奈良和歌山の農村和式民家(2)屋根の型
▼前回『奈良和歌山の農村和式民家(1)』では、瓦を取り上げました。
▼今回は、建物、特に和歌山県北部と奈良県南部の農村和式民家にフィーチャーしてみようと思います。
▼日本の農村和式民家は、屋根と間取りの2側面からそれぞれの特徴を検討してみるのが最も分かりやすいと考えます(本来は、これら2つに加えて構造が検討されるべき)。今回は、屋根を取り上げてみます。
1.農村和式民家の屋根
▼屋根は、農村和式民家を見たときに最も目立ちやすい箇所で、①屋根葺きの材料、②屋根の形の2つが構成要素となります。
(1)屋根葺きの材料
▼屋根葺きの材料には、草(茅(かや)や藁など)、板、瓦、トタン、石などがあります。
▼江戸時代後期の『紀伊名所図会』をみると、当時の農村和式民家の屋根は草葺きが多かったと考えられます(但し、庄屋や上級農民の民家は一部瓦葺きであった可能性が高い)。詳しいことは調べませんでしたが、どうやら、一般農民の住居は瓦を使ってはならないとする法令が存在したようです。
(2)茅(萱)葺き
▼草葺きには、茅(かや)がよく用いられたようです。茅葺きの住宅を建築・維持するためには、以下の2つの条件があります。
●集落の共有林(茅場)があって、茅を安定供給できること
●茅葺き職人がいること
▼明治時代以降、茅場≒集落の共有林が解体・売却されるなどして、茅の安定供給が困難となりました。また、茅葺き職人(屋根屋などと呼ばれた)も少なくなっていきました。
▼その結果、まず大都市とその近郊で瓦葺きやトタン葺きへの転換が進み、茅葺き屋根は山間部で最後まで残りました。これは、山間部では茅を調達しやすかったからです。近畿民俗学会や神吉らは、和歌山県伊都郡高野町、同県伊都郡かつらぎ町の山間部の和式民家を調査し、以下のナラティブを収集しています(神吉ら 2004,近畿民俗学会編1980)。
●明治時代までは、ほとんどの民家が茅葺きだった
●集落民共有の茅場から調達する場合と、個々が採草する場合があった
●屋根葺きのユイ(結)のある村とない村があった
(管理人注:ユイとは、屋根葺きを皆で行うための互助組織のこと)
●茅は11~12月に刈り、乾燥させて天井に保管した
●長年かけて天井裏に溜めた茅を使って、茅葺き職人に頼む
●大正時代以降、瓦葺き民家が現れはじめた。これは、山麓の平地から山間部まで自動車で瓦を運べるようになり、人件費抑制が実現したから
●近年までは、凍害により瓦がよく割れた
(3)茅葺き職人=屋根屋の存在
▼茅葺き屋根を葺く茅葺き職人は、「屋根屋」と呼ばれていました。屋根屋は、和歌山県橋本市周辺や高野山周辺の紀伊山地では「紀州屋根屋」と呼ばれていたようです。
▼『橋本市史』のほか、近畿民俗学会や神吉らは、おもに高野山周辺山間部の地元住民から、この地域の屋根屋事情をヒアリングしています。屋根屋ないし紀州屋根屋の要点は、おおむね以下の通りです(橋本市史編さん委員会編1974,神吉ら 2004,近畿民俗学会 1980,中尾ら 2004)。
●紀州屋根屋の根拠地は、大阪府河内長野市天見、和歌山県・大阪府県境の紀見峠、和歌山県橋本市柱本・紀見・隅田・霜草地区であった
●橋本市柱本地区と霜草地区は、昔から「屋根屋の里」といわれた
●紀州屋根屋は、独特の技法を持つ職人集団であった
●紀州屋根屋は、摂津、河内、和泉、大和、山城にも得意先を持っていた
●紀州屋根屋は、明治時代初期頃までは、木津、難波、天王寺まで出稼ぎをしていた
●紀州屋根屋は、特殊技能を持っていたため、出稼ぎ先で施主から特別な歓待を受けた
●紀州屋根屋は、3人組で屋根葺きの作業をしに来た
●屋根葺きに用いた材料は、山茅、小麦がら、藁であった
●昔は材料の生産も豊富で、価格も安かった
●屋根屋は、農繁期は百姓をし、11月下旬から正月にかけて出稼ぎをする兼業だった
●一般の屋根葺きのほか、社寺向けの特殊技術を持つ檜皮葺き職人もいた
●檜皮葺き職人は、旧高野山寺領(紀ノ川南岸部)に多かった
●高野山周辺では、全国行脚していたと思われる岐阜県や四国、西国の茅葺き職人が毎年のように来て屋根葺きをしていた
●茅葺き職人は、もとは集落内にもいたが、太平洋戦争で戦死していなくなった
●和歌山県伊都郡かつらぎ町花園久木地区では、集落の者が全国行脚する茅葺き職人から技術を学び、その後は地元職人が葺くようになった
▼ほとんどの茅葺き屋根は、昭和後期以降は姿を消し、それとともに茅葺き職人もまた消滅していったと考えられます。
(4)板葺き・トタン葺き
▼次に、板葺きは、江戸時代初期には都市の町家にも用いられていた形式です。昭和前中期までは、紀伊山地などの山間部にもよくみられたようです。板葺きは、寿命が短いのがネックで(平均10~15年で朽ちるらしい)、次第にトタン葺きに転換されたようです。
▼トタン葺きは、安価、軽さ、耐久性という3つの利点があります。特に、経済的に厳しい山間部の和式民家では、茅・草葺きから瓦葺きに転換する過程で、ワンクッションとしてトタン葺きを採用する事例が多かったようです。
(5)瓦葺き
▼さいごに、瓦葺きは、明治維新以後に都市部、都市近郊平野部、海岸地域の一般和式民家に広く普及しました。瓦の大きな特徴であり弱点は、重いがゆえにパワフルな輸送手段を必要とすることです。
▼明治時代以降、瓦の一般家屋への普及には、鉄道やトラックなどの大量輸送交通機関が寄与しています。
2.屋根の形
▼農村和式民家の屋根の形は、西日本に限ると、寄棟(よせむね)、入母屋(いりもや)、切妻(きりつま)の3つがあります。これらの違いは下図を参照して下さい。
▼寄棟とは、4つの傾斜面からなる屋根のことをいい、かつ、破風(はふ:直角の壁になる部分)がありません。寄棟は全国的に分布しています。破風がないので、入母屋や切妻よりも耐風性があるといわれています。
▼入母屋は、3つの形態の中で最も複雑な構造です。複雑ということは、金がかかるということです。江戸時代には、苗字帯刀を許された身分(実質的には大庄屋や庄屋などの村役人クラス)の家屋に用いられたようです。
▼切妻は、主屋の屋根両側を破風にして切り落とした形のことをいいます。切妻は、3つの形態のうち最も単純です。これは、機能に特化した形態と考えられています。つまり、装飾を要求しないような建物(養蚕業を兼ねた家屋、作業場や土倉(土蔵)など)によく用いられたようです。
▼以上をふまえ、疲れ切った眼を保養するため、主に昭和初中期における農村和式民家の写真をいくつか眺めてみたいと思います。一部写真は©を侵していますが、どうかお許しを。
▼まずは、和歌山県伊都郡かつらぎ町中飯降付近の農村和式民家から。
▼次に、和歌山県伊都郡かつらぎ町天野(かなりの山間部である)の茅葺き和式民家。
▼次に、現和歌山県橋本市隅田町真土(奈良県五條市との県境付近)の茅葺き和式民家。
▼最後に、奈良県五條市内の茅葺き農村和式民家。
▼いずれの写真も、ほとんどの住民が農家だった時代を映し出しています。注意すべきは、これらの写真が撮影された昭和中期は、既に茅葺きよりも瓦葺きのほうが安く上がる時代になっていたということです。一見、みすぼらしく見えてしまう茅葺き農村和式民家は、その維持管理に相当金がかかっていたと考えられます。
3.大和棟
▼このシリーズを『奈良和歌山』と銘うったからには、「大和棟(やまとむね)」を取り上げないわけにはいきません。
▼大和棟は、奈良県南部の山間部ではなく、奈良盆地(特に天理市)を中心に、その周辺に広がっていた屋根の形式です。
(1)大和棟とは
▼大和棟の厳密な、学術的な定義はありません。和式民家の主屋の切妻屋根(下図参照)の上に、さらに急傾斜の屋根を載せたような形態で、しかも、その急傾斜の屋根の両側側面は白い漆喰で塗り固められています。
▼急傾斜の屋根の両側側面を瓦で仕上げた部分を高塀(タカへ)といい、高塀を載せている主屋の屋根は落ち棟(落ち屋根)と呼ばれます。
(2)大和棟の構成要素
▼大和棟には、いくつかの独特な特徴があります。
▼まずは高塀(タカへ)。高塀は、急傾斜の屋根両端を瓦で頂上まで葺き上げた部分と、両側の漆喰で塗り固められた土壁をいいます。両側の高塀に挟まれた急傾斜の屋根正面は、原則として草葺きで、時代が下ると瓦葺きやトタン葺きに更新されたようです。
▼大和棟のキモは、急傾斜面の草葺きではなく、あくまでも両側の垂直な高塀です。この高塀が、急傾斜屋根の平面部頂上よりも高いものがより立派な(=金がかかった)形式とされます。
▼次に箱棟及び針目覆。両側を高塀に挟まれた急傾斜の屋根頂上部は、瓦葺きの箱棟、または草葺きによる針目覆です。針目覆の場合、「からす」という棟押さえが必ず奇数本あります(5本、7本、9本、11本)。
▼次に鳩。急傾斜の屋根頂上両端には、瓦製の鳩飾りが配置されることがあります。
▼次に落ち棟(落ち屋根)。これは、急傾斜の屋根を載せている主屋の屋根のことです。高塀の水平面よりも一段低いので、このように呼ばれます。落ち棟は瓦葺きで、急傾斜の屋根の両側に広がっている場合と、片側に広がっている場合があります。
▼次に煙出し。落ち棟には、瓦葺きでやぐら状の煙出しが突き出ています。煙出しの真下には、例外なく竃(カマド)があります。
▼以上が、大和棟のおおよその構成要素です。
(3)大和棟のタイプ
▼大和棟には、高塀(共通型)、ひずみ高塀、台棟(河内型)というタイプがあります。
▼まずは高塀(共通型)。これは、上図のように、両側の高塀が発達して、急傾斜屋根平面よりも高いケースをいいます。
▼次にひずみ高塀。これは、高塀が急傾斜屋根平面よりも低いケースをいいます。
▼そして台棟(河内型)。これは、高塀が頂上まで直線でなく、何らかの形で切り込まれているケースをいいます。台棟は、奈良盆地北西部から河内地域によくみられるため、河内型とも呼ばれています。
(4)大和棟の発達史
▼大和棟が、いつ発祥したのかは分かっていません。大和棟は、基本的には民家です。このことから、いくつかの説が提唱されています(蔵田 1955,千田 1961,杉本 1974)。
▼まずは大陸伝来説。大和棟の意匠に似た屋根形式が、中国の山東省済南や揚子江南部にみられるようです。また、大和棟が奈良盆地から大和川のルートを経て河内地域に伝播していること、大和棟が集中している奈良盆地の宅地割りが古代の条里制=中国大陸の影響を受けているなどの理由から、特に戦前はこの説が有力とされていたようです。戦後、建築史学的な方法論が精緻化されると、この学説は急速にシュリンクしていきます。
▼次に村方(むらかた)階層分化説。白木小三郎という、大阪市立大学の建築学者が提唱した説です。封建社会が安定化した江戸時代中期に、庄屋や組頭など、村落を統治する村役人(村方)が、一般農家とは異なる建築様式を採用することで家格を表現しようとしたというものです。この学説は、多くの研究者から支持されています。
▼次に防火説。この学説が最も合理的かつ現実的で、どの研究者も支持しています。奈良盆地の大和棟の多くは、条里制の下で町家のように密集地域に建てられています。そこで、火災による類焼、延焼を防止するために、家屋の左右に防火壁として高塀を作った(高塀で塗り固めた)というものです。
▼大和棟の歴史がどこまで遡るかについては、近世以降とみてよさそうです。古代、中世初期の庶民の民家は、家よりもむしろ小屋に近く、大和棟どころではなかったはずです。柱と梁という、構造的に安定した家屋が民家となるのは近世以降であることから、大和棟の意匠がそれほど古いとは考えられません。
***(つづく)***
文献
●大日本名所図会刊行会編(1921)『大日本名所図会.第2輯第9編』大日本名所図会刊行会(引用頁番号なし).
●五條市史調査委員会編(1958)『五条市史.下巻』五條市史刊行会(引用p281).
●橋本市史編さん委員会編(1974)『橋本市史.中巻』橋本市.
●保仙純剛(1972)『日本の民俗29』第一法規出版(引用p47).
●神吉紀世子・中尾史郎・鈴木徳子・御船達雄・山本新平・井筒信隆(2004)「高野山を拠点とする人材交流圏における文化的景観の特色―寺院以外の民家・集落・森林環境に着目して―」『住宅総合研究財団研究論文集』31、pp137-148.
●かつらぎ町史編集委員会編(1995)『かつらぎ町史.近代史料編』かつらぎ町(引用巻頭).
●近畿民俗学会(1980①)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(一)古老聞書」『近畿民俗』83、pp3375-3378(引用p3376).
●近畿民俗学会編(1980②)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(II)民家・民具」『近畿民俗学会会報』84/85、pp3438-3444(引用冒頭).
●蔵田周忠(1955)『民家帖(民俗選書)』古今書院.
●日本建築協会創立45年記念出版委員会編(1962)『ふるさとのすまい:日本民家集』日本建築協会(引用p126).
●西川驍(1958)『民家の造形』彰国社(引用p137).
●千田正美(1961)「大和の民家」奈良女子大学文学部地理学教室編『奈良盆地』古今書院(引用p99).
●小学館(1962)『図説日本文化地理大系.第8巻(近畿第3)』小学館(引用p127).
●杉本尚次(1974)『日本民家探訪:民俗・地理学的考察』創元社(引用p152).