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2極化するメディアと立場を意識しない言論の場への渇望

まとまりない話ですが、メディアや言論について思うことを書いていく。

感情を利用するメディアたち

近年、個人的に感じるのは「既存メディアのSNS化」。物事を推敲せず、その場の勢いで感情的な言語で投げかけている。

よく「片や感染の心配を煽り、その片方でTV観戦で感動をお安くお届け」について批判されるのも、お手軽な感動が、一番話題醸成が容易なコンテンツだからだ。そして消化され消費されなくなったら「新しい感情の種」を探して「これ」といった形で見せていく。昔のフジテレビでいう「面白くなければテレビじゃない」というのもいわゆる「感情発生装置」のそれで、喜怒哀楽の「喜楽」のみ抽出していたわけで、構造的なところは大きく変わってない。

掘り下げ言語化を試みるメディア

話が変わって週末たまたまある動画を見ていたのだけど、最近見るもう一つのメディアの掘り下げ方として「課題・原因の言語化」と「解決方法の言語化」という側面がある。この動画では「イギリスの民主主義、アメリカの民主主義に対する日本の民主主義の違い」を原因の言語化する試みを行い、いくつかの解決の言語化にも踏み込んでいる。

正直解決方法の言語化については、よくある話でしかなかったので共感とまではいかなかったが、現状の問題がなぜ発生しているのかということを、比較対象や今までの歴史経緯を説明することで、なるほどと思うところも多い。なんというか、解決方法については、幕末における「尊王攘夷がいいか、大政奉還がいいか」の議論のようだ。また一つの問題に対してじっくり時間をかけることで、理解がより深まっていく。

これはSNSのような瞬間最大風速のアプローチとは真逆である。つまりアンテナの立て方というか情報の取り方ひとつで、絶望の日々か絶望の中でもあがらいながら生きていくかは選択できる。要は自分の気持ち一つなんですよね。最近のサッカーYouTuberの一部もこれらの言語化については感度高いし意識して探さないといけないのかもしれません。

課題に対する当事者感の問題

違う観点になりますが、もう一つの先ほどの動画における話題として「一人一人が今のこの状況を自分事ととらえているか、行動を取っているか」ということがあった。思うに多くの人は「自分とその身の回りの生活のための自分事」か「まったくもって他人事でお上の話だ」のどちらかでしかないと感じている。

前者においては、①自分の目が届く範囲として一所懸命頑張るケースと、②自分の国まで利用してしゃぶりつく強欲思考のケースのどちらか。後者においては③遠い世界のおとぎ話であくまで他人事でしかないケース。場合によっては日本から逃げてしまいたいとかそのアクションを取るケースもあるだろう。

自分で考えたときに、おそらく立ち位置は①の自分の範囲で精いっぱいというところだろうか。とはいえ、今後「自分の立ち位置はどこだ?」という話はぼかさず語るべきなのではないかとは思っている。これも先程と同じ気持ちの問題なのかもしれない。

少ない言論の場と今後の期待

そのために最初の方で述べた「発生背景と課題・原因」と「それに対する対策・できること」というのは、本当は常に議論すべきだし、思考を止めてはいけないと感じている。

とても不思議なのは、例えばマイケル・サンデルが行う議論(複数の意見を出し合い原因と回答を深めること)というものは、日本発ではあまり見ることがなく、もはや哲学や言論は死んだのではないかと心配する。

今あるYoutubeは双方向に見えて一方にベクトルは強く、クラブハウスやコミュニティサロンも同様で、言論・議論が上位ではなく人が上位のお布施環境のようにしか見えない。(近づかないので偏見は大いにあると思います)よく考えると「立場を考えず議論する場」というものがそもそも欠落しているように思える。片方はお布施を貰うように、片方は踏ん反り返っている。

平準化した言論環境があればいいけど、noteとかでうまく提供できないものですかねえ。

お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。