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冬枯れと足音(掌編小説)

 彼は冬枯れの雑木林を歩いた。住宅地と市街化調整区域のあいだぐらいに小さな丘があり、その丘だけは昔日からの雑木林が切り倒されることなく残っていた。雑木林は私有地らしかったが、そこに入って咎められるようなことはなかったし、柵や有棘鉄線もなかった。

 林の中には、けもの道のように人が踏んだ跡が残っていた。何か所か、雑木林の中に入るルートがあり、それが丘のいちばん高いところにある小さな広場のような場所に集まっていた。広場のところだけ、クヌギの木は生えておらず、代わりに誰が持ってきたのか、キャンプ場にあるような、テーブルとベンチが一体になったものが置かれていたが、それは半ば朽ちかけていた。

 緩やかな傾斜で落ち葉を踏みしめてゆくと、クヌギの幹の向こうに住宅地の家並みが望めた。どれも同じような造りの家で、どれも同じように隣の家に寄り添っていた。家並みが途切れたところからは冬枯れの耕作地が続き、数百メートル以上先を横切る私鉄の線路のまだ向こうまで続いていた。

 彼の住まいは戸建ての住宅地の中にはなかった。住宅地の反対側にある8階建ての集合住宅の3階に、妻子と暮らす彼の3LDKがあった。10年と少し前に中古で買った物件だった。

 傾斜を上りつめて、彼は丘の上の小さな広場に出た。誰もいなかった。傾いた冬の陽がクヌギの影を落ち葉で埋まった地面や古びた野外テーブルの上に落としていた。

 ひと気がないことに彼は安心した。これからやることを誰にもじゃまされたくなかった。クヌギの木立ちを見上げると、その枝の交錯の中に冬の空が透けた。それは遠かった。冬の空の青はいつも遠いが、青年時代や少年時代よりも今はもっと遠くなったような気がした。

 彼は荷物を入れた厚い帆布製のトートバッグを野外テーブルの上に置き、少し離れたところに屈みこんで、持ってきた小さな箒で落ち葉を掃くように集め始めた。しばらく続けると、半畳ほど、関東ローム層のこげ茶色の地面がむき出しになった。

 そのまん中のあたりに、彼はトートバックから取り出した急須ほどの大きさの金属の筒を置いた。それから、積み上げた落ち葉を左手で一掴みし、その端にオイルライターで火をつけ、筒の中に入れた。見るまにそれは燃え上がり、炎が筒の上端から昇った。

 その炎が消え去る前にまた彼は落ち葉の燃料を足し、それを繰り返した。木質のものが燃えるときの匂い、つまりは焚火の匂いが辺りに満ちた。その匂いに彼は胸を締め付けられるような気分がした。それは遠い遠い昔に、まだ電気もガスも水道もなかった頃に生きていた過去世の自分に刷り込まれた何かのようだった。

 風はなかった。不用意に煙など出して、要らぬ通報などされぬように、彼は十分に注意しながら落ち葉を筒の中で燃やし続けた。そろそろ潮時かと思ったとき、不意に背後に人の足音を聞いてはっとした。

 自分と同じ年恰好、いや、少し上くらいの壮年の男がニットの帽子を被って立っていた。彼は、何か言われるかと身構えたが、男の口調は違っていた。「珈琲でも沸かすおつもりなんですか」
「いえ、ただ落ち葉を燃やしているだけですよ」と彼は答えた。それから、言い訳するようにこう付け加えた。「新しいストーブを手に入れたので、つい試してみたくなったんです」

「そうでしたか。ここはなかなか気持ちのいいところですからね。私も焚火をやってみたいと思ったことがありますよ」と男は言った。「近頃じゃ、キャンプ場でも行かないと焚火ひとつできない。便利だか不便だかよくわからんですな」
「ええ」と彼は相槌を打った。「下手をするとベランダでマッチも擦れないのかもしれない」

 二人はそこでそうやってしばらく、他愛のない世間話をした。その間に筒型の小さな燃焼器具の中で落ち葉はすっかり灰になっていた。やがて二人はそれぞれ別のほうに雑木林の小さな丘に通う道を下っていった。

 翌日、彼はフィールドジャケットを着たときに、ポケットの中に落ち葉が紛れ込んでいるのに気付いた。その前に、連れ合いが「なんだか焦げ臭いような匂いがするわね」と言った。

                               (了)

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