小国であり、独自の言語があるわけでもない(主要言語はドイツ語である)。同じヨーロッパでも、例えばベルギーやポルトガルの人口はオーストリアより多く、一千万を超えているが、「ベルギー哲学」「ポルトガル哲学」という言葉が使われることはない。どうして哲学ではオーストリアが特別視されるのだろうか。その理由は、前回の連載でも少し述べたが、かつてのオーストリアが大国だったからである。

 オーストリアが大国だったということは多くの方はご存知かもしれない。かの有名なマリー・アントワネットはオーストリア出身であり、その母マリア・テレジアはハプスブルク家の支配下にある諸国を統べる「女帝」であった。また、オーストリアの首都のウィーンは、特に音楽では現在でも文化的な中心地の一つである。そう考えれば、オーストリアにもドイツやフランスと同じように「〜哲学」と称されるものがあることはそれほど不思議なことでもないように思われるかもしれない。だがじつは、「オーストリア哲学とは何か?」という問題は、なかなか複雑な背景を持つ答えにくい問いなのである。

 今回は、この問いを中心に、「オーストリア的」ということの内実を明らかにしていく。そのためには、しばらく世界史、そしてそれに翻弄されるドイツの大学制度と哲学について話をしなければならない。どうかお付き合い願いたい。

19世紀のオーストリアとドイツ

 時は1814年のウィーン会議に遡る。オーストリアによるフランス革命への干渉を機に、全欧州を揺るがすナポレオン戦争の猛威が吹き荒れたのち、ウィーンに列強首脳が集まり、戦後体制についての話し合いが行われた。しかし議論は遅々として進まず、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたことは有名だ。会議の終了は翌1815年。その結果、フランスではフランス革命で処刑された国王ルイ16世の弟、ルイ18世の即位が認められ、ブルボン朝が復活する。
 ウィーン会議の議長は、戦争による神聖ローマ帝国の解体を受けて1804年に成立したオーストリア帝国の外相メッテルニヒ。会議の結果、オーストリア帝国の版図は、現在のオーストリア地域に加え、ヴェネツィアを含むイタリア北部、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、そしてガリツィア(現在のウクライナの一部)まで広がることになり、当時のヨーロッパ諸国の中で最大の面積を持つ国家になる。
 オーストリア帝国の特徴は文字通りの「帝国(empire/imperium)」であること、すなわち、語源であるローマ帝国と同じように、複数の国家・民族からなる大規模国家である点だ。オーストリア帝国は、現在のオーストリア地域に以前から住んでいたドイツ人に加え、上述のように、イタリア人、チェコ人、スロバキア人、ハンガリー人、スロベニア人、そしてポーランド人(ガリツィアは1772年の「ポーランド分割」によってオーストリアの支配下に置かれる前まではポーランドの一部であり、前回の連載で登場したウィーンの数学者メンガーの父もガリツィア出身である)など、母語が異なる様々な民族から構成される多民族国家だったのである。ドイツ人は支配的な地位を占めていたし、公用語もドイツ語だったが、数の上では1/5程度に過ぎなかった。

画像4

▲オーストリア帝国の版図(1815年)(出典

 オーストリア帝国は、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国となるが、第一次世界大戦によって崩壊するまで、巨大な多民族国家として存続する。1900年代生まれのフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの幼少時とは、老いた大国オーストリア帝国の最後の時期だったのだ。

 ところで、当時のドイツはどのような状況だったのだろうか? 世界史に詳しい方ならご存知かもしれないが、19世紀の後半に至るまで「ドイツ」という国家は存在しない。「ドイツ」を冠する国家が世界史に登場するのは、1871年に普仏戦争で勝利したプロイセン国王がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を行うことで成立したドイツ帝国(帝政ドイツ)からである。つまり、我々に馴染みのある20世紀以降の歴史ではドイツという国家とオーストリアという国家が共に存在しているが、1871年までは国家としてはオーストリアしか存在していなかったのである。ただし、ややこしいことに、「ドイツ語」と「ドイツ人」はすでに存在していた。現在のドイツにあたる地域は長らく神聖ローマ帝国の支配下にあったが、帝国を構成していた諸邦のうち、方言の違いこそあれ同じ言語(ドイツ語)を話す人々の間では、みな「ドイツ人」だという意識があった。このことがのちにドイツ民族主義につながる。「ドイツ」諸邦は神聖ローマ帝国解体後に、「ドイツ連邦(German Confederation/Deutscher Bund)」という国家連合を結成する。オーストリアも、その中心地域(現在のオーストリアに相当する)の主な住民はドイツ語を話すドイツ人であったため、プロイセン王国やバイエルン王国、ハノーファー王国などと共に、当然のようにドイツ連邦に加盟する。だから、この意味では、当時のオーストリアはドイツの一部だったのである。
 ただし、オーストリアにはドイツ人以外の民族もいたことは忘れてはいけない。繰り返すが、オーストリアは巨大国家であり、その領域にはドイツ連邦外の地域が多数含まれていたからである。これはオーストリアだけではなく、プロイセンも同様である。当時のプロイセンには、現在はデンマークの一部であるホルシュタインなどドイツでない地域が含まれていた。ドイツ連邦結成の背景には「ドイツ人」たちの間で高まっていたドイツ民族主義があったのだが、プロイセンもオーストリアも、ドイツ連邦には加盟しつつも、国家としてはドイツ民族主義に従うわけにはいかなかった。なぜなら、ドイツ民族主義ではかつての神聖ローマ帝国領の外にある領土は「ドイツ」として認められないため、両国は領土のかなりの部分を失うことになるからだ。
 このように、19世紀中頃のヨーロッパには、主に「ドイツ人」が住む諸邦から成るドイツ連邦があり、オーストリアとプロイセンも加盟国だった。だが、この両国は連邦の外にはみ出した領土を持つ、という奇妙な状況だったのである。

画像5

▲ドイツ連邦の領域(1815年)薄い緑は連邦の外にあるオーストリアとプロイセンの領土(出典

 この奇妙な状況は、ドイツ帝国の成立で終わりを告げる。1866年の普墺戦争でオーストリアに勝利したプロイセンは、オーストリアが大きな影響力を持っていたドイツ連邦とは別に、オーストリアを除外し、ドイツ連邦外のプロイセン領土も含めた「北ドイツ連邦(North German Confederation/Norddeutscher Bund)」を結成する。すなわち、オーストリアがドイツでなくなる布石が打たれたのである。そしてプロイセンを中心とする北ドイツ連邦加盟国が構成国家となってドイツ帝国が誕生することにより、ドイツとオーストリアという二つの帝国が両立している、我々にとって馴染みの深い20世紀を迎えることになる。

画像6

▲ドイツ帝国(左)とオーストリア帝国(右)の版図(1914年)(出典左出典右

「ドイツ帝国」となったプロイセンの二つの中心都市

 さて、ドイツ帝国の成立によりオーストリアがドイツでなくなる代わりに、プロイセンのドイツでない領域の大半がドイツとなったわけだが、これはドイツ民族主義からすれば筋が通らない。しかし、これにはそうせざるをえない理由があった。

 プロイセンはオーストリアと対抗し、最終的にオーストリア抜きでドイツ人国家を誕生させるほどの大国であったわけだが、それはプロイセンが他のドイツ諸邦を様々な方法でその版図に組み込んでいったためである。もともと「プロイセン」とは、ドイツ帝国が成立する前のプロイセン王国の東の端、現在ではポーランドやロシアに属する地域のことだった。プロイセン王国の誕生は、まだ神聖ローマ帝国が存在していた1701年に、有力な帝国諸侯の一人であったブランデンブルク選帝侯フリードリヒ三世がプロイセン王として即位したことによる。ブランデンブルク選帝侯はそれ以前からプロイセンを支配するなど、帝国の内外で大きな政治的影響力を持っていたが、別の有力諸侯であるザクセン選帝侯とハノーファー選帝侯がそれぞれポーランド王、イングランド王として即位したため、彼らに対抗すべく、自らも王位をつくことを画策していた。ブランデンブルクは帝国の領土内であったため、「ブランデンブルク王」として即位するのであれば皇帝の許可が必要だったが、プロイセンはポーランドやイングランドと同様、帝国の外にあったため、「プロイセン王」であれば皇帝の許可が不要だったのである。
 このように、「プロイセン」は、もともとは「ドイツ」ではなかった(神聖ローマ帝国の領土外にあった)。だが、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン国王となり、そしてプロイセン王がドイツ皇帝となった。皇帝として即位するためには、その前に王として即位していなければならないが、「ドイツ」の外にある「プロイセン」がなければ、そもそも「プロイセン」王ではないし、「プロイセン」抜きの「ブランデンブルク」では王位に正統性がない。つまり、「ドイツ」でない「プロイセン」なしに「ドイツ」帝国は成立しえなかったのだ。
 こうした事情から、プロイセンには中心的な都市が二つあった。一つは、ブランデンブルク選帝侯が治めるブランデンブルク侯国の首都であり、プロイセン王国成立後にも引き続き首都となるベルリンである。現在のドイツも、プロイセン王国およびドイツ帝国の伝統を受け継いでベルリンが首都となっている。もう一つは、ベルリンに譲るまではプロイセン建国以来の首都だったケーニヒスベルク。そう、ゲーデルが不完全性定理を公表し、初めてフォン・ノイマンと出会ったあの会議が開催された都市である。プロイセン王国成立後のケーニヒスベルクは、いわば京都のように、プロイセンの伝統を象徴する古都だったのだ。

画像7

▲第一次世界大戦前のケーニヒスベルク城(出典

プロイセンの大学制度と哲学〜ヘーゲルとカントの学派形成をめぐって

 ベルリンとケーニヒスベルクはプロイセンの二つの中心都市だっただけではない。それぞれドイツ哲学を代表する二人の哲学者、ヘーゲルとカントと結びついている。ヘーゲルはいくつかの大学で教鞭をとった後、最終的にベルリン大学で教え、総長も務める。彼のもとベルリン大学で学んだ弟子たちはヘーゲル学派を形成し、彼の死後にすかさず全集を発刊するなど、ドイツ哲学に大きな影響を与えることになる。

画像8

▲ヘーゲル(出典

 カントとケーニヒスベルクの結びつきはそれ以上であり、伝説的ですらある。カントはケーニヒスベルクで生まれ、ケーニヒスベルク大学で学び、各地の大学からの打診を固辞してケーニヒスベルク大学で教鞭をとる。晩年にはケーニヒスベルク大学の総長も務め、ケーニヒスベルクで死去する。カントはとても規則正しい人物であり、いつも決まった時間に決まった行動をとっていたと言われているが、ケーニヒスベルクとの結びつきも、カントの人物像を伝えるエピソードの一つである。
 ベルリン大学とヘーゲルについてはもう少し語っておくべきことがある。当時のドイツの大学を取り巻く状況が関わってくるからだ。話をプロイセン王国の成立前に戻そう。ブランデンブルク侯国は学術的にも神聖ローマ帝国内で最先端にあった。1694年、まだプロイセン王になる前のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ三世は、世界的な研究機関となる大学としてハレ大学を創設する。ハレ大学に対抗すべく、ハノーファー選帝侯(のちにイングランド王になり、プロイセン王国成立のきっかけとなる)が創設するのがゲッティンゲン大学である。プロイセンもこれに対抗し、自国民が他国の大学に進学するのを禁じることで人材の囲い込みを図る。このように、神聖ローマ帝国を構成する諸邦は競って領土内に大学を設立し、研究を推進して人材を育てることで国力増大に勤めていた。ヨーロッパの初期の大学は、パリ大学やボローニャ大学のように自然発生的に成立したものが多く、またオックスフォード大学やケンブリッジ大学のように強く教会と結びついたものも多かったが、ドイツではもっぱら国家君主によって国力増強のために設立されるという特色があった。
 オーストリア帝国が巨大な版図を得ることになったウィーン会議は、ナポレオン率いるフランス軍に蹂躙されたヨーロッパの大国たちが新たな体制を決めるための会議だった。プロイセンもナポレオンに大敗しており、ウィーン会議で回復するまではかなり領土を失っていたため、国家再建のために大学改革に着手する。1812年、プロイセンはドイツで初めて大学入学資格を厳格化し、必要な試験を実施できる学校を「ギムナジウム」という中等教育機関として整備する。大学入試こそ別にあるが、高校卒業と同時に大学入学資格が与えられる我が国の制度も、プロイセンのこれを踏襲したものである。加えて、1850年に発布されたプロイセン憲法では、公務員、弁護士、教員、聖職者、医者など、公的な専門職に就くためには大学の在籍歴が義務付けられるようになった。これと呼応するかのように、1850年代以降のプロイセンでは重工業化が進み、経済的に大きな発展を遂げる。その結果が普墺戦争および普仏戦争での勝利と、プロイセンを中心とするドイツ帝国の成立である。この国家的大成功の背景として、大学教育の力が強調されたことは想像にかたくない。そして、国家に必要な人材を育成するための機関として大学を位置付けるプロイセンの大学制度が、ほぼそのままドイツ帝国の大学制度となるのである。
 ヘーゲルがベルリン大学の教授職就任の打診を受けたのも、ウィーン会議の後、1818年のことである。ベルリン大学自体は、プロイセンの大学改革によって1810年にベルリンの最初の大学として設立される。プロイセン政府の強大な資金とヘーゲルらの尽力もあり、ベルリン大学は多数のノーベル賞受賞者を輩出するドイツを代表する研究大学となる。ベルリン大学で教鞭をとった哲学者としてはヘーゲル以外にもショーペンハウアーやディルタイがいるが、哲学者以外でも、コッホ、アインシュタイン、シュレディンガーなど著名な科学者が多数含まれる。また、我が国から森鴎外や北里柴三郎が留学したのもベルリン大学である。
 一方、カントはヘーゲルと違い、たくさんの弟子を育てて学派を形成するということはしなかった。カントが死去するのは1804年、プロイセンがナポレオン率いるフランス軍に大敗して危機に陥るよりも数年前のことであり、カントの生前は、カント哲学がドイツ全土で中心的な地位を占めるということはなかった。じつはカントの哲学がドイツ全土に大きく広まるのは、ドイツ帝国誕生後に、「新カント派」と呼ばれる学派が誕生してからの話である。

画像9

▲カント(出典

20世紀初頭の国際哲学としての「新カント派」の隆盛と落日

 新カント派は、専門家の間でも、もはや廃れて久しい学派として認識されている。しかし、特に我が国にとっては、新カント派の影響は現在でも無視できるようなものではない。新カント派は明治末から大正にかけて日本に紹介される。東京帝国大学では桑木厳翼や左右田喜一郎、京都帝国大学では西田幾多郎や九鬼周造といった当時の日本の哲学界を代表する面々が、当時の最新の思想として新カント派を熱心に研究する。20世紀初頭の日本では、新カント派を軸として、フランスのベルグソンやアメリカのジェイムズ、そしてカント以降のドイツの哲学者を理解するといった方法が一般的となった。なぜこのようなことになったのだろうか? それは、彼らをはじめとする多くの日本の哲学者が、最先端の哲学の地としてドイツに留学したが、その頃のドイツでは新カント派が猛威を振るっていたからである。

 1810年に設立され、プロイセンの中心的大学の一つとなっていたベルリン大学で大きな影響力を持っていたのは、もちろんヘーゲルである。彼の生前から死後しばらくはヘーゲル学派が絶大な影響力を誇っており、ヘーゲルに否定的な言動をすればドイツ領内の大学での地位が危ぶまれるほどであった。しかし、その影響力は徐々に弱まる。1870年代に大きな影響力を持つようになるのは、マールブルク大学やハイデルベルク大学、フライブルク大学などで教えていた哲学者であった。彼らは「カントに帰れ(Back to Kant/Zurück zu Kant)」という掛け声のもと、カント研究に没頭する。カントの著作の中に当時山積されていた哲学的問題を解決する手がかりが隠されていると考えていたからだ。じっさいには彼らの見解はまちまちだったのだが、彼らはそれぞれのやり方でカント研究を大流行させる。そして「新カント派」と呼ばれることになる。
 マールブルク、ハイデルベルク、フライブルクはどれも、ベルリンのような大都市にある大学ではない。マールブルクはドイツ中央部にあるヘッセン侯国、ハイデルベルクとフライブルクはドイツ南西部にあるバーデン大公国という、プロイセンやオーストリアに比べれば比較的小さな国家に属していた。だが、いずれも普墺戦争とドイツ帝国の誕生により、帝国の構成国家となる。これは、プロイセン大学制度を引き継いだドイツ帝国の大学制度の管理下に入ることを意味する。それだけでなく、新たにドイツ帝国の大学となった各大学には大きな資金が流れ込むことになった。それまでのドイツ諸邦とは異なり、ドイツ帝国における大学はプロイセン式であり、国家に役立つ人材を育成する機関として位置付けられていたからである。じっさい、1870年代にドイツの学生数は激増し、それに伴い、大学教員も増加の一途をたどる。この大学バブルの恩恵を最も被った哲学者こそ、カントである。例えば、ある統計によれば、1860年代にドイツの大学でカントを教える講義の数は年平均で5を切る程度だったが、1870年代後半には年平均で20を超えるまでに至る。対照的に、1860年代にはカントと並んでいたヘーゲルの講義数は、1870年代後半には年平均1近くにまで減少する。この勢いはさらに続き、1897年にはカントを専門に扱う学術専門誌『カント研究(Kant-Studien)』が創刊され、カントの死後100周年に当たる1904年にはカント協会(Kant-Gesellschaft)が設立される。

 ドイツにおける新カント派の繁栄は、1920年代に急速に終焉する。ドイツが第一次世界大戦で敗戦し、それまでのように大学に巨額の資金を投入することが不可能になったためである。前回の連載で、1930年代のポーランドとドイツの関係が良好でなかったと書いたが、新カント派の哲学者やそれに同調していた科学者からすれば、第一次大戦の敗戦により、彼らの躍進をもたらした大学バブルは終わり、それを支えていた帝国も崩壊する。それに加えて、彼らの崇拝するカントと切っても切り離せない古都ケーニヒスベルクがドイツの飛び地になったのである。彼らの憤りは相当なものだったであろう。
 ところで、第一次世界大戦の勃発は、国際的な哲学シーンにも影響を及ぼす。それまでは大国ドイツの最新思想として新カント派を研究していたフランス、イギリス、アメリカなどの研究者にとっては、新カント派は敵国の哲学ということになり、おおっぴらに研究するのは難しくなったのである。こうして、新カント派の姿は驚くほど急速にシーンから消えていくことになる。だが例外もあった。日本である。上述の日本の哲学者のうち、桑木厳翼、左右田喜一郎、九鬼周造は20世紀初頭に新カント派の中心地の一つであるハイデルベルク大学に留学する(西田は海外留学をしなかった)。彼らは帰国後に新カント派を日本に広めるだけでなく、大正デモクラシー期に教養主義、文化主義の潮流を生み出すが、教養と文化は当時のドイツと新カント派のキーワードでもあった。我が国の哲学における新カント派の影響力はその後も続き、戦後にマルクス主義や実存主義が大きな潮流となるまでは、日本の大学では哲学の中心であり続けたのである。

画像10

▲ハイデルベルク大学(出典

オーストリアの大学制度と哲学〜カトリック教会の影響力とドイツ観念論への距離感

 さて、話をオーストリアに戻そう。オーストリアでは、こうした新カント派の興隆はなかった。理由は単純である。オーストリアはドイツ帝国に加わることができなかったため、ドイツ帝国で生じた大学バブルの影響を受けなかったからだ。もちろん、同じ「ドイツ人」として、オーストリアのドイツ人には少なからず影響があっただろう。しかし、オーストリア帝国が多民族国家であったことを思い出して欲しい。例えば、フォン・ノイマンが学んだブダペスト大学。ブダペスト大学はハンガリー王立大学として存在していたが、民族独立運動の激化に伴い、1840年代から授業はハンガリー語で行われていた。あるいは、チェコのプラハ大学。プラハ大学はマリア・テレジアの命により、帝国直属の大学となっていたが、同様にチェコ人の影響力が増大した結果、1882年にチェコ語で授業を行うチェコ・プラハ大学とドイツ語で授業を行うドイツ・プラハ大学に分裂する。新カント派の哲学者はカントに関する著作を大量に出版していたが、当然ながらそれらはすべてドイツ語で書かれており、ブダペスト大学やチェコ・プラハ大学で学ぶ学生にとっては縁遠いものであった。国民の大半がドイツ人であるドイツ帝国とは異なり、多民族国家であるオーストリア帝国では、帝国が大学教育に大きな影響力を行使することが難しかったのである。
 もう一つ興味深い要因がある。オーストリアの大学でカントの著作を広めることは、政治的理由により、政府によって禁止されていたのだ。カントは社会契約説を支持しており、フランス革命を支持していた。共和主義者や民族独立運動に苦しんでいたオーストリア帝国にとっては、都合が悪い存在であっただろう。
 オーストリアでカントの著作が発禁処分を受けたより重要な理由として、カントがプロテスタントだったことが挙げられる。オーストリアはカトリックの国である。そもそもオーストリア帝国は、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世が、ナポレオンに皇帝位を剥奪される前に自ら神聖ローマ帝国を解散し、新たにオーストリア皇帝として即位したことに始まるのだが、神聖ローマ帝国の「神聖」とは、カトリックの最高位であるローマ教皇に認められたことを意味している。つまりオーストリアにとって、カトリックは国教と呼べるものだったのだ。そして19世紀までのヨーロッパの大学は教会と結びついており、大学の人事ですら教会の意向を無視できなかった。オーストリアの場合はカトリック教会である。じつはカント哲学は、その自由主義的側面から、カントの生前からカトリック協会の権威に逆らうものとみなされており、カトリック教会の影響力が強い大学では、しばしば教えるのが禁じられていたのである。

 比較のため、プロイセンの事情を見てみよう。オーストリアとは対照的に、プロイセンでは宗教の自由が比較的認められていた。もともとドイツ帝国になる前のプロイセン王国はプロテスタント国家であり、ケーニヒスベルク大学もプロテスタント神学の中心地の一つだった。また、プロイセンは神聖ローマ帝国内の小国家ブランデンブルクが帝国内外の周辺諸国を吸収して大きくなった国家であったため、非ドイツ人も多く居住していた。その中には、差別はあったもののユダヤ人も含まれており、プロイセン経済の発展を手助けしていた。そして1812年、大学改革と同様に、ナポレオン戦争敗退後の国家再建のためという理由で、ユダヤ教徒解放令が出される。これにより、ユダヤ人にもプロイセン王国の市民権が認められ、キリスト教と同等の自由な経済活動が認められるようになる。さらに、ユダヤ人にも大学入学資格が認められることになる。大学改革の結果、プロイセンの大学は国家の管理下にあり、教会の影響力が限定的だったからである。

画像11

▲ケーニヒスベルク大学(出典

 オーストリアは神聖ローマ帝国の後裔であり、カトリック教会が絶大な影響力を持つ古い保守的な国家とみなされていたのに対し、プロイセンは1850年に立憲君主制に移行しており、同時代の欧米の進歩的知識人は、プロイセンをヨーロッパ随一のリベラルな国家とみなしていた。新カント派はドイツ帝国成立の恩恵で大きな躍進を遂げたわけだが、保守的なオーストリアでは、リベラルなドイツで新カント派の躍進を可能にした要因がまったく揃っていなかったのである。
 すなわち、20世紀に入った頃のドイツでは新カント派の勢いが頂点に達しており、日本からドイツに留学した哲学者たちも、それを見て新カント派を最新の思想として持ち帰った。それに対し、オーストリア領内では、新カント派どころか、カントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論すらほとんど広まらず、あいかわらずカトリック教会が大学の人事権を指図する状況が続いていたのである。そんなオーストリアに独自の「哲学」が存在しえたのだろうか? だが、そもそもドイツですら、国内が完全に新カント派一色に染まったわけではなかった。ある国の哲学が特定の学派一色に染まったように見えたとしたら、それは単に思い込みである。新カント派は、あくまで帝国成立に伴う大学バブルで勢力を伸ばしただけであり、それ以前からのアリストテレスやプラトンといった古代ギリシャ哲学の支持者が存在していた。加えて、イギリスからは自然科学の大幅な発展と産業革命による経済的発展により、ロックやヒューム、ミルといった哲学者に代表されるイギリス経験論が浸透してきていた。新カント派の哲学者は、それまでのドイツ哲学に対して古代ギリシャ哲学やイギリス経験論によって突きつけられた問題の答えをカントに求めたのである。
 一方、新カント派がいなかった当時のオーストリアではまさに、古代ギリシャ哲学とイギリス経験論を組み合わせた「ブレンターノ学派」という新しい学派が広まっていた。

「ブレンターノ学派」が心理学に導入した近代科学的方法

 ブレンターノ学派の開祖は、フランツ・ブレンターノというイタリア系ドイツ人哲学者である。1838年にカトリック信者の家に生まれたブレンターノは、ベルリン大学でアドルフ・トレンデレンブルクという、ヘーゲル哲学に最初に反旗を翻したことで知られるアリストテレス哲学の専門家の指導を受ける。ブレンターノは1862年にアリストテレスについて博士論文を提出するが、その後、家庭の事情もあり、カトリックの神父となる。これによってブレンターノの学者人生は閉ざされたように思われたのだが、幸運なことに、上司であるヴュルツブルク司教の許しを得て、ブレンターノは神父でありながら教授資格論文に取り組めることになる。そして1867年に『アリストテレスの心理学』と題された論文をヴュルツブルク大学に提出したブレンターノは、同大学でわずかながら哲学の授業を担当する機会を得る。当時の教え子の中には、ベルリン大学心理学研究所を創設するカール・シュトゥンプフや、プラハ大学の哲学教授となるアントン・マルティがいた。しかし、当時のドイツの大学の哲学科には教会からの影響力を嫌う教員が多数おり、カトリックの神父であるブレンターノが正式な教授のポストを得ることはできなかった。

画像12

▲フランツ・ブレンターノ(出典

 ヴュルツブルクでブレンターノは、イギリス経験論の哲学者ミルとフランスの実証主義者コントの著作と出会う。両者の背景にある近代科学の方法論に大きな感銘を受けたブレンターノは、アリストテレス哲学に近代科学の方法論を接合することを試み始める。しかしその過程で彼は自らの信仰に疑いを持つようになり、最終的に神父を辞職し、同時に大学からも退職せざるをえなくなる。
 失意のブレンターノを救ったのがオーストリアのウィーン大学だった。障害も多数あったのだが、最終的に「元」カトリック神父のブレンターノは、カトリック教会の抵抗を退け、ウィーン大学で正式な教授に就任するのである。それはドイツでは新カント派が大きく勢力を伸ばしていた1874年のことだった。
 ウィーン大学でブレンターノが得た職は心理学の教授だった。ただし、当時の心理学はまだ哲学から分離しておらず、哲学の一分野とみなされていた。ブレンターノこそ、科学的な心理学の方法論を提唱し、心理学が哲学から独立する道を拓いた一人だった。こうしてブレンターノの名は、実験心理学の父と称されるヴントと並ぶ心理学者として、国際的に知られるようになるのである。
 ウィーン大学でのブレンターノは教師として大きな成功を収める。彼の教え子には、のちにチェコスロヴァキア大統領となるトマーシュ・マサリャク、オーストリアのグラーツ大学にオーストリア初の実験心理学研究所を創設するアレクシウス・マイノンク、ポーランドのルヴフ大学総長となるカジミェシュ・トファルドフスキ、そして現象学の創始者であるエトムント・フッサール、さらには精神分析の創始者であるジグムント・フロイトといった錚々たる面々が並ぶ。
 ブレンターノの心理学は、大きく発展した近代科学の方法論を全面的に取り入れたものだった。ブレンターノにとって、哲学は自然科学と同じ方法論でなされるべきものであり、それは科学的な心理学が哲学の基礎となることによって初めて実現されるものだった。この点で哲学と科学を峻別するドイツ観念論とはまったく異なる。じっさいブレンターノはカントを嫌っており、カントよりもヒュームを高く評価していた(その理由には、カントがプロテスタントであることも含まれていただろうが)。ドイツ観念論(そしてそれを受け継ぐ日本の哲学教育)では、カントはヒュームらのイギリス経験論とデカルト、ライプニッツらの大陸合理論を統合した近代哲学の祖とされているが、ブレンターノのカントに対する評価は手厳しい。ブレンターノによれば、カントは哲学を自然科学から切り離すことで堕落させた張本人の一人なのだ。
 ブレンターノの弟子たちは、グラーツ大学やプラハ大学というオーストリア帝国内だけでなく、帝国外のポーランド、さらには隣国ドイツにまでブレンターノの哲学と心理学を広める。こうした影響力がゆえに、彼らはのちにブレンターノ学派と呼ばれるようになるのである。ただし、このことが意味するのは、単に科学的な心理学が広まったということではない。その点に関しては、ヴントの貢献の方が大きかっただろう。では、ヴントとブレンターノのどこが違ったのだろうか? ヴントは1832年にハイデルベルク大学のあるバーデン大公国で生まれ、1856年にハイデルベルク大学で学位を所得し、1874年までハイデルベルク大学で働いている。当時のハイデルベルク大学は新カント派の根拠地の一つとなりつつあり、ヴントが実験心理学を始めた背景にも新カント派の影響があった。じっさいヴント自身もカントからの影響を認めているぐらいである。ヴントの実験心理学がカント哲学を背景にしたものであったとするならば、ブレンターノ派の心理学はどうだったのだろうか? ブレンターノにとって、ヴントにとってのカントに相当するのは誰なのか? それはアリストテレスである。
 ブレンターノが博士論文や教授資格論文で題材にしていたのがアリストテレス哲学であることはすでに述べた通りだ。ブレンターノは、まずは現象を虚心坦懐に観察した上で論理的な分析を与えるという近代科学の基本的なスタンスを、アリストテレス哲学のうちにも見出すのである。ブレンターノがしたことは、アリストテレスの哲学をアリストテレスの時代にはなかった近代科学でアップグレードしたことだと言ってもよいかもしれない。そしてアリストテレス哲学をベースにしていたことは、オーストリアでのブレンターノ学派の普及にとって重要な帰結をもたらすのである。

アリストテレスに範を求める姿勢としての「オーストリア的」なるもの

 ブレンターノ学派はオーストリアで広まっていったが、ブレンターノ学派とオーストリア哲学をイコールで結ぶことはできない。なぜならブレンターノ学派は、フッサールやシュトゥンプフらによって、ドイツやその他の国々にまで広まったとみなせるからだ。だが、ブレンターノ学派よりも「オーストリア的」と呼べる哲学など存在するのだろうか? 注目すべきは、オーストリアがカトリック国家であることだ。カトリックを代表する哲学者といえば、アリストテレスである。カトリック神学はアリストテレス哲学に基づいて構築されたものであり、ヨーロッパの大学でアリストテレス哲学が長らく研究されてきたのも、カトリック神学との関係があったからである。

画像13

▲アリストテレス(出典

 オーストリア帝国ではカトリック教会が権威を持っており、大学の人事にまで指図していた。これは、カトリックの信者でないと大学で職を得るのが極端に難しいということを意味する。じっさい、フォン・ノイマンを指導した数学者フェイェールがブダペスト大学の職を得たとき、彼はすでに国際的に著名な数学者であったにもかかわらず、ユダヤ人であることが問題視された。もしフェイェールがその職を得ることができなかったならば、フォン・ノイマンの経歴、ひいてはコンピューター・サイエンスの歴史にも少なからず影響があったはずである。
 カントの影響を受けたヴントの実験心理学がオーストリアに入ってきたにしても、その影響はドイツと比べればかなり限定されたものであっただろう。カトリック国家であるオーストリアには新カント派はおらず、カントは発禁の対象だったからだ。しかし、アリストテレス哲学に基づくブレンターノ学派の心理学であれば話は別だ。オーストリア帝国内の各地の大学で行われていたのは、アリストテレス研究の一環として、実験心理学や記号論理学、集合論を研究することだったのである。さらにはこれが、オックスフォード大学でアリストテレスに親しんでいた哲学者のギルバート・ライルをブレンターノ学派に結びつけることになり、分析哲学が広まる一因となるのだが、残念ながらこの話題をこの連載で扱うことはできない。
 カントは単に自身もプロテスタントだったというだけでなく、プロテスタントを代表する哲学者である。有名な社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、ウェーバーが新カント派の系譜に属していたことと無関係ではない。プロテスタント国家だったプロイセン王国を中心とするドイツでは、カントは国民的英雄のような立場にあったのだ。一方、カトリック国家であるオーストリアでは、カントは英雄どころか発禁の対象であり、カントの代わりに近代科学に基づく哲学と心理学を広める役割を担ったのはアリストテレスだった。
 カントとアリストテレス。まったく異なる時代に生きたこの二人の哲学者は、決して真っ向から対立する学説を展開したというわけではなかった。だが、プロイセンとオーストリアの争い、それと並行するプロテスタントとカトリックの争いの結果、20世紀初頭の西洋哲学では、カントとアリストテレスは両立しえない哲学者になっていた。オーストリア哲学とは、近代科学の発展によって再考を迫られていた科学と哲学の関係に関して、ドイツとプロテスタントを代表するカントに従うことを否定し、科学と哲学を連続的に考えていたアリストテレスに範を求める哲学のことなのである。このドイツとプロテスタントを否定するという点にこそ、「オーストリア的」の本質があるといえよう。

 だいぶ遠回りをしてしまったが、話をコンピューター・サイエンスの歴史に戻そう。コンピューターの父アラン・チューリングが「チューリング・マシン」という発想を広めたことはよく知られているが、そもそも彼はどうしてそのような発想にたどり着いたのだろうか? じつはそれを説明するためには、19世紀末から20世紀初頭にかけての数学基礎論の話をしなければならない。中心となる舞台はドイツであり、その背景には、新カント派によって広められたカント哲学があったのである。

(つづく)

▼プロフィール
小山 虎(こやま・とら)

山口大学時間学研究所講師. 大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。 専門は分析哲学、形而上学、応用哲学、ロボット哲学。論文に“Against Lewisian Modal Realism from a Metaontological Point of View”, Philosophia, Vol.45, No.3, pp.1207-1225,2017, “Ethical Issues for Social Robots and the Trust-based Approach”, Proceedings of the 2016 IEEE International Workshop on Advanced Robotics and Its Social Impacts, 2016 など。編著に『信頼を考える:リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房,2018年)、訳書にデイヴィッド・ルイス『世界の複数性について』(共訳, 名古屋大学出版会, 2016年)などがある。

『知られざるコンピューターの思想史』配信記事一覧はこちらのリンクから。
前回:第1回 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真
この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
宇野常寛が編集長をつとめる〈PLANETS〉の公式noteです。政治からサブカルチャーまで、さまざまな分野のスペシャリストが集まっています。独自の角度と既存メディアにはできない深度で、読むと世界の見え方が変わる記事を月に20本以上の記事を配信しています。