見出し画像

新旧ウエストサイド物語を比較する

初めて出会ったのは大学生のころだったと思う。
私の大学の視聴覚室は自由に使える時間があって、そこで『ウエスト・サイド物語』(1961年の映画)に出会った。
ブロードウェイミュージカルを映像化した物語で、のめりこむように私は何度も見た。
高校卒業までという年齢制限のあるミュージカルの劇団に入りたいと願っていた私は、「合格しても行かせない」と親に言われてから、またあることでその劇団の実態を知ってからというもの、落胆してミュージカルそのものが見れなくなっていた。
そんな私の目を再び輝かせたのがこの映画だったのである。

映画と舞台


すぐに舞台版を見たいと思い、上演している劇団四季のミュージカルにはまった。
映画は『ウエスト・サイド物語』、劇団四季の舞台は『ウエストサイド物語』。
映画を先に見た私は、楽曲を入れるシーンが入れ替わっている部分があることに若干の違和感があったが、それ以外は生の舞台の歌とダンス、そして物語に魅せられて『ウエストサイド物語』はいちばん好きなミュージカルになった。

まず簡単にあらすじを説明したい。

スラム街での少年たちのいさかい



貧困層の白人の少年たちから成るジェット団は、さまざまな非行少年のグループに勝ち、メンバーは自分たちの強さを誇っていた。
ところが移民としてアメリカにやってきたプエルトリコの少年たちシャーク団が来てから、自らの立ち位置が脅かされていると感じ対立するようになる。

ジェット団の少年たちは家に帰れば、売春、暴力、薬物に手を染めている家族がいて、彼らにも同じような未来が待っているのは明白だ。
そんな少年たちにとって、ジェット団は外での居場所でもあり、守るべきものだった。

一方、シャーク団にもジェット団を憎む理由がある。
彼らは移民であることから同じ労働をしてもジェット団の白人の少年たちよりかなり少ない賃金しかもらえず、職も限られている。しかし銃犯罪の多発するプエルトリコよりはいいと考えアメリカに来たのだ。
警官ですらシャーク団よりジェット団の味方に近く、彼らにばかにされるのは耐えられないことだった。

ジェット団に勝ちたい、シャーク団を打ちのめしたい…少年たちはみな、その対立を解決するには暴力しかないと信じている。

この物語は『ロミオとジュリエット』をベースにしたロミジュリの現代版である。
アメリカの社会問題をあぶりだしながらも、それを知らなくてもひとつのミュージカルとして楽しめる。

私は評論においてはネタバレをせざるを得ないと考えているので、まだ展開を知りたくない方はここで読むのをやめることを勧める。

スラム街で禁じられた恋が始まる

ジェット団、シャーク団がダンスパーティに参加した日。
それは純愛の始まる日であり惨劇の幕開けでもあった。

主人公トニーは以前はジェット団のリーダーで、今のリーダーのリフは弟分のような存在だ。
更生したトニーはドラッグストアで地道に働き、ジェット団とシャーク団の争いに関わろうとしなかった。

シャーク団のリーダー・ベルナルドの妹であるマリアに出会うまでは。

ダンスパーティで、ジェット団とシャーク団の男たちが彼らと同じ人種の女たちと「マンボ」という曲に身を預けて激しく踊る。
兄のベルナルドから大切にされているマリアはダンスを禁じられ壁の隅から憧れの眼差しで年上の少年少女たちのダンスを見ていた。
トニーは途中から会場に入り、すぐにマリアと目が合う。

ダンスに夢中になっている少年少女はふたりが惹かれあい近づいていくのに気づかない。

パーティの最中、キスをしたトニーとマリア。それを見てしまったベルナルドは激怒してふたりを引き離し、そこにリフが割って入る。
リフはジェット団のリーダー、ベルナルドはシャーク団のリーダーだ。
ベルナルドのトニーに対する憎しみと重なるかのように、ジェット団とシャーク団のリーダーは近々決着をつけようと決意した。

ベルナルドの彼女アニタをはじめとする女たちがアメリカの魅力を歌とダンスで披露する「アメリカ」、ロミオとジュリエットのようにベランダにいるマリアに静かに近づいたトニーが、マリアと互いへの愛を歌う「トゥナイト」、決闘前にジェット団のメンバーの心を落ち着かせるためリフが歌う「クール」(映画では警察を皮肉った「クラプキ巡査どの」と入れ替えられ、「クール」は後半で歌われる)。

さまざまな名曲が流れたあと、決闘の日は訪れる。

マリアの持つ、無垢であるがゆえの残酷さ

決闘を決めたリフとベルナルドだが、マリアのためにもシャーク団と対立したくないトニーは拳での対決を納得させる。

ここから展開が1961年版と2021年版で大きく変わるのだが、61年版の映画と舞台をもとに解説すると、決闘自体をいやがるマリアはトニーに懇願した。

「決闘を止めてきて」

まさかその一言が、大きな悲劇を招くとは知らずに。

振り返るとヒロインのマリアは残酷な女だ。
自分は善良だと自信を持つ人ほど、誰かを傷つけることに鈍感である。

結局ナイフを使った決闘になったと聞いたマリアは、シャーク団でベルナルドの弟分のような存在であるチノに詰め寄る。

「トニーは大丈夫なの!?」

あんなにも自分を大切にしてくれた兄ベルナルドではなく、恋人になったばかりのトニーの心配をするのだ。
もちろんチノは激怒して、ベルナルドを殺したのがトニーだと明かす。

決闘の場で、ナイフを取り出したベルナルドとリフを止めようとトニーが間に入ったことで、事故のようにリフはベルナルドに刺され、弟分が死ぬのを目にしたトニーは勢いでベルナルドを刺したのだ。

やがてパトカーの音がして、ほかの少年たちは逃げ、ベルナルドとリフの遺体、そして呆然とするトニーだけが残され、トニーも、ジェット団に入りたい少女エニーボディズに引っ張られるかたちでその場を離れる。

見た目とは裏腹なマリアとアニタ

ベルナルドには恋人がいた。
準ヒロインであるアニタだ。
ベルナルドがトニーに殺されたと知って、泣きながらベルナルドの死を共に悼みたいとアニタがマリアの部屋に来た時、マリアのベッドは乱れてトニーが窓から逃げていた。

身も心もマリアはまだ少女で、兄を殺したトニーを許して、動揺するふたりは愛を確かめ合うかのようにセックスをしたのだ。

激怒するアニタに対してマリアは自らのトニーへの愛を歌い、「ベルナルドを愛したあなたならかるでしょう?」と泣いて訴える。

そしてなんと、リーダーのリフが殺されたばかりのジェット団がいるかもしれないトニーの働くドラッグストアに行って、そこの店長に伝言を頼んでほしいというのだ。

信じられないことにアニタはその願いを受け入れる。
自分がベルナルドを愛したのと同じようにマリアがトニーを愛していると察したからだ。

「どこまで良い人なんよ、アニタ」

何度見てもこのシーンになると思ってしまう。
スラム街は夜に女性がひとりで外に出るのも危ないはずだ。
しかもドラッグストアにはよくジェット団が集っていて、リーダーのリフが殺されたあと、彼らがそこに集まっている可能性が高い。

アニタの恋人であり自分の兄でもあるベルナルドを殺したトニー。
彼のためにアニタに危険な場所へ行けと頼むマリアも、それを受け入れるアニタも信じられなかった。

序盤、アニタが初めてのパーティに行くマリアの身なりを整える場面があるが、そこにアニタのマリアに対する母性が表われていたのかもしれない。
しかしマリアは、自分なら愛するトニーが殺された場合、彼を殺した相手のために危険を冒してまで行動するだろうか。
これはアニタだからできたことなのだ。

憎しみの行きつく先

しかしマリアはやはりファム・ファタルであった。
恋人が死んだばかりのアニタは、予想どおり敵意むき出しのジェット団に囲まれ、より深く傷つくことになる。
そして彼らに向かって吐いた言葉が、巡り巡ってトニーの死を招く。

マリアはトニーの遺体を前に、「みんながトニーを殺したの」と銃を向けるが、私はマリアがいなければ、ベルナルド、リフ、そしてトニーの死はなかったのではと思えてならない。

ここまでが1961年版の映画と舞台『ウエストサイド物語』の、私なりの捉え方だ。

ここからは1961年版と2021年版の映画の比較にうつりたい。
2021年、スピルバーグ監督によって作られ公開された『ウエスト・サイド・ストーリー』は、1961年版『ウエスト・サイド物語』と時代や設定は変えなかったが、現代的要素を多く盛り込んでいた。

できるだけ客観的な批評をしたいと思うが、デリケートな話題にも触れるので、ここからは興味のある人だけ読めるように有料にする。

ここから先は

3,222字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?