見出し画像

平穏という奇妙なもの

大阪の南の果て。
私が小学6年生のころから、実家がある場所だ。
一カ月ぶりにここに来てから、今日でちょうど一週間になる。

両親と自分の洗濯物をたたみながら、自宅の洗剤と香りが違うことに気づく。

一週間前は、両親、上の妹、下の妹とその夫、ふたりの間に生まれた生後1カ月の甥がいて、みんなが騒ぎ室内での人の行き来がたえなかった。

私と同じ東京に住まいがある上の妹はひと足早く戻り、下の妹一家も東大阪にある自宅に帰った。
両親は仕事でいない。
東京にいる夫とも、休日はひんぱんに連絡を取りあうのに、平日はお互い仕事だから、なんとなく遠慮し合っている。

実家で自然とひとりになって過ごしていると、外の工事の音や、風の音が前より大きな音で響く。

ずっと同じような音はあったはずなのに、自分の意識がそこに向いていなかったのだろう。
周りにいる人や自分の意識によって、見るものも聞こえるものも変わる。

ひとりになると「書く自分」が輪郭をもつ。

いま、自分にとって大きな、読む人にとっては小さなカムアウトをしようと思っていて、毎朝、その原稿と向き合っている。
仕事ではないので、私はその文章に損得を求めていない。
あの文章を公開してもしなくても、今の自分自身との向き合い方は変わらないだろうなと感じているので、今も公開しないでいる。

遠くを見て実家のベランダからしか見えないものを見ようとか。
耳をすませて、東京では聞こえない音を拾おうとか。

そんな感覚も、ひとりになると芽生える。

すこし寂しい。
だけど、今の瞬間も人生の中で大切なひとときとして、私の中に眠り、いつか記憶としてよみがえるのだろう。

甥と離れて一週間経つと、実家から、甥の放つ赤ちゃんの匂いが消えたことにも気づいた。

あと3日で東京に戻る。

どこかへ行って戻るたびに、違う景色が見えるのは大阪でも東京でも同じだ。

東京の場合、今はそこに、夫の顔が重なる。

大阪には、大切な人たちがいる。
東京にも、大切な人たちがいる。

記憶が眠る家そのものを恋しく思うのも、そこから連想する人たちがいてこそなのだろう。

洗濯を終えたばかりのタオルからは淡いラベンダーの香りがした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?