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社会的な倫理観の話

カルネアデスの板というのがある。

舞台は紀元前2世紀のギリシア。一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。(wikiより)

もともと法律的な話から来ているけど、倫理観の塩梅なんだと思う。けど日本人唯一のタイタニック号乗客である細野正文(細野晴臣の祖父)の話で似たような話が存在する。

タイタニック生還者の一人であるイギリス人ローレンス・ビーズリーが1912年に出版した著作『THE LOSS OF THE SS.TITANIC』の中で「他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗った嫌な日本人がいた」と証言したことが日本国内で広まったことにより、細野は当時の新聞や修身の教科書などから批判に晒されたという。

実際は勘違いで名誉は晴れたわけだが、ここでは押しのけたのが事実であった場合は生き恥を晒す羽目になっていたわけだ。

この話って実は非常に難しいのではと思う。例えば我が子と自分でどちらだといえば子供を優先するだろうけど、人の子でも同じことはできるのかであったり、実際に同じ状況に直面してかっこよくそれができるのか?ということがある。

しかし日本の場合、そのあたりの犠牲心を尊ぶケースも多く、できていない場合に非難されることが多い。それもどちらかと言うと「社会的な正義」による非難である。それは法的な話とは縁遠い。

最近、立法をまとめる側が立法を壊してるという変な話になっているが、壊してる側はあまり自覚がないように見える。もしかすると東アジア的な通底する倫理観の方が肌に合うなどの揺り戻しが裏であるのだろうか。

思うにゼロからイチを作った時代は作成背景や思想を持ってたが、壊す側って「今あるものがダメ」で「だからこの思想でこう作り替えよう」がほぼない。壊すだけは蛮族のそれと同じである。

とはいえすでにあちこちで崩壊の一途で「ワレの正義は社会の正義」という感じが強い。いまのところ古代ギリシャ以前ということなのかもしれない。

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