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沿線風景の話(掌編小説)

 真冬の夜更けに私は学生時代に乗っていた電車のことを思い出す。私のアパートは多摩の国立(くにたち)にあり、大学は新宿区にあった。中央線の快速、総武線各駅停車の中央線乗り入れ、地下鉄東西線の中央線乗り入れ、通学にはそういう路線、そういう電車を使った。

 国立、西国分寺、国分寺、武蔵小金井、東小金井、武蔵境、三鷹、吉祥寺、西荻窪、荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、中野、落合、高田馬場……駅名のアナウンスは毎日のように聞いた。当時は録音された音声ではなく、車掌の肉声だった。

 1980年代の前半。バブル経済前夜の日々だった。部屋に風呂のあるアパートを借りられた学生は稀だった。部屋に電話を引くことのできた学生も少なかった。定期券は駅員が目視で確認していた。自動改札などごく一部にしかなかったのだ。

 ないない尽くしの日々に時間だけはあった。余白があった。車窓からの風景の中にも余白はあった。空は広かった。当時の国立駅のホームは築堤の上にあり、そこよりも高い建物は、数えるほどしかなかった。人々は「平屋の街」に生活していたようなものだった。

 私が新宿区の大学から遠く離れた国立にアパートを決めたのも、一つには雑踏と過密を避けたかったからだった。当時、三鷹から西の中央線は高架から降りて、三鷹まで際限なくビルや家の連なっていた遠景からも離れた。国立に近づくに連れ、車窓から見える風景にも緑が多くなり、雑木林の片鱗が紛れ込んでくるようになった。
 
 ずっと後になって、国立の駅周辺はそもそも山林だったところを開発したものだということを知った。一部の斜面など、宅地にならないところは元々の雑木林が残っていたのだった。西国分寺から西進すると中央線は切通しのような地形に沿う。それも武蔵野台地の一部だった。
 
 切通しが終わる頃には快速電車は減速を始めている。そうして国立駅に電車が滑り込むと、そこはもう郊外の小都市の雰囲気になる。小高い築堤上のホームに降り立てば、雑駁な気配のある武蔵小金井などとは違う空気を感じることになる。
 
 私の記憶が正しければ、国立駅下りホームの西国分寺寄りからは、駅前から真っ直ぐ南へ伸びる大学通りの並木が見えた。下りホームは西国分寺寄りのほうが眺めが良かった。だからいつも、下り電車に乗るときは車両後端近くに乗った。そのほうが空いているし、改札の混雑も少しは避けることができる。

 国立でアパート暮らしを始めて最初の1年、この駅に降り立つことは必ずしも気分のいいものではなかった。それは、駅から20分ほど歩いて、誰も待ってはいない小さな部屋に帰ることを意味していた。
 
 だからその頃は、時間ができると、都内のあちこちにいた高校の同級生や大学の同級生の部屋をよく訪ねたものだった。南武線や小田急線に乗り、独りで移動した。当時の南武線はほとんどローカル線の風情であり、いかにも武蔵野の片田舎みたいな光景もよく目にした。
 
 小田急線にしたところで、新百合ヶ丘の駅前には当時まだ何もなく、段々に整地されたばかりの地面がホームから眺められたくらいだった。今そこにはアスファルトやコンクリートに覆われた地面以外を見ることができず、遠くまで見通せるような風景もない。
 
 40年近く経つとそれくらい物事は変化するのだった。気づかないうちに、電車の窓は雨の日も曇らなくなった。どうやらペアガラスが使われるようになったかららしい。駅の構内からは、煙草の煙もほとんど消滅した。

 国立に暮らすようになって1年あまり経ったころ、行きつけのカフェができて、そこで何人かの人々と知り合い、ようやく行く場所ができた。国立駅から真っ直ぐにアパートの4畳半を目指すことは稀になり、富士見通りにあったそのカフェに立ち寄るのが日課になった。

 それで、国立へと下る電車へ乗ることは以前とは違うニュアンスを帯びるようになった。アパートへ帰るというより、国立へ帰るのだという気分で乗車するようになった。電車が国立駅について、後部車両からホームに降り立つとき、足がどこに向くかはわかっていた。

 郷里の街にも友人はいた。いたが、国立でできた人間関係はそれとまったく異なるオーラを帯びていた。国立では自分を名字で呼ぶ人間より、名前で呼ぶ人間のほうが多かった。初めて、自分を全体的に受け入れてくれる人々と出会ったような気がした。

 大学を卒業すると、私は国立から離れた。郷里へと戻って、そこで職を手にした。国立に残るという選択もできないことはなかったが、自分のやりたいこととの兼ね合いからそれは難しかった。

 30年近く経った頃、私は新宿駅から中央線快速に乗った。平日の昼下がりで、電車は空いていた。私の隣には連れ合いが座っていた。

 電車が三鷹駅を過ぎると、私は目を皿のようにしてかつて毎日のように眺めた沿線風景に見入った。ミシン会社、東京経済大学の敷地、国分寺駅で見えた西武多摩湖線の末端。

 それらのほとんどが様変わりしてしまっていた。中央線そのものも高架になったので、見える風景が以前とはまるで異なっているのだ。何もかも、1980年代の前半とは違うものになっていた。
 
 電車が国立駅に着いた時、高架になった下り線ホームは、以前よりも高い場所にあるはずなのに、そうは見えなかった。周りにそれよりもずっと高い建物がいくつもできていたからだ。連れ合いと電車を降りた私は、改札口に向かって歩き出しながら、もはやここが往時の国立ではないことを知らざるを得なかった。

 改札を出てからは、私は連れ合いと二人、以前に通っていたカフェのほうへと足を向けた。見知らぬ沿線風景と様変わりした駅前の向こうに、旧い友らが集った店がある。私は連れ合いとその店の入ったテナントの階段を上って、ドアを開けた。

                               (了)


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