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夜の底の白い明り(掌編小説)

 その夜、彼はアパートの部屋で炬燵に潜り込むようにして文庫本を読んでいた。冷え込んだ一月の夜だった。カーテンの下からは隙間風の冷気が流れてきて、それがときおり、仰向けになった上半身を撫でた。フリースも手頃な価格のダウンジャケットもない時代だった。実家から送ってきた、あまり柄が好みでないセーターぐらいしか、部屋の中で着るものはなかった。

 彼には冬の週末をともに過ごすような恋人はおらず、またテレビも電話もない狭い部屋を訪ねてくるような友人もいなかった。読んだ本だけが少しずつ積み重なっていった。どれも古書店で買い求めたもので、新刊本はほとんど手にしたことがなかった。

 その日彼が読んでいたのはSFで、異文明の惑星の果てしない凍土を地球人と異星人が二人、徒歩で旅する話だった。凍えそうな隙間風が入り込んでくるアパートで読む本としては、なかなかふるっていた。

 小一時間ほど読み進んだところで何かあたたかいものが飲みたくなり、手狭な台所で湯を沸かしてインスタントのココアをいれた。小説の主人公たちは雪原を進みながら何を飲んでいたのだろう、と彼は思った。当時のインスタントココアというものは、馬鹿馬鹿しいくらいの量をスプーンでカップに入れないと、ココアらしい味にならないのだった。こんなものを人力で橇を引く旅の荷にすることはできないだろうな、と彼は思った。

 次の一時間が経った頃に、彼は妙に周囲が静かなことに気づき、文庫本を炬燵のテーブルの上に置いて、身を起こした。カーテンを少し引くと、やはり冷気が首元に伝った。木枠の窓に手をかけて、外を見れば、雪になっていた。窓をもう少しあけて、角の街灯のところを見ると、ぼたん雪が舞いながら微光を発しながら落ちてゆくのが見えた。

 彼は作家志望だった。が、本を読むこと以外に、作家になるためにどういう勉強や訓練をすべきなのかは、ほとんどわかっていなかった。小説らしきものを書いたことがあるとはいえ、それが評価されたことはなかった。公認会計士になりたいとか、弁護士になりたいとか、心理療法士になりたいとかということと、物書きになりたいということはまったく別の範疇のことのようなことに思えてならなかった。

 彼は読みかけの文庫本を炬燵の上に残し、米軍放出品のジャンパーを引っかけて外に出た。うっすらと雪が積もりかけている舗道を踏んで、町内に初めてできたコンビニエンスストアまで歩き、菓子パンとチョコレートを買って部屋に戻った。その途中、空を見上げると、街灯の白い光のあるところでは、ぼたん雪が灰色の不定形で次々と落下してくるように見えた。

 彼は手のひらを雪の夜空に向け、その中で溶けてゆく雪の気配を感じた。

 その夜の明け方、彼は夢を見た。枯野を一人で旅していて、雪になった。雪はあっというまに野原を白い無に変えた。どちらに進んでいいのか、どこに辿り着くのか、まるでわからないような広大な野だった。

 そこに降り積もる雪を見ているうち、雪はいつか文字になった。彼が目の前に広げた量の手のひらの中に、文字のかたちをした雪が落ちかかり、それはすぐに溶けて消えた。数えきれない雪の文字が同じ振る舞いをした。
 
 文字は何かしら文章を形作っているようでもあり、意味のない羅列のようでもあり、よくわからなかった。ただただ、無数の夥しい文字が空から落ちてきては、手のひらで失われた。

 この先はどうしようもなく長い旅になるな、と彼は夢の中で思った。

                               (了)

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